悪魔憑き編_7

 俺は学者様に呼ばれたような気がし、振り返った。しかし、どういうことか学者様の姿が見えなかった。そういえば傍目に路地裏に潜っていったな。

「……ったく」

 手間のかかるVIPだ。俺は歩いていた道を引き返し、路地裏を覗き込む。しかし、路地裏を確認しても彼女の姿はどこにもない。どこかで屈んで地面を掘っていたりするのだろうか。

「……おい、学者様」

 声を張ったつもりだったが通行人が何人か振り向いただけであった。学者様が現れる気配はない。

「……学者様! どこ行った!?」

 冗談だろ、目を離した隙に居なくなるとかどんな神経してやがる。路地裏に駆け込もうとすると、何かを踏んだ感触がした。革靴を退けると見覚えのあるものが落ちていた。学者様のネックレスだ。

「……落ち着け」

 そう、そういえば今俺らはオカルトとかいうくそったれなものと立ち会っているんだったな。なんでこれがここに落ちているのか。おそらく、オカルトに首を突っ込んだか巻き込まれたかだ。

「学者様はここで消えて……」

 俺は路地裏を見渡す。他に痕跡はない。

「チッ、分かるか」

 俺はスマホを取り出して、電話をかけた。こういうものはプロに来てもらうのが一番だ

「もしもし。朧月です。宮本の友人の。ええ、急用です。即急に来てください、あいつの命が危ないかもしれないんで」

 俺は状況整理のために、唯一の物品であるネックレスを見た。ネックレスの要であろう青い石には無数の罅が入っている。俺が見た時にはこんなボロい状態ではなかった。つまりこいつがボロい状態になるような状況が展開しているというわけだ。

「クソ……」

 俺は超能力者でも聖職者でもエクソシストでもない。ただただ本物を待つばかりであった。それだけが望みだった。路地裏のあちこちに学者様の言っていたようなマジックアイテムの存在を確認してみる。しかし、室外機の裏を見てもトーテムなんてものは見当たらないし、ビル壁を眺めてみても札らしきものは存在していなかった。

 そうして、十五分と待っただろうか、いずれ小走りで巫女の姿をした女性が走ってきた。辺りを見回しながら必死にこちらを探しているようだ。手を挙げるとこちらに気づき、息を切らしながら近づいてきた。

「はぁ……あなたが……朧月さんですね……」

「ああ。あんたが白水美麻か」

 彼女は数度頷く。

「簡潔に状況だけ説明しよう。この路地裏に入った学者様が忽然と消えた。そんでもって学者様の持ち物のこのネックレスが転がってたんだ。あんたならなにか分かるんだろう?」

「状況は分かりました。恐らく人避け……」

「説明は後でいい。学者様を救えるならそれでいいんだ」

 白水はそうですねと再び頷き、目を閉じた。

剣道でよくやっていた瞑想に、雰囲気がよく似ていた。静かな緊張がこの場に満ち始めているのが伝わる。彼女は顔の前で手を合わせ、深い呼吸をしていたが、いずれ目を開いた。白水は険しい顔をしていた。既に疲弊の色が見える。

「……っ、ノイズがひどい。それ、貸してもらえますか。残留思念を辿ります」

 彼女が指さしたのは学者様のネックレスだった。彼女にネックレスを渡すと、彼女はそれを手の中に再び集中を始めた。しかし彼女はすぐに蹲り、目をつぶったまま顔を歪めた。苦痛に耐えている表情だ。

「ぐっ……ううっ……」

 この例えは不謹慎かもしれないが、お産に耐えるような低い唸り声であった。ひどい激痛が彼女を襲っているらしい。額には脂汗が浮き、手は、痛みに耐えている故だろう、血が引き、白く震えていた。

「おい、大丈夫か」

「………………」

 彼女の返答はない。だが意識が途絶えたわけでもない。彼女は集中を続けていた。確かに体は小刻みに震えているが、その手をつくことはしていない。

 俺は気づかぬうちに強く拳を握り込んでいた。ひどい無力と不甲斐なさ故だった。俺という人間がついていながら、俺はあいつを危険に晒しているのだ。あいつは……こんな俺の考えを覗き込んだら鼻で笑うだろうか。それともやれやれとため息を吐くだろうか。「探偵、違うぞ。オカルトというものはそうやって対抗するものじゃない。対抗できるのは信仰だ」などと言いながら、あのクソまずいジュースを俺に押し付けるだろうか。

 ふと、俺には通行人の目が気になった。白水を不思議そうに見る目、あるいは怪訝そうに見る目。俺の頭にふと思い出された学者様の学説。多数の人間に認識された結果、力を失うこともある――。

 俺はそっと白水を自分の身体で隠した。これで少しは役に立つだろうか。あと、なにか他には……。

 ………………。

 信仰が力そのものになるのなら。俺はガラではないと分かりつつもこの唯一の希望である巫女に強く祈った。祈り方なぞは全く知らない。葬儀の時の焼香は怪しいし、墓なんぞには冷水をかけて手を合わせてさっさとおさらばする質だ。だが、それでもただこの者の力を強く信じた。ただ信じただけであった。

 十五分。

「っう!」

 彼女の身体が何かの衝撃を受けたようにビクリと震えた。その途端、今までなかったはずの建物が平然とそこに現れた。地下への階段のみが取り付けられた、質素なコンクリの建物。

