悪魔憑き編_9
翌日。私は伊良樹を待って、廻戸駅の改札で待っていた。廻戸駅は牧瀬の家の最寄ではないのだが、わざわざ来てもらうというのに手をこまねいている、というのも無礼だと思ったのだ。しかし、意気揚々と彼を迎えに来たのはいいが、彼を見つけられるかという不安が私の中にあった。廻戸駅はここらで唯一の主要駅である。利用する人も多く、乗降率も下手な都会の駅より多いだろう。次々と流れてくる人の波の中から彼を見つけられるだろうか。
それに、十年である。最後に顔を合わせてから十年である。私たちは写真を送り合うような中でもない――そもそも私自身がそういったことをしたことがないのだが。私も、彼も、だいぶ風貌を変えているだろうから、そこが難点である。若かりし私は髪の毛を大分ばっさりと切っていたし、気取ってハイヒールなんかも履いていたから、派手だったろう。そう思うと、ふと探偵の顔が頭に過って、こう言った。
「派手の範疇にもならん、誤差だろ」
腹が立つ。後で文句を言っておくか。
しかし、イギリスで私を見つけた伊良樹なら平気かもしれない。この人混みの中でも、全く迷わず、私の方へと歩いてきそうだ。
「いかん、これでは結局手間を掛けさせてないか?」
不安の言葉がつい口を突いて出た。改札まで迎えに行きますよ、などと言って来たのに、その迎え主が相手に探してもらうんじゃ面目もない。
人の波がまた押し寄せた。その中に、明らかに際立つ長身細身の男が見えた。
杞憂だったか。
伊良樹菟駒。どうやらもう三十歳という話ではあったが、彼は波に逆らわず、しかし確かな足取りでその波の中を歩いていた。我の強い人間であればモーセなどと言ってみたりはするが、彼はただ自然に生きるのみの魚である。彼に向って手を振ると、軽く振り返してきた。どことなく緩慢な動きも、伸びきった前髪も変わっていない。
「どうも、わざわざすみません、伊良樹さん」
伊良樹は丁寧に礼をすると、
「いえ。本業ですので」
と、緩く閉じられた口から言葉を発した。
「詳しくは合流してから、とのことでしたね」
ええ。私は彼を牧瀬の元へと案内するまでにこれまでの経緯を説明した。
「退魔の陣、ですか」
「悪魔がそういったことをする可能性はあるのかと思いまして」
「うーん、聞いたことないですね。宮本さんが推察した通り、悪魔の仕業ではないように思えます。もちろん、こちらの目を欺くため、ということもあり得ますが、効率が悪すぎる」
伊良樹の表情は若干曇っていた。どうやら前例のない状況らしい。
「瞳孔の色が変化したんですよね」
「ええ」
それだけ聞くと、彼はまた黙り込んでしまった。やはり直接見てもらうのが早いだろう。
士岸駅に降りた私は、では件の家まで行きましょうと言ったが、彼は、少しまってもらえますか、とコンビニに入っていった。なにか悪魔祓いに必要なものを忘れたのだろうか、等と思案していると伊良樹がビニール袋を提げて戻ってきた。彼の空いたもう片方の手にはホカホカと湯気を立てている肉まんがあった。
ああ、そうだった。彼は立ち寄るところに食べたいものがあれば食べたいだけ食べるような、そんな食欲の権現であることをすっかり忘れていた。イギリスでもロンドンの屋台街でもフィッシュアンドチップスやらミートパイやらを片腕で器用に抱えながらスコーンを食べていた記憶がある。先ほど自然等と述べたがその胃袋の調子だけは超自然的だ。
「お待たせしました、さあ行きましょうか」
そういった彼のビニール袋の中、菓子パンが幾つか見えた。彼の超常的な力はこのカロリー摂取から来ているのではと毎度疑ってしまう。
私は伊良樹が食べる姿を横目で確認しながら牧瀬の家まで向かった。それにしても悪魔祓いだというのに微塵の緊張も彼からは感じられない。
人は緊張したり恐怖したり、その他様々な強力な感情によって、目で見えるほどバイタルサインに影響が出る。私はそのバイタルサインの観察には自信がある方なのだが、彼はやはり自然そのもので私は毎度感心してしまう。
