悪魔憑き編_6
奥谷教授の家でたらふく飯を食った私たちは探偵の車でその場所へ向かうことになった。車を出して、せいぜい十分のところに件の廃墟はあった。廃墟とは言っても数年しか経っていないためそこまでひどい具合ではなかった。ほとんどの部分から一階部分は建設中だったのか、コの字に入口が開いており、ここで雨宿りをするとしたら、異論を唱える者はいないくらい、最適なものだ。まあここをフロント企業だと知っていたら誰も足を踏み入れたがらないだろうが。
少し中を覗いてみると、すぐに細工の施された鉄パイプが数本、目に入った。確かに奥谷教授の言った通り、牧瀬が持っていた鉄パイプはここのもので間違いないだろう。ここに手がかりがあるのかもしれない。
「……しかしなあ」
探偵が頭を掻いた。
「博士さん、あんたはここを、あー、つまりそういうところだって分かっていながら入ったのか? この場所に」
「日常茶飯事ですね。あ、ちゃんと許可は通しましたよ。助手に連絡してもらったんですがね、どうやらこの廃墟は他の人間に売り飛ばされていたらしく……ああ、多分ろくでもないやり方をされたんでしょうがね」
「押し付けられたか」
難儀なものだ。探偵は言いながら、電子煙草を吸った。
「ええ。もうどうしたっていいですなんて言われました。ほぼやけっぱちでしたよ」
そんなわけで、と奥谷教授は仰々しく廃墟の中へと一歩踏み入れた。
「今回も所有者のご厚意で好きにしていいとのことです。ささ、皆さんご自由にどうぞ」
準備は万端というわけか。私も廃墟へと足を踏み入れる。ただ、足を踏み入れるといってもそれほど見て回る場所もないことは分かった。外から見て内観が把握できてしまうほどの構造だ。正直どこを探ったものか。
探偵も同じ考えらしく、どうしたもんかなと呟いた。次の一手を考えているようだ。
とりあえず、建てかけの一階を見に行ってみる。が、建設途中ということもあり、中には何かが置かれた形跡もなく、廃墟と呼ぶにはあまりに冒険のない無骨な状態であった。
「見終わったぞ」
「ですねえ」
奥谷教授がこちらを振り向く。
「さて、問題なのはここからですよ、宮本さん。彼はこの廃墟から鉄パイプを持ってきた。公園には近い場所ですが、ここは彼の生活圏ではない。つまりここには……」
探偵が口を挟む。
「悪魔の奴が来たことがあるということか。それも頻繁に」
「そうでなければこの場所を知ることもないでしょう。彼の家はここから遠く離れた場所なのですから。ここには頻繁に来るだけの理由があった。もしかすると、僕の姿も、僕のことも、知っていたかもしれません。そしてあの公園にフィールドワークに出ていることも」
背筋が凍る感覚がした。そうだとしたなら、悪魔は本当に私を狙ってきた可能性がある。悪魔に魅入られるような何かに、私は触れてしまったということなのだろうか。
だが奥谷教授は私の表情を見ると、かぶりを振った。
「あくまで推測ですので。……とりあえずこの周辺で怪しい場所がないか探してみましょう。……宮本さんは危険があるかもしれません。朧月さん、お願いできますか?」
「ああ」
ボディガードだからな、笑った探偵の口元から煙が漏れた。
この廃墟の近くには幹線道路があり、その交通量が途切れることはない。故に、住宅を建てる地としては不向きであり、ビルや商業施設などが立ち並ぶ。ここは深夜には静まり返る健康的な街なのだ。
「さすがに……教団の時のような事はないだろうな」
聞くと、探偵は肩をすくめた。
「また地下室巡りか。正直トラウマだ。特にあんたが一人で突っ込んでくのはな。……どうだろうな。地下がある建物はここら辺にはあまりなかったと記憶してる。だが、この建物のどこかにあわよくば凶器を隠せるような貸倉庫だとかがあるかもしれない。……もっとも、貸倉庫の鍵はどうするんだと聞かれたら分からん。だから、廃墟には少し希望を持っていたんだが……」
