悪魔憑き編_10
「自らを取り戻した、いや、世界が転回した、という方が正しいかもしれないです。僕は自らを人間だと強く信じていたのですから」
そして、彼は私の方を見て、ご迷惑をおかけしましたと、丁重な断りを入れる。一方の私はと言えば、固まったままだ。
「牧瀬……という人間は邪悪で純粋な欲望を抱いてました。そして、また、賢かった。牧瀬はずっと人を殺したいという欲を抱え続け生きてきましたが、同時に一人の人間として強く人権を主張する存在でした。彼は欲望を満たすことを善とし、そしてそれで捕まることなどはよしと出来なかったわけです。彼は常に計画を頭の中で巡らせ、じっと機を伺っていました」
「機を……」
なんとか絞り出した声に、悪魔は頷いた。
「はい。正にあの結界に覆われた地下室を見つけるまで、じっと」
「しかし、どうやって見つけたというのだ。あの場所は……あの場所には人避けの結界があったんだ。どうしたって侵入は不可能だ」
悪魔は頷く。
「その通りです。ええ、全くその通り。彼が普通であれば」
「……まさか普通でなかったと?」
「いいえ、彼は一切普通ですよ。あるものを手にするまでは」
彼は首に手をかけると、そこにかけていたものを外した。それは一見ペンデュラムのようだが、石の代わりに安っぽいプラスチックで作られた宝石もどきがついていた。伊良樹がそれを見て、ほう、と驚きの声を上げた。
「これ、マジックアイテムですよ。大衆に晒せば流石に無力化が可能ですが、少しオカルトを齧っている人間には十分すぎる力を渡すでしょうね」
私にはそれがどう見てもおもちゃのペンダントにしか見えないが、牧瀬はこれに強い力を感じたというのだろうか。
「宮本さんも触れれば分かりますよ。しかし、お勧めはしませんし、後に僕の方で回収します。これは危険だ」
私は一瞬触ろうと思った手を引っ込めた。
「これは、どこで?」
伊良樹がそう聞く。恐らく彼としては既に尋問ではなく、ただの興味の質問にすり替わっているのだろう。探るような雰囲気は感じられなかった。
「ああ、大分前に由利根山で見つけたものです」
どうしてまた由利根山の話が出る? 私は眉をひそめた。しかし彼は私の様子も気にせずとくとくと喋り続ける。
「牧瀬は証拠が出にくい場所を探してこの山をさ迷っていました。そしたら開けた場所に出ましてね、そこには神社があったんですよ」
由利根山の神社など、一つしかない。瑠美子が長い間幽閉されていた、あの神社だ。
「そこで拾ったんですよ。パイプ椅子の側に落ちていましてね」
「待て、それは一体いつの話だ」
「五年ほど前ですかね。……このペンダントを見つけた時、牧瀬はこれを拾わなくてはと思ったんです。神社の神によって『こうしなければ』と思う現象があるそうですね。神社に酒を備えなければならない、といったような。正にそれと同じものです。まあ、これは明らか人間の力ですがね」
人間の力はそんなに強くないはずだ。先ほどまで動きの鈍っていたことを忘れたかのように、私は身を乗り出して聞いた。
「どういう意味だ」
「言葉のままです。これは……あなたの言葉で言えば、サイキッカー。その力の鱗片ですよ」
私が伊良樹の方を見ると、私の意図を察した彼はゆっくりと頷いた。
「ええ、人間のものですよ。これだけ強力な物も珍しいですが、信仰、または負の感情によるそれとは波長が違います。信仰等によったマジックアイテムとは意図的であり、安定した波長になります。しかし、それ以外の事例では波長は不安定なものになる」
「つまり消失の原因になりうる、と」
「いえ、またそれとは別です。波長が乱れるには乱れますが、存在そのものが不安定というわけではない。問題は意図せず生まれた、というところなのです。漏れた力が染み入っただけ。そこに力を固定する信仰も怨恨も存在しない。ペットボトルかコップかの違いです」