そういえば、彼の悪魔祓いを見せてもらったときもそうであった。彼は悪魔と対峙したとき、神へのどのような暴言を吐かれてもいつも通りの調子だった。どの聖書にも矛盾点が存在している。並大抵の信者であればその矛盾点を乗り越えられずに膝を折ってしまうのだろうが、彼はまるで髪の毛についた屑を取るかのようにさらりと悪魔を退かせたのだった。神への冒涜を許すとか以前に、彼は真に悪魔の言葉に無関心であったのだ。悪魔に生まれ変わったら、お相手するのは避けたい。
「ああ、これですか」
彼は、私がそんなことを考えているうちにボロアパートを指差した。
「ええ、まあ」
「気配が強いですね。彼は大丈夫でしょうか」
彼はそう言いながらふらふらと二階への階段に足を掛ける。気配、というのは悪魔の事だろう。そうだとしたら牧瀬は無事なのだろうか、私は急いで後を追った。
インターホンを鳴らすと、牧瀬が鍵を開けてくれた。
「ああ、宮本先生……なにかご用ですか?」
牧瀬が伊良樹と私の顔を交互に見る。実は牧瀬には今日エクソシストが来るなどとは聞かせていない。なんなら今日私が来るということも知らせてはいなかった。悪魔に気取られない為だ。
「すまない、突然で……。実は今日は私より悪魔を専門に扱っている人に来てもらった」
「どうも、こんにちは。伊良樹菟駒と申します。……上がっても?」
「ああ、ええ、どうぞ」
牧瀬は困惑しながらも、私たち二人を部屋に通した。相変わらず片付いてはいるが、机には数冊、悪魔に関係した書物が積んである。おそらく自分で調べたのだろう。自分に関係していることだ、じっとしていられない気持ちは分かる。
「……なにか分かったりしたか?」
私が書物に目線を送りながら聞くが、牧瀬はかぶりを振った。
「いいえ……。お座りください」
伊良樹が牧瀬に座るように促した。
「さて、お聞きしたいことが幾つか」
「はい」
あまりに動じない人間がいると相手方はやけに緊張してしまう時がある。牧瀬はそのタイプらしい。伊良樹が、肩の力を抜いてください、と笑う。
「ああ、では最初の質問なんですが……」
ここで伊良樹は、妙なことを聞いた。
「ええと、そうですね、昔の記憶はありますか」
「……はい?」
牧瀬はそう聞き返して目を丸くした。一方の伊良樹は変わらぬ態度で、爪を弄りながら再度聞く。
「ええ、昔の記憶です。ところどころひどく抜け落ちていませんか?」
そう聞かれ、牧瀬は頷いた。
「ええ、そうですけど……」
「言いたいことは分かります。誰にでもあるだろうそんなこと、と。ええ、そうですね、僕も幼き頃受けた施しなど覚えていない。……不義な話ですけどね。ではもう一個。あなたらしい瞬間を、思い出せますか。悪魔に憑かれる前で」
「僕らしい……ですか?」
「ええ、しっくり来ないなら、こう問いを変えますか。今までの記憶、自分のものではないように感じた事は?」
そう聞かれ、牧瀬は青ざめた。それを見た伊良樹は表情ひとつ変えない。むしろ、
「そうでしょうね」
と、全て知っていたかのような態度であった。
「一体どういう事です?」
私が口を挟むと、彼はゆらりと首を動かした。
「一度はあなたが想定した可能性ですよ、宮本さん」
彼の口は何の躊躇いもなく、その答えを紡いだ。
「彼こそが悪魔ですよ。今話している彼こそが、悪魔です」
なんだと、と口だけが動いた。喉が詰まって声が出なかった。伊良樹は言葉を続ける。
「あなたは一度答えに触れているんです。他者を殺害してその包丁を額に入れて、その遺体はホルマリン漬けへと。その所業、あなたはしかと人の仕業だ、と気づいたのです。そして退魔の陣、あまりに世俗的なオカルト知識。ええそうです、これを書いた人間は悪魔に憑かれていたんです。いや、むしろ悪魔を造り出した」
「造り出した……?」
伊良樹は牧瀬に向き直る。牧瀬は頭を抱えていた。しかし、それは苦悶の姿ではなかった。
「ああ……そうです……」
牧瀬は頭を上げた。そしてその目を見て、私も確信を持った。久留宮と同じ瞳。仏などの悟りにも近い、我ら人間よりも高次を知る眼。私はつい身を引いた。人間を気取る必要はもうなくなったのだろう、脈が妙な動きを見せ、瞳孔が恣意的にその大きさを数度変えた。まるで、調整とでも言うように身体を弄ったあと、
「僕は……牧瀬に造られた存在です」
牧瀬、いや、名も知らぬ悪魔はそう言った。
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