「あの有様ではな。凶器を隠すどころか拠点にする意味も分からん」
探偵も同意見のようで、ああ、と返事した。
「なあ、お前の見立てを聞かせてほしいんだ、探偵。悪魔は個別に生活拠点を持っていると思うか? 暴れる、というのは言葉が悪いが……そういう悪事を働くための拠点が」
「そうだな。悪魔と彼が別の意識を持っていて、そして彼に何の心当たりも残さないためには、必要だろうな。どんな悪事を働くかにもよるが殺人もしくは傷害の可能性がある以上、拠点が存在している可能性がある。そしてなにより――」
探偵が顔をしかめた。
「彼がそれらの事件では捕まっていない。なんなら表面化すらしていない。この点から緻密に練られた計画だということが分かる。……拠点はいるよ。あの坊主の家には計画を示唆するものなんてなにもなかったんだからな」
「悪魔がそれら全てを頭の中で行っていたとしたらどうだ。悪魔ならそれは造作でもないことと思えるが」
「ああ、そうだったらそうだったで凶器をどうしたか、って話だ。袋に包んで川にでも捨てたか? いや、悪魔は包丁をわざわざ洗ったんだ。ここがポイントだと俺は思ってる」
これは勘でしかないがな、探偵はそう締めくくった。確かに探偵の言っている通り凶器の行方が鍵であり、これこそが肝要だ。袋に包んで捨てるにしても凶器を洗う意味が説明できない。加えて、彼自身に記憶が残っていること、そしてその証拠を彼の家に残してしまうリスクを考えれば、この行為は愚行だと言える。
何の理由があるかは知らないが、ならば凶器はまだ残存しているはずなのだ。
その時、気になる建物を見つけた。地下への階段だけが地表に露出し、申し訳程度に雨風をしのぐかまくらのような建物だった。少し足を踏み入れ、中を見る。
「おい探偵。ここなんかやけに雰囲気が――」
探偵に声をかけようとして、私は驚愕した。秋とはいえど、まだ三時を回った程度の街が真っ黒な闇に塗りつぶされていた。
「……おい、探偵」
闇に向かって声をかける。返事はない。
「探偵……探偵!!!」
返事はない。いや、返事どころか環境音もなにも聞こえない。あまりに静かすぎて、逆に耳を痛めそうなくらいだった。
「……なんだ、これは」
冷静になれ、宮本幽。私は暗闇に飛び出そうとしていた身体をぐっと抑えた。この闇に入るべきでないと本能が警告している。
私が、恐らくここに入った瞬間から外界への認識が急激に変化した。ならばこれは結界の類だろう。そして、この闇から感じる鋭敏な殺気。
いや、殺気と示すにはおかしいことだった。ただ、マグマのように入れば私が死ぬだけの、純粋な死。そこに殺気だとかそんな人為的な矮小な感情などは存在していない。
「これは黒すぎる。呪い、もしくは黒魔術……」
またか、私は笑ってみせる。
「慣れたものだ」
軽口を叩いてみたが、生命の危険を感じているのには変わりはなく、足がガクガクと震え、怯えを訴えていた。私はそれを誤魔化すように軽く足踏みをする。少し気分が落ち着いた気がする。ならば、原因の究明を再開すべきだ。
「なんで私だけなんだ……探偵がいれば」
そう、なぜか私だけがこの場にいる。私はもしかして結界に自ら踏み込んだというのか? 探偵が続いてやってこないことから考えると、これは認識阻害――つまり人避けの結界だ。人避けだとするなら、私が入れた理由は、
「正に悪魔に招かれた……というわけか」
状況的に考えられるのは正にこれだった。
私はしばらく階下を警戒していたが、なにかが来る気配はない。……悪魔はここに私が死ぬまで捕らえておくつもりなのだろうか?
「……そうか」
つまり私は檻に捕らえられた獣というわけか。私は首にかけていたペンデュラムをあの街へつながっているであろう暗闇に投げつけた。もしかしたら探偵が気づくかもしれないという淡い希望は抱いての行為だが、あまり期待もしないことにした。自らの力でここを脱出するしかない。
「やるしかないか」
私は腕まくりをした。私にもオカルト学者としての矜持がある。この程度の結界に捕らえられた程度で折れるわけにもいかなかった。
意を決して、階段を下る。
一歩、足が震えている。
「大丈夫、大丈夫だ、宮本幽。オカルトの基本は信仰だ」
もう一歩。泥濘に足を踏み出しているような感覚だ。邪悪な汚泥に沈んでいく。
「信じろ」
もう一歩。足が凍り付いたかのように動かなくなる。
私はこの先を恐れているのだ。怖気付いたのだ。
落ち着け、深呼吸だ、宮本。
「こんな……こんな辺鄙な結界ごときで、この宮本幽を捕らえておけると思うな。名も知らぬ悪魔め」
強がりであった。私は頭のどこかでその名を知れたらどれだけ状況が容易い事か等とぼやいていた。しかし、自分に向けた強がりは私自身の心を奮い立たせた。進まねば始まらぬ。
一気に階段を下る。すると、先ほどまでのぐにゃりとした感覚は嘘のように消え、カツカツとコンクリートが小気味いい音を立てた。
その先は裸電球が吊るされた一室であった。最初に目についたのは、その正面の壁に赤黒く書かれた何らかの文字。
近づいてみると、私の記憶の中にあるものだった。
「これは……陣か。いや、しかし……いや、どうしてだ」
私は困惑した。これが書かれた意味が理解できなかった。
なぜならこの陣は悪魔を祓うための代物だからだ。いや、これ自体は一般に出回ってるオカルト誌程度で手に入る知識であり、この陣に効力はない。ただ、誰がこんな結界の張られた場所で、こんな胡散臭いものを書いたのか、ということ、それが問題なのだ。
それも、悪魔の拠点と思われる場所で。
私が壁から目を落とすと、そこには長机が置いてあった。この場の雰囲気にそぐわぬ可愛らしい花柄のテーブルクロスに包まれた机の上には包丁が三本、額のようなものに入れられ、置かれていた。どの包丁も全て同規格のもののようだが、どれも新品と見紛うほど手入れがされていた。
「……なんだこれは」
さらに額の中には、廻戸大学の学生証がそれぞれ入れられていた。学生証は、見えやすいようにだろうか、包丁の刃先の左上に張り付けられている。
「これじゃあ……まるで標本のようじゃないか……」
全ての額を確認していくと、見覚えのある顔があった。伊吹詩織。この女生徒は確か、私の講義で単位をどうにか、と無心してきた子だ。追加レポートで単位を出した覚えがある。
「なぜ、彼女の学生証が……」
その時、ふと探偵の言っていたことを思い出した。
「それに、今の廻戸は安穏とした状況でもない。夜間の外出は控えとくんだな」
「廻戸で連続失踪事件が起きているんだよ。三人の男女がいなくなってな。ああ、あんたのところの生徒だぞ」
「その学生らには深い関係性は認められていなくてな。ただどいつも飲み会だとかの夜遊びの後で行方が分からなくなっている。警察は躍起になって犯人探しをしているみたいだが、どういうことか尻尾も掴めないでいる。……だから、夜間の外出はお勧めしないぞ、学者様。特にあんたのような人間はな」
私は眩暈を感じ、机にがたんと手をついた。
「おい……冗談だろ。まさか」
この額が意味するところは。
「殺害した者とその凶器……?」
再びの悪寒が走る。違う、私が知っているオカルトはこういったものではないんだ。これはもっと身近で、しかし理解不可能な動機。
これは人間の仕業である。
私の勘が、そう告げていた。
「意識が戻った時の三度の包丁……」
確証はない。だが、オカルトと悪魔、そして三度の意識回復と三本の同規格の包丁。もしも、これが、この包丁がそうだとしたなら全て辻褄が合う。
辻褄が合わないのは――。
私の足に何かが当たった。堅い感触。ガラスのような感触。私は机の下にあるものを覗いたが、暗がりで全く見えない。私はひどく思いそれを、頼りない電球の下に引っ張り出した。最初、なんであったか理解が出来なかったが、いずれ頭の中の知識と全てが結合した。
伊吹詩織のものだろう、ガラスの容器の中に解体され、窮屈に詰め込まれた身体。パーツはどれも原型を留めているというのに、記憶にある彼女の哀願する姿と何一つとして一致しない。これを例えるなら、ただの肉塊である。
そこまで認識したところで、私の視界はブラックアウトした。
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