美麻の額には汗の珠が浮き、息も絶え絶えと言った具合だ。目の焦点もあっていない彼女の身体を起こす。

「大丈夫か?」

 聞くと、彼女は軽く首を振った。そして、俺の顔を見た。俺の目を見れていない辺り、はっきりと目が見えていないらしい。

「すみません……しばらく動けなさそうです。それより……宮本さんを……」

「分かった、知り合いを呼んでおいたからそれまで辛抱してくれ」

 俺は白水を出来るだけ楽な姿勢で寝かせ、現れた階段を掛け下った――。


 頭がひどく痛む。ぼんやりとしている。私はどうしていただろうか。なんだか身体が揺れている気がする。体が揺れ……いや、揺らされている……。

「おい……おい……宮本幽!!!」

 自分の名前を呼ばれ、私はびくりと身体を起こした。何かに強く頭をぶつける。瞼の裏でばちりと火花が散った。

「痛っ……!」

「ぐっ……」

 頭を振ってから、目を開けて確認すると、顔をしかめた探偵の顔が見えた。

「た、探偵……なんで……?」

「……ああ、ホルマリン漬けの解剖標本なんざ見て失神してた女がいたからな」

 私は探偵の支える手から身体を起こし、辺りを見渡した。闇に覆われた階段からは太陽の光がほんのりと差し込んでいたが、ここはコンクリで覆われた閉塞感のあるあの一室であると分かった。目の端にあのガラス容器が写り、咄嗟に目を逸らす。

「思い出した……思い出したぞ。しかし、どうやってあの結界を……?」

「信仰だ」

 探偵がそう呟く。探偵は私を支えるために低くしていた姿勢を戻した。

「白水美麻。あいつがここの結界を破った。どうやったかは知らんがあんたのネックレスが役立ったみたいだ」

「……ペンデュラムだ」

 私は苦笑いした。探偵も、そうだったな、と笑った。

「それにしても……悪趣味だな。こいつは」

 探偵は部屋を見渡しながら言った。そして白手袋を付け、包丁の入った額を手に取った。

「悪魔とか結界とか関係なしに考えたらこいつは単純にサイコキラーだが……」

「ああ、私もこれはオカルトじゃないと思う。ここは警察の領分だ」

 今見ても、吐き気のするような光景だ。私は気分が明るくなればと太陽の光を仰いだ。

「そうだな。しかし、警察の手が入る前に少し調べようじゃないか」

 確かにこの場で警察を呼んでしまえば悪魔への手がかりは少なくなる。そうすれば牧瀬を救うことは難しいだろう。私は賛同した。

「ただこれだけはつけておけ」

 そう言われ、白手袋を渡される。刑事ドラマでよく見るような布製のシンプルな手袋だ

「予備だ。手早くやるぞ」

「すまない」

 白手袋をつけると、少しぶかついたのが気になったが、仕方ない。

「目下、気になるのはこのアンマッチだが……」

 探偵は可愛らしい花柄のテーブルクロスを指差す。確かに、こればかりは気になる。

「元は他の誰かが使っていたのかもしれないな。そこの棚とか少し気にならないか。恐らく同一人物だぜ」

 探偵がパステルカラーで色とりどりに塗られた木製の棚を顎で示した。確かにこれもこの場には不釣り合いな代物で、両方とも幼さを感じる可愛らしいもので、心なしか趣味も似通っている気がする。

「あとはもう一つの部屋だが……」

「もう一つの部屋?」

「ああ。分かりにくいかもしれんがそこに鉄扉がある。しかしあれは……触れないでおこう。流石に俺らまで怪しまれる。まああんたに関しては拘置所の方が安心して暮らせるかもな?」

「冗談じゃない」

 私は探偵の軽口に応答しつつも棚を覗いた。木製の棚に入っているノートが入っているようだ。だいぶ劣化が激しく、また、そのほとんどが血に塗れている。ページもくっついている場所があり、詳しくは確認できないが、そのほとんどがひらがなで書かれているのと、字の不慣れさを見ると、おそらく幼子が書いたノートのものだろう。友達とどこにいった、などのありふれた内容が書かれていた。日記として使われていたようだ。

やはりここを利用していた人間は悪魔以外にも居たようだ。この幼子もここに迷い込んだ人間の一人、それも頻繁に出入りしていた形跡が、こういった家具を揃えているところに伺える。そのことも気になるが、日記の中にそれよりも気になる記述があった。

『ゆりねやまのじんじゃのねこさんとあそんだ』

「由利根山……だと?」

「……博士さんとこの猫の話じゃないか?」

探偵も覗き込んでいたらしく、どういうことだと顎をさすった。

「分からん。分からん……だが確認できる記述はこれぐらいだ」

 探偵はなにか考え込んでいたようだったが、特に思い当たる節もなかったようで、肩をすくめた。

「オーケー、状況は後で整理しよう、とりあえず通報するぞ。もうここは日の当たる場所になっているからな」

 まだ調べたいことは山ほどあるが、探偵は潮時だ、と言っているようだった。確かにこれ以上ここに居て警察に留置でもされればその後が恐ろしい。私と探偵は外に出た。

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