「なるほど。しかしそれではその力が漏れ出さないのは……」
「つまり力だけその場にべっとりと……それこそ粘性の液体のように残っているのです、これは」
なるほど、私は頷いた。しかし、これは本旨ではないだろう。
「……続けてくれ」
悪魔は素直に頷いた。
「はい。そのべっとりとした力によって彼の信仰は強い効果を持つことになりました。通常、人一人の信仰だけでいわゆる超常現象を起こすことは不可能です」
「そうだな。五十年をかけて狂信したって神はやってこない。あったとして規模は十人だ」
私は教団の事を思い出しながら喋った。あの狂信が何年前、いや、何千年前からあったかは知らないが。
「しかし、この世界には例外がいる。それがサイキッカーと呼ばれる存在。そして、その力を借りる物」
「牧瀬か。そしてその信仰が形となった。……牧瀬は何を信仰して、そしてあなたが造り出されるに至ったのだ?」
悪魔は複雑な表情をした。どこか、軽蔑をするような、哀れむような。
「牧瀬は自らの殺意……人として失敗した欲望を悪魔のせいだと思ったんですよ。自らに宿る悪魔がそうさせていると。……人間は、失敗した他人を常に『呪われた』と称して、それが現に『呪われる』。いたちごっこなんですよ」
彼の人間への恨み言に、人間である私は押し黙った。
悪魔は数秒の間を空けて、
「まあそれも現代では終わりを迎え始めていますがね、昔ほどではない」
等と言った。悪魔は、話を戻しますよ、と言葉を続ける。
「つまり牧瀬が宿っていると信仰して現れた存在、それが僕というわけです。しかし、今回このようのややこしい自体になったのは」
悪魔が一瞬、言葉に詰まる。その顔が辛そうに歪んだように見えた。
「……僕自身が僕自身を人間だと、悪魔に憑かれた人間だと思い込んでいた故です。互いが互いを悪魔だと信じ、まあなんとも滑稽なもので」
悪魔は自虐的な笑いを浮かべた。
「しかし僕の方が力が強かったので、そしてあまりに普通の人間として振る舞っていたので、僕が人間だと勘違いされる状態になりました。牧瀬としては堪ったもんじゃないですよ。彼は身体から悪魔を追い出すために儀式を行うことにしました」
「儀式……」
私は地下室の光景を思い出した。あの場に退魔の陣は書かれていたが、それ以外にらしきものは見当たらなかったはずだ。
「ええ。そのペンダントを手にした瞬間から彼の環境は一変しました。信仰によって形作られた悪魔が、彼の欲望に変わって殺人の背を押す存在になったわけです。『殺して、捧げろ』ってな風に」
「待て、じゃあその時のあなたの記憶は?」
「牧瀬の信仰に歪まされていた僕の記憶は完全になかったですよ。よもや自らを人間だと思い込み、そしてそれを無意識にセーブしていたのですから」
つまり悪魔は無意識のその力を使って自らを騙し続けていたということになる。それこそ信仰の成せる業なのかもしれないが、良くも悪くもというおまけつきだ。
「彼は悪魔の声が聞こえるペンダントをなにかのマジックアイテムだと考え、肌身離さず持ち歩くようになったわけです。その折、彼はあの地下室を見つけた……というよりは惹かれたというほうが正しいですか。由利根山の力と同じ波長があの地下室にはあったんですから。いや、それどころかあのペンダントはキーのようになっていたんですよ」
「キーとは、つまりあの結界を出入りするための鍵、という意味か」
「そうです。見ての通りあの結界は非常に危険だったでしょう。あの結界はかなりの過去に張られたもので、恐らく実験場かなんかだったんでしょうね。旧日本軍の関連なのですがまあ省きます」
非常に気になる話ではあるが、軽くいなされてしまった。
「大事なのはここなのですが、あの結界、外部から強く干渉されてましたよ。このペンダントと同じ波長で。だから、キーです。悪魔の智を部分的に得ることの出来た彼としては――いや、彼と悪魔かな――ここを殺戮の場に利用しようと思わずにはいられなかったでしょう。宮本先生の考えている通りですよ」
悪魔は私の考えなどお見通しのようだった。私は眉を上げて反応を返す。
「地下室に一人だけを通し、誰にも見られず、殺して解体。その血であの陣を完成させていきました。ちなみにあの血は心臓部分のものだけを使っています。意味はありませんが、彼としては意味があったのでしょう」
「複数人の信仰には意味付けとその共有が重要になる。故に筋が通ることは多いが、個人レベルの信仰になれば――」
「歪んだものになる、そういうことです。包丁を飾ることも解体することもホルマリン漬けにすることも、実際何の意味もないですが、あくまで必要なのは『信仰』ですから」
悪魔が私の言葉を引き継いだ。
私は気になることがあり、一つ聞いた。
「わざわざ包丁を洗っていた理由はなんだ?それも家で」
「包丁を洗う必要があったんですよ。不浄を清めて魂を捧げる――。もちろん、悪魔に、です。家で洗ったのは念入りに集中して洗いたかった故ですよ。ああ、あともうひとつ気になっているでしょうから伝えましょう」
私は聞こうと開いていた口を閉じた。それと同時にこの悪魔は私たちの信仰を受けて、より強力になっているような気がして、信仰というやつが恐ろしくなった。
「牧瀬から僕が意識を取り戻したとき、いつも包丁ばかりだったじゃないですか。あれは、人間としての力を振り絞って、彼から身体を取り戻したときたまたま血塗れの包丁を握ってたからです。そこからまるでパブロフの犬のような感じで。実際には僕の『意識が戻るときは血塗れの包丁を持っている』という意識と牧瀬の『意識がなくなる時は血塗れの包丁を持っている』という信仰の双方向の働きかけによるものですが」
いずれにせよなにかしらで人間の僕には伝わっていたでしょうけどね、悪魔は皮肉気味に言う。
「さて、牧瀬は頑張って儀式を終えたもんですが人を殺して解体して飾ってな具合の欲望は消えない。そりゃそうですけどね、彼自身の欲望なんですから。そこであなたに目をつけた。オカルトを少し齧っていればあなたの存在に気づかないわけもないでしょう」
「私の噂はそんなに広がっているのか」
「どれだけ普段の講義でオカルト話を挟んでいると思っているんですか? 有名ですよ」
今、馬鹿にされた気がするが、触れないことにした。
「牧瀬はあなたならばこの悪魔をどうにか出来るのではないかと考えた。しかし、基本的に身体の主導権は僕が握っています。悪魔の話をたらたら話しているんじゃ仕方がない。そこで悪魔の仕業と見せかけるような傷害を起こすことにしたのです。あなたの友人に」
「奥谷教授の事か。……確かに彼とは一度妙な噂が立ったくらいだしな。それも知られていてもおかしくないか」
「そういうことです。彼がよく廻戸公園で泊りがけの調査をしているのは公言されていることですからね。あとは悪魔という単語だけでも拾わせれば、簡単に事が進む」
「……その計画には、悪魔が自らを偽っていることを知っていなければならないはずだが」
「ええ、そうですよ。彼は今この時も意識があります」
この話を聞いているのですよ、悪魔は微笑みを見せた。
「つまり、全て記憶があると」
「はい。彼は僕が自分を人間として振舞っているのを見て不安になったでしょう。『誰にも偽物だと分かってもらえずに死んでいくかもしれない』、と。しかし同時に使えるとも思ったんですよ。罪の全てを悪魔になすれるんですから」
このような事態を想定はしてなかったでしょうけども。悪魔は私の目を見る。
「そう、あなたがイレギュラーだったんですよ。あの地下室に全てを閉じ込めておければ、誰が何を言おうと無罪。そして殺人も繰り返される。しかし、そこにあなたが侵入してきた」
「侵入? 待て、私はあそこに通されたのではないのか?」
「侵入ですよ」
それだけ。悪魔はそれだけしか言わなかった。
「……おい、どういうことなんだ」
「さあ?」
悪魔はやおら立ち上がり、私の顔を覗き込む。
「あなたが知りたがっているそれと関係があるんじゃないんですか?」
「……人間の蘇生か」
伊良樹が目線だけをこちらに寄越した。大丈夫だ、契約などせぬ。私は悪魔に向き直った。
「あなたは知っているのか、その方法を」
「あなたは知っているはずだ」
「何を言っている? 死者を呼び戻す手法は幾らでも知っている。しかし、どれも蘇生とはいかない。イエス=キリストは莫大な信仰より蘇生を実現させたかもしれないが、私はああいう事を言っているんじゃない。私は――」
「そういうことじゃない」
私は息を呑む。悪魔の目は――悪魔に対して使うのが適切かは知らぬが――真っ直ぐであった。しかし、私も引き下がれぬ。悪魔の方からこの話題を出してきたなら好都合だ。私は食い下がった。
「ではなんだ。蘇生術を私は知っているというのか。それともなくば……あなたはきっと知っているのだろうな、教えてはくれないか」
「宮本先生……」
悪魔は首を振った。
「僕はあなたにとても感謝をしているんですよ。あなたがいなければ僕は牧瀬に良いように使われる傀儡だった。だから親切心でこんなことを言うのです。……あなたは、あなたのためにも、蘇生からは身を引くべきだ」
一体なんだと言うのだ。私は悪魔に詰め寄った。
「悪魔よ、それは出来ない。私は今更引き下がれぬ。どうしてもと言うのならその理由を述べてみろ! 私を想うだと? 私を想うなら今すぐにでもその方法を教えてくれ! 知らないなら止めようなどと――」
「宮本先生」
悪魔が腕で私を制する。私は怒りにも近い声をせき止めたが、悪魔を睨みつけた。
「あなたのオカルトへの姿勢は、理性的だ。しかし、こと人の生き死にに関すればあなたはまるで――悪魔憑きだ」
「……っ」
私は悪魔から目を逸らした。彼の言う通りである。教団の時もそうであったが、私は今、学者にとって最も重要な冷えた頭を喪失していたのだ。深呼吸をして、息を整える。
「……すまない、取り乱したな」
「いえ」
悪魔は私が落ち着いた様子を見て安堵したようだった。
「だが、これについては、どうしたって譲れない。知っているのなら、教えてほしい」
出来るだけ冷静を装い聞いたが、悪魔は苦い顔をした。
「知っていたとして……あなたに教えても無意味だ」
「……なぜだ」
「だって……彼女は死んだわけじゃないでしょう?」
心臓がドクリと跳ねた。顔から血の気が引く感覚がした。しかし、頭ではそれが何のことか理解ができなかった。私には――一切この悪魔の言っていることが理解できない。
「何の……話をしている?」
しかし、悪魔は問いには答えず、
「もう、この身体には用はありません。おとなしくおさらばいたしますよ。牧瀬は自白させとくので、後はご自由にどうぞ」
状況も飲み込めていないのに、別れを告げられて黙っているわけにはいかなかった。
「待て! まだ話は――」
しかし、悪魔は聞く耳を持たなかった。
悪魔の瞳孔が変色した。それが意味するところは、私がよく知っている。
牧瀬の身体が力を失い、崩れるように倒れた。
「………………」
意味もなく伸ばした手を、形なきものを引き留めようとした腕を、そっと戻した。
ずっと黙っていた伊良樹が口を開いた。
「だから、言ったんです。悪魔はあなたの望みを叶えやしないと」
それもまたその通りだった。しかし、悪魔の纏う邪悪さがそうさせたのではないだろう。
憂いを浮かべた悪魔の目が、私の脳裏にこびりついていた。
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