31 菊乃

「んでも、まーさか女の子とはねえ。あいつも隅に置けんわいな」


「あ、えっと、何というか、そういう個人的なあれは……全然ないですから、本当に」


 慌てて言い添えたが、


「そりゃあどうだか」


と、取り合わない。


「あ、そうだ、菊乃さん、腰の調子はどうですかって先生が」


 菊乃は手の甲でポンポンと叩きながら、


「こーれはもう、しょうがないのねえ、時々しくしくね」


「痛むんですか?」


「もう何年も。でーも、まだまだ歩けっからよ。逃げ切れると思いなさんな」


 菊乃はそう言って勢いよく杖を振り上げてみせ、一希は思わず噴き出した。


「新藤先生、よくここにいらっしゃるんですか?」


「いんや、ここんとこ、ちーとも。あたしほったらかし」


とすねる菊乃を、


「仲良しなんですね」


と冷やかしてやる。その瞬間、唐突に菊乃がのけぞり、喉を鳴らして激しく息を吸い込んだ。何かの発作だろうかと一希は慌てたが、どうやら彼女流の笑い方らしい。馬のいななきのような笑い声をヒンヒヒンヒとひとしきり響かせてようやく落ち着くと、勝ち誇ったように告げる。


「仲良しさあ、そりゃああんた、おっぱいしゃぶらした仲だもの」


(えっ!?)


 あやうくその光景を想像しそうになり、寸前で振り払う。まさかまさか。お婆さんが面白がって冗談を言っているだけに違いない。新藤の母親は早くに亡くなっているはずなのだから。


 菊乃は一希を座敷に座らせると、壁を伝うともなしに軽く叩きながら裏の小部屋に引っ込み、慣れた手つきでお茶とお菓子を出した。


 いざ腰を下ろすと、弟子入りの経緯や日々の居候生活に始まり、一希の出身地や年齢、学歴、家族構成まで深々と掘り下げる。遠慮のない物言いは人によっては抵抗を感じるかもしれないが、一希にとってはひとたび慣れてしまえばむしろさっぱりとして心地よいものだった。その点は新藤とも共通している。


 気付けば一時間以上も長居してしまい、あやうく肝心のお菓子を忘れそうになってケラケラ笑われた。菊乃が匂いを頼りに自分で焼いているという自慢の柚子煎餅を一袋おまけしてくれた。




「先生、戻りました」


「おお」


「すみません、遅くなっちゃって。これ、買ってきました。お煎餅一袋はおまけですって」


「ということはお前の分だ」


 新藤は煎餅一袋を一希に渡し、残りの一袋を早速開けながら座敷の時計を見やる。


「随分と引き止められたな。まあ気に入られるだろうとは思ったが」


「楽しかったです。時間が経つのも忘れちゃいました」


「そりゃよかった」


 煎餅を一枚くわえて何やら分厚い本に目を落とした新藤に、


「菊乃さん、素敵な方ですね」


 探りを入れてみるも、


「素敵か。ものは言いようだな」


と素っ気ない。


「電球は玄関に出しといてくれ」


といつもの調子で言い、新藤は読んでいたものの続きに再び没頭した。



  * * * * * *



 その晩、一希は夢を見た。赤い、三日月の夢。帰宅後に、座敷に扇風機が出ていたのを見たせいかもしれない。


 幼い頃、たまにしか抱っこしてくれなかったその胸にしがみつき、くたびれた丸首のシャツを引っ張って素肌を覗き込んでは、無邪気に指先で触れた赤い三日月の形。周りの皮膚とは違うつるんとした感触が面白くて何度も輪郭をなぞりたがり、その度に顔をしかめられてたたみに下ろされてしまったものだ。


 扇風機がゆっくりと首を振るのを見る度に、今でも思い出す夏の風物詩。


 その三日月が見て見ぬふりをすべきものであることを一希が漠然と悟ったのは、小学校に上がる少し前のことだった。

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