86 師匠の休業
一週間の休暇を決め込んだ新藤は、一日の大半を座敷でだらりと過ごした。
廊下と台所に面した引き戸は開いていることもあれば閉まっていることもあった。食事は台所に置いておいてやれば適当に食べてはいたが、トイレや風呂に向かう姿はといえば、髪はボサボサ、
少々肌寒いぐらいの日になぜかホースで庭に水を
四日目に車でどこかへ半日ほど出かけた新藤は、以降めきめきと回復し始めた。大机で書類に向かったり、仕事道具の手入れをしたりする姿もちらほら見られるようになった。
七日目。新藤が担当するはずだったザンピードの安全化処理の日。代理を務めた処理士から無事終了の電話が入り、一希がそれを受けて礼を言った。
新藤が座敷で食事を終えたのを見計らい、連絡があったことを報告する。新藤は畳を見つめたまま
「それから先生、もう一ついいですか?」
新藤の視線が横に流れて一希を捉えた。随分久しぶりに目が合ったような気がする。
「あの……私、先生に
「何だ」
「前に私の両親の話をした時、先生のお母様が……あの、生みのお母様が、スムだって知らなくて」
「……誰に聞いた?」
「え?」
新藤の表情は変わらなかったが、一希は何となく
「あ、特に誰ってわけじゃ……みんなでいる時にちょっとそういう話が出たもので。すみませんでした、あの時、混血がまるで悪いことみたいな言い方をしてしまって」
「血の話はもういい。俺の言いたいことはあの時に言った通りだ」
「はい」
新藤は黙ってしまったが、一希の存在を煙たがる様子はない。
「菊乃さん今頃、先生のお父様と天国で再会してらっしゃるんでしょうかね」
「……だったら何だ?」
もちろん特に深い意味はなかった。新藤と雑談を続けたくて何気なく口にしただけだ。
「あ、いえ……すみません、余計なことを」
新藤はしばらく眉を寄せて沈黙した後に口を開いた。
「あの二人は二度と会わない方が幸せだ」
「えっ? でも……」
互いに好意を持ち、一つの家族のように生きた二人が世間体から解き放たれた世界で再び顔を合わせることは、いいことであるように一希には思えた。しかし、新藤はそのイメージを打ち消すような
「何を吹き込まれたか知らんが、
「そんな……私は決してお父様のことそんな風には……」
「二人の間ではあくまで合意の上であの形を取ってた。周りがとやかく言うことじゃない」
口調は落ち着いていたが、新藤は静かに
「隆之介さんは……私の職業を生み出した方ですし、先生のお父様ですし、だから私は感謝してますし、尊敬してます」
自分の本音の月並みさがもどかしい。もっと気の利いたことが言えたらいいのに。
「お会いできたらよかったなと思います。まあ、それならちゃんと一人前になってからの方がいいですけど」
「いや……」
と呟いた新藤の視線が床から壁に移る。その位置で気だるげな瞬きが繰り返された。すると唐突に、
「何か果物はあったか?」
「え? あ、ブドウと……梨が一つ」
「ん」
「
ふと
冷えた梨を剥きながら、一希はぼんやりと考えた。遺品を譲り受けた様子もなかったし、アルバムなども新藤の手元にはなさそうだ。胸の内にしかない菊乃との思い出と、新藤はこれからどう付き合っていくのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます