悪魔憑き編_8

「お疲れさん、学者様」

 警察の取り調べから解放されて外に出ると、すっかり日は傾いていた。

「どうだい、取り調べのお味は」

「口直しが欲しい」

「そうかい、ほらよ」

 渡されたものはペットボトルのジンジャーエールだった。ごく普通のラベルだ。

「あのクソまずいやつを、とも考えたが、あの一件は許してやる」

 探偵は恐らく『ガーリックジンジャーエール』を渡したときのことを言っているのだろう。

「女々しいやつめ」

 そう笑ってやると、

「記憶力がいいんだ。特にあんたのことに関しちゃ」

 探偵はケラケラと笑った。その姿がどこか子どものようで、彼が警察に立ち寄れたことに少々調子づいてることが分かった。その調子づきが、探偵が本当は警察官で居たかったことを表していることにも勘付いたが、私は黙っておいた。

「で、悪魔憑きのことについては話したのか?」

「いいや。だがいずれ――」

「だろうな」

 探偵は電子煙草を吸いこみ、こちらを見る。目が合い、すっと逸らした。探偵の目の中に無力感というやつがはっきりと見てとれた。彼を救い切ることは出来ない、お互いそう思っているのが分かった。探偵が煙を宙に浮かべた。レモンの香りは冷風にあっけなく吹き飛ばされた。

「車を回してくる、と言いたいところだが、今回の一件であんたから目を離さないことがなによりも重要だと分かった。駐車場まで歩いてくぞ」

「エスコートか、女性の夢だな」

「思ってもないことを」

 思ってもないわけではないが。しかし、そんなふざけたことを言っている場合じゃない。

「……美麻はどうだった?」

「ああ、あの後すぐに博士さんを呼んでな。エスコートしてもらったよ。すっかり調子はいいみたいだから安心しな」

 私はほっとした。私のせいで誰かが危険に晒されるのはごめんだ。心臓に悪い。

私は次にあの地下室で見た陣について語ることにした。

「……あそこ、赤黒い陣が書いてあっただろう? あれは退魔の陣、つまり悪魔避けなんだ。しかし実際に効力があるかは不明で……実に世俗的だ。オカルト誌を漁ると出てくるレベルの世俗だ。知り合いのエクソシストにも確認したが、彼が言うにも効力はないらしい」

「ほう。だが問題はそこじゃない、と言いたいんだな」

「話が早いな。そうだ、問題はそこではない。問題はなぜあの場に退魔の陣が描かれていたのか、ということだ。一応以前にあそこに居着いていた人間のものという線もあるが……」

「それはないな。あの陣の血液、ホルマリン漬けの方々のものと一致したそうだ。あれは明らか悪魔が書いたものだ」

 そうか、と私は頷いた。これで悪魔があの陣を書いたことは確定したとみて間違いないだろう。

 探偵はそこを疑問に思ったらしく、私に聞いてきた。

「悪魔が自らを退魔する事は?」

「知り合いに後々確認するが、前例はないはずだ。だいたい憑りついておいて自らを祓う自虐的な悪魔があるか」

 探偵は頭を掻いた。

「いや、まあそうなんだが……なに、教団の時のアレはそうだったからな」

 探偵は、自らを還してほしいと要求した邪神のことを言っているのだろう。確かに前例と言えないこともないが、あの件に関しては、彼――といっていいかは分からないが――は人間に呼び出された側であり、本件とは状況が違う。

「それに、仮にそうだとしよう。そんな悪魔が退魔の陣に詳しくないわけないだろう。百歩譲って低俗オカルト誌に載っているようなものを使ったりはしない」

「高貴なオカルト誌なんてものが存在するのか? ……まあ、そうだな、一理ある。他に心当たりは?」

「悪魔に関してはさっぱりだが、殺害方法に関してはよくよく分かったぞ」

 探偵の車の前まで来た。後部座席の荷物が未だに、ほんといつまで積んであるのかは分からないが、とにかく積んであるため、私は当然の如く助手席に座った。探偵がエンジンをかけ、車を出す。

「……で? その殺害方法っていうのは?」

「ああ。あの場所、探偵は認識できなかっただろう? あれは人避けの結界だ。それもかなり邪悪なものでな。一度入ったら死んで外に出るか、中で命が果てるかのどちらかだ。……あの時に美麻を呼んだ機転は流石と言うべきだな、探偵」

「あんたがネック……ああ、ペンデュラムを遺してくれたおかげだ。あとは、そうだな。変な事件に数度首を突っ込んでたからな、慣れたわ」

「そうか、オカルトが広まったようで嬉しいよ」

「あんたのようになるつもりはないがな」

 探偵は憎まれ口を叩く。私はむっとしたが続きを話すように促され、仕方なく口を開いた。

「つまり、あれは罠だ。魚が罠にかかった時などはあんな心持ちなんだろうな。そしてあそこを殺害現場とすれば証拠は残らず、だ。……だがこれは、あれだ」

「あそこが悪魔の根城だと仮定した場合だろう? 大方合っているはずだ。あれで別物だとしたらそれこそ……神の悪戯だろうな」

 探偵は続ける。

「ああ、警察時代のよしみでいろいろ聞かせてもらったんだが、あの額の中の包丁、相当綺麗に洗浄されていたんだとか。記念品として飾るためだろうな。それでもって、俺たちが開けなかったあの部屋はどうやら解体場だったようだ。中は血だまりだらけで排水機能もないからある意味で血液の採取には困らなかったとよ。ちなみに解体のための刃物もそこに立てかけてあった。こっちは扱いが雑でところどころ錆が浮いてたようだ」

「気持ちのいい話ではないな」

「だな」

 私は呟くように言った。

「悪魔が、そんなことをするだろうか?」

「なんだ、ここに来てオカルトじゃないってか? 呂本先生の名が泣くぞ」

「茶化すな、探偵。……いや、オカルトじゃないとは言わない。実際、牧瀬の瞳孔は色が変わったし、人避けの結界も存在した。だが、こればかりは人の仕業に思えてならん」

「じゃあ、あいつが嘘をついていると?」

「……そうだとしたら、いよいよもって訳が分からない。自分の絶好の狩場をオカルト教授とかいう変人に暴かれるリスクを背負う意味がない。私を襲いたいのならあの人避けの結界に入るのを待てばいい」

「自覚はあるんだな」

 探偵をにらみつけると、失敬、とこちらを見もせずに言った。

「それもその通りだ。……しかも、奴が襲ったのは遠縁の奥谷博士だ。いよいよ分からんな。あんたに用があるのは確かなんだろうが、しかしその用はいつ果たされるのかも分らんしなあ。どうする、学者様」

 私はスマホの画面を見た。

「明日、エクソシストの知り合いが帰国する。とりあえず彼に牧瀬を見てもらう予定だ」

「ほう、似非じゃなきゃいいんだが」

「残念ながら私の目は確かだぞ、探偵。……といってもお前にそれを説明する方法はないがな」

 こう言えばああ言う男だ。何か軽口を言ってくるだろうと思っていたが、意外なことに探偵は難しい顔で黙りこくった。しばしの沈黙が流れた。

「いや、案外そうでもない」

 無骨なエンジン音の中、探偵は真剣な面持ちで口を開いた。

「あんたの見る目は確かだ。実際、あの時、白水美麻はあんたを助けて見せた。人避けの結界だかを破って。あの時あんたが人選ミスってたら今頃どうなってたか分からないしな」

「……すまなかったな」

 此度も私はこいつにひどく迷惑をかけたのだ。私が軽率な行動をしていなかったなら……その申し訳なさが今になって強く胸を締め付けてきた。危なっかしいと探偵は私の事を言うが、正にその通りなのだろう。私は不注意な女なのだ。

 探偵は私の方をちらりと見た。

「いや、今回は俺に責任がある。あんたから目を離して危険に晒したのは俺だ。今回はあんたが危険を承知で突っ込んだわけでもないし、これは俺の失態だ」

 私は驚いた。探偵からまた非難を浴びせられるかと思っていたからだ。探偵は申し訳なさそう、というよりは自分に怒りを向けている様子だった。

「だから気にするな。ああ、だが今度は離れないようにしてくれ。あんたから離れられたら守れるものも守れない」

「……ああ」

 探偵から暖かい感情を受け取ったのは初めてではないが、皮肉も憎まれ口もない言葉は初めてだった気がした。しかし、ありがとう、という言葉をこの男にかけるのはなんだか癪に障るので飲み下すことにした。

「まあ、エクソシスト様が来るんなら今回の件はここいらでお役御免かな」

「一般人のお前をあまり巻き込むのもな」

 探偵は、はっ、と笑った。

「ミイラを蹴り飛ばさせておいて、今更」


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