水精演義
亞今井と模糊
序章 一滴の雫
00話 涸れた泉と居候
「母上……」
声に出してはみたものの、母には届いていないだろう。
立っているのが辛くて泉を囲む土手に寄りかかった。
水の中にあったはずの土はすでに渇いてヒビが入っている。雨でも降れば少しは潤うかもしれない。しかし自分の最期が一日、二日延びるだけだ。涸れる泉を甦らせるほどの雨など見込めないだろう。
泉といっても澄んだ水はほとんどなく、目の前には濁った水が溜まっているだけだ。
――――。
何かに呼ばれたような気がして重い首を持ち上げた。
「あ……にうえ」
もたれた土手の上に兄が立っていた。逆光で表情はよく分からない。
こちらに降りてくることは無さそうだ。
自分はもう助からないのだろう。
自然の摂理で失われるものは助けてはいけない。幼い日、そう教えてくれたのは母だったか、兄だったか。
この泉に水が湧かなくなってどのくらい月日が経ったのだろうか。いつかこういう日が来るとは思っていた。それでも長く持った方だと思う。
この水が完全に消えたときが僕の最期だ。僕が最期に見るものは何だろうか。
出来れば最期に母に会って、別れの挨拶をしたかった。
そうだ、兄上。
今まで数多くいる兄弟に
それを確認した直後、がっかりする間もなくざわりと鳥肌がたった。
何だ……?
鈍い動きで体を元に戻すと、泉のあった場所を挟んで誰かが立っている。じっと僕の足元を見つめていたと思ったら、何も言わずにそっと屈んだ。
もう水溜まりとさえ言いがたい僅かな泥水に手を浸している。黒っぽい泥水のせいか手がかなり白く見える。
……そんなに綺麗な手を汚さないで。
澄んだ淡い色の着物。
天ノ川を思わせる長い銀髪。
自分を見上げてくる濃い色の瞳。
すべてが太陽の光を跳ね返すように主張して眩しい。
誰?
そう聞いたはずだった。でも声がもう音になっていなかった。
母上。僕は最期にとてもきれいなものを見ることができました。どうか末永く、末永くご健勝で……。
どこか遠くに美しい唄を聞きながら、上下の
巡れや巡れ
流れる水よ
この世の行の
この世の悪を凍らせよ
舞えや舞え舞え
飛び散る水よ
この世の行の癒しとなりて
この世の善に渡らせよ
◇◆◇◆
枕元の時計に手を伸ばした。いつもの起床時間よりも少しだけ早い。布団から腕を生やし、大きく伸びをする。寝直すほどの時間はないので、起きることにした。
一晩蓄えた湿気は気になるが、そのまま寝床を整えてしまう。部屋から出て庭に降りた。ふかふかとした草の間に置かれた石の上を辿って水場へ向かう。そこで顔を洗うと額の髪からポタポタと雫が滴った。
朝日を取り込んだ目の前の雫を拭き取らずについ眺めてしまう。
雫――それが僕の名だ。
恐れ多くも水の精霊を束ねる水理王からいただいた名前だ。由来は湧泉だった僕の水がたった一滴しか残らなかったから、らしい。
……僕は小さな泉の精霊だった。
もうほとんど涸れた状態のところを水理王である
だが、精霊の世界では、滅ぶべきものは助けてはいけない
だから僕を救ってくれたのは違反では? と尋ねたことがあった。しかし淼さまは笑いながら、
理王がそう言うならそうなのだろう。
僕はもう泉の精ではない。ただ一滴の雫。それが今の僕だ。まだこの世に存在している。それで満足だ。
額の雫を拭き取りつつ、自室に戻って手早く着替えた。仕上げに前掛けを締めれば、朝食を作る準備は万全だ。
宛てがわれた離れを出て、
ここは本来、僕のような下位精霊が住むような場所ではない。理王が暮らす
泉を失い、居場所をなくした僕に、淼さまが王館の離れを貸してくださったのだ。
初めて王館に足を踏み入れたとき、あまりの荘厳さに呆然として動けなくなってしまった。そんな僕を見て、
主な仕事は炊事、洗濯、掃除など水回りの仕事が多い。淼さまの食事の支度もそのひとつだ。
厨房に立って袖を捲った。
昨夜のうちに海草を
別に誰かに聞かれるわけではない。けれど少し恥ずかしくて、顔が熱い。この後の予定を考えながら、恥ずかしさを誤魔化した。
食事の後は風呂掃除だ。それから応接間の敷物を洗う。霧も晴れて来たし、掃除の前に済ませてしまおう。
忙しいけれど、仕事と住む場所があることは素晴らしい。
出来上がった朝食を冷めない内に運んだ。淼さまはいつもお仕事の合間に召し上がるから、目的地は執務室だ。
慣れた廊下を進み、
先程からお腹の虫が
「
入室の許可をもらい扉を開けた。それと同時に部屋の主に挨拶を送る。
「
入ってやや左側の執務席には水の精霊王である水理王・
「おはよう、雫。すぐ行くから」
「かしこまりました」
執務席から離れたテーブルに朝食を並べた。それを終えて、お茶を蒸らしている間に
「お仕事お疲れ様です。どうぞお召し上がりください」
「ありがとう。雫も座って」
「……し、失礼します」
僕も向かいの席に着く。理王と下位精霊が一緒に食事をするなどあり得ない。愚鈍な僕でもそれくらいは理解している。
仕え始めた頃は給仕として控えていた。だけど控えられていると落ち着かないとか、一緒に食事をしたくないのかとか、あれこれ言いくるめられて今に至ってしまった。
恐れ多すぎて未だに緊張する。
僕が作ったものは何でも美味しいと淼さまは言ってくれる。でも何でも美味しいと言われると、逆に心配になってしまう。淼さまはお優しいから、実は僕に気を使って、口に合わないものを我慢していたら……。
「雫」
「ふぉぁい!」
タイミング良く、いや悪く声をかけられ、変な返事になってしまった。更に悪いことに
「大丈夫か?」
咳き込む僕を淼さまが心配そうに見ている。
「すみ、げ、ほっ、すみません。味を直してきます」
「いや、味はこのままでいいけど何の話?」
「いえ、何でもありません」
「雫、今日の予定は?」
「今日は応接間の敷物を洗って、そのあとは浴室を掃除する予定です」
「あぁ、一昨日頼んだ敷物だね。それなら浴室で洗うといい。広いから洗いやすいだろう。水も使いやすい」
住む場所を与え、仕事をさせてくれるだけでありがたい。それなのに、不自由はないか、困っていることはないか、様々なことを心配してくれる。いつも本当に感謝だ。
「私は
「はい、分かりました」
お陰で場違いな王館にいるのにも関わらず、どうしようもない困難にあったことは一度もない。
でも僕が困っている時を除いて、あまり姿を見ない。きっと僕には理解できないような立派なお仕事を任されているに違いない。
別に羨ましいとは思わない。僕には僕のすべきことがあるから。でも本当はもっと淼さまのお役に立ちたいとも思う。
「雫がいてくれて助かるよ。淡だけだと心配だからね」
「いえ、そんな僕なんて、滅相もない」
母上。
僕は皆に助けられながら、今日も元気に過ごしています。
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