悪魔憑き編_3

 私はケチャップにまみれた食器を回収用ワゴンに提出し、一度伸びをした。久留宮は若干不満そうな顔を浮かべていたが、彼女の反応は当然だろう。私のような、エクソシストでもない一般人が悪魔と対峙するというのは相当危険な行為なのだ。そもそも、オカルトに対して一般人が向き合うというのはかなりの危険を孕んでいる。お前が言うか、という具合ではあるが、そういった行為はその危険を知っている人間からすれば忌むべき行為なのだ。

 日本に存在する『忌』という概念は正にこれに該当する。この『忌』が歴史上、人道的に避けるべきことを民衆にさせてきたのは事実であるが、この概念ゆえ、科学が発達する前の世の中、オカルトに溢れた世界――これを私は複数信仰世界と呼んでいるのだが――で人々はそこそこの安寧を手に入れて生きてこれたといえるだろう。一般人は『忌』を嫌い、神職者など特異な者が『忌』を処理する……それがあるべき姿だ。私も極力、そうするべきだとは考えている。

 だが、現在『忌』に対抗できるものは限られている。美麻も言っていた通り、サイキッカーのような特殊な人材は現在では少なく、人手不足が深刻だ。私も出来ればそういった関わり方をしてみたいものだが……まあ才能がないのは仕方ない。私は私なりのやり方でオカルトに付き合うしかないのだ。しかしまあ、オカルトばかりをしているからといって本当にオカルトなことが舞い込むことがこの頃多い。もしかしたらそういった引力が私に働いているのかもしてない。実証の仕様はないが。

 例の学生の聞き込みをする前に飲料でも買おうかと、自販機に立ち寄ると、奥谷教授が目を細め、渋い顔でそのラインナップを眺めていた。

「奥谷教授、どうしたんです?」

「ああ、宮本教授。いやですね、この頃の青年はどういった飲み物が好みかと思いましてね」

 奥谷教授もこれから話を聞く青年に対してなにか差し入れようと思案しているところだったらしい。何度も思うが、悪魔憑きとは言えど昨日殺意を向けてきた相手に気遣いとは、見上げた胆力と器の広さだ。

「……うーん、そうですね。私も若者の好みは分かりませんが……ああ、この前久留宮がこれを飲んでましたよ」

 私は自販機の隅の方にある缶ジュースを指さす。ラベルには『ガーリックジンジャーエール』と書かれている。奥谷教授は少し目を凝らして、また渋い顔で、今度は私の顔を見た。

「……ええと、おいしいんですかこれ?」

 奥谷教授の疑問は妥当である。説明には『ショウガとニンニクが合わさっておいしくないわけがない!』等と書いてあるが、ジンジャーエールとニンニクは誰が考えても合わないだろう。だが、若者にはこういう奇抜なものがうけるのかもしれない。

「さあ……。しかし、久留宮はおいしそうに飲んでましたよ」

 宮本教授もいかがですか?と屈託ない笑顔で勧められたが丁重にお断りした。私はもう年を取った。そんな冒険をする勇気はない。

 奥谷教授は、そうですか、と口元に手を当てていたが、いずれ『ガーリックジンジャーエール』のボタンを押した。

「気に入ってくれるといいのですがね」

 私は、そうだな、と返しつつ、緑茶のボタンを押した。


 奥谷教授と共に貸会議室へと向かうと、青年がその扉の前で待っていた。

「すまない、待たせたな」

「ああ、いえ大丈夫です」

 言いながら青年はぺこりとお辞儀をした。この所作を見ているととても奥谷教授を鉄パイプで殴打しようとしたなど考えられない。これも悪魔憑きの為せる業か、などと考えながら、青年を椅子に座らせた。その対面に私と奥谷教授が座る。

「ああ、そうだ。よかったらこれ、飲んでください」

 『ガーリックジンジャーエール』を差し出しながら、奥谷教授が微笑む。

「あ、ありがとうございます」

 私はしばらく青年がラベルに眉をひそめつつもプルタブを開けるのを眺めていた。青年は恐る恐るそれを口にするが、数度驚きと感動が混じったような顔で頷いている。……そんなに美味いのだろか。

「宮本教授、お願いします」

「あ、ああ」

 奥谷教授に話しかけられ、ふっと我に返る。いかんいかん、『ガーリックジンジャーエール』なんぞに気を取られていた。悪魔を相手取っていると言うのに。私は一度気を張るために背筋を伸ばしたが、なんだか心地が悪いので前傾姿勢になりつつ、腕を机の上に置いた。

「文学部で教授をしている、宮本幽だ。普段は西洋史を教えているが、まあ仕方なく、だ。本来の分野はオカルト……つまり超常現象などと呼ばれるものについて取り扱っている。未熟者ではあるが、ある程度の知見はある。君の……悪魔についても協力できると思う。よろしく頼む。……ああ……そうだな、名前を聞かせてほしい」

「はい。英文科の二年、牧瀬 智治です」

「牧瀬君か」

 言いながら彼の目を見つめる。特に彼の目には注意をしなければならない。昨日見た瞳孔の変色は悪魔のサインとなるはずだ。それが前兆であるかそれとも悪魔が出た後に起こる現象であるかは分からないが警戒は怠るべきではない。

 今のところは、彼の瞳孔は黒。問題はなさそうだ。

「では、幾つか質問をするから出来るだけ答えてくれ。もちろん、答えたくないことも存在するかもしれないが、オカルトというものは何が原因となるか背景なしでは予測のつかない代物だ。つまり、答えなかった分、君に憑いている悪魔に対抗できる術が消えると思ってくれ、いいな」

「……はい」

 牧瀬は緊張した面持ちで返答した。当然だ、私の言っていることは脅しにも近い。

「さて、一つ目。君に悪魔が憑いたのはいつの話かな」

「去年の一月くらいでしょうか。僕は大学の帰り途中でした。家に帰るための地下鉄に乗ったんですが、そこでうつらうつらとしてしまい……気づいたら家でした。さっきまで電車に乗ってたのにおかしいな、と思ったんですが、確かに自分の家でしたし、夢のようでもありませんでした。その時、僕の右手に冷たい物が握られてたんです。……血まみれの包丁でした。僕はそれに驚き叫ぼうとしましたが、また意識がふっと途絶えてしまい、気づいたら布団の中で寝ていたんです。飛び起きて身体中を確かめましたが、包丁はありませんでした」

「ふむ……それは確かに現実だったんだな?」

 牧瀬は力強く頷いた。

「はい。それと似たような事が、もう二回かあって、恐ろしくなってお祓いに行ったんです。その時にお祓いが効いたのか、しばらく意識を失うことはなかったんですが……」

牧瀬が言っていた『もう二回』の状況について、気になるところがあったので詳しく聞くと、全て意識が途絶えたあと自室で意識を取り戻し、血まみれの包丁を見てからまた意識を失うまでを繰り返していたらしい。

「すまない、続けてくれ」

「……あの夜、眠りについてから目が覚めると、あの公園にいたんです。後は知っての通りです」

「分かった」

 やはりこの青年には何か超常的なことが起きているのは間違いない。それも意識が飛んでしまうということを考えれば、明らかな別人格の行動。つまり、彼の場合、悪魔が表に出るとき意識を失っているということが伺える。そしてその間の記憶も彼にはないようだ。

「では、次だ――」


 結局のところ、牧瀬から得られた有力な情報はこれ以外にはなかった。なにせ彼の記憶に残っていることが血まみれの包丁だけで、それ以外は他の学生と変わりない日常を過ごしていたのだ。

 恐らく今回の件に関しては血まみれの包丁という一点から紐解くしかなさそうだ。

最初に考えられる可能性は――考えたくはないが、彼に憑りついた悪魔が既に数件の殺傷事件を起こしているということ。その場合、事態は大きく進展するだろう。つまり、最優先するべきは、証拠探しだ。彼の家を隅から隅まで捜索する必要がある。

奥谷教授はこの後も仕事が忙しいようだったので、私は探偵に電話をかけた。探し物といえば探偵に限る。

「もしもし」

「ああ……学者様。どうした」

 探偵はやけに小さな声で私に応対した。

「……仕事中か?」

「ああ……」

 静かな返答の後、電話口から、ふ、という力のこもった吐息が聞こえた。ガタガタとした物音のあと、ニャー、という猫の鳴き声が聞こえた。明らかにパニックに陥っている鋭い声だ。

「ああ、いやな? 迷い猫だ。で? 急用か?」

 私はその言葉にスマートフォンを取り落としそうになった。なんだ……? 猫……?

「探偵……お前……そういう依頼も受けるのか……? てっきり私は荒くれた護衛ばかりしているのかと……そんなのほほんとした仕事もするなんて微塵も……」

「おい、訳わからんイメージ抱いてんなよ。探偵なんてこんくらいしないと稼ぎようもねえときがあるんだ。いくら元刑事でもな」

 探偵は、あー、と声を出した。探偵は話が逸れた時、いつも間抜けな声を上げてから、無理やり話題を戻す。

「……こんな話はいい。早く用を話せ」

「あ……ああ……そうだったな。廻戸大学に今すぐ来れるか? 件の青年の家に捜索に行くんだ。一人では心もとない。元刑事さんの力を借りれないか?」

「あー、了解。今度もろくでもない案件になりそうだな」

 探偵は憎まれ口を叩いた後、電話を切った。そうだなと私は独り言ちて、ベンチで待っていた牧瀬に声をかけた。

「すまないな、こちらも命が惜しい。お守りをつけさせてもらうよ」

「……ええ。分かってます。大丈夫です」

 牧瀬は鬱々とした表情で、足元のタイルを革靴でなぞっている。意識が突然消えたりするということ。ただ、それですら人間は恐ろしいと感じるのに、彼の場合は殺人を犯しているかもしれないという疑心を抱いている。……彼の苦しみは並大抵ではないだろう。

 私は牧瀬に何か飲むか、と聞いてみた。

「なあ、何か飲みたいものはあるか? 買ってやるぞ」

「あ、いえ……そんな……」

「遠慮するな。君はよく耐えている」

 私は座っている彼に少々屈んで、目線を合わせた。

「いいか、君の抱えているそいつは間違いなく悪意ある者だ。だが、君自身は決してそうではないはずだ。世界の誰が君を悪意ある者だと言っても、私は君を信じる。そして君を守る。それが教師としての――オカルト学者としての義務だ」

 牧瀬は、弱々しい笑みを浮かべた。少しは元気になってくれただろうか。私は背筋を伸ばし、努めて笑顔で聞く。

「さて、何が飲みたいかな、牧瀬」

「ええと……『ガーリックジンジャーエール』を……」

 自分の眉がぐっと上がり、口がぽかんと開くのを感じた。

「……そんなに美味いのか」

「僕もどうかと思ったんですけど、結構おいしくて」

「そうか……」

 やはり人気なのかもしれない、この『ガーリックジンジャーエール』。私は小銭を入れ、『ガーリックジンジャーエール』を押す。そして自分の分の小銭を入れてから、腰に手を当て、『ガーリックジンジャーエール』をにらみつける。

 ……買うべきか?

 しばらくの逡巡の後、私は意を決して『ガーリックジンジャーエール』を買った。プルタブを開け、匂いを嗅いでみると、ほんのりとニンニクが香った気がする。

正直恐ろしいが、飲んでみるしかないだろう。私は、缶を傾け、舌に刺激を感じた瞬間、咄嗟に口を離した。

「……なあ牧瀬。まずいぞ」

「そうです?……うーん、味が濃いのかもしれませんし、好き嫌いは分かれそうですよね」

 いや、そういう話ではない。ニンニクの臭みとジンジャーエールの甘味が混ざり、まるで排水溝のような気持ちの悪い香りがするのだ。しかし隣の牧瀬は美味しそうに飲んでいる。どうやらいよいよ味覚のジェネレーションギャップは深刻なようだ。

 新進気鋭の若者ドリンクを修行のように飲み続けている間に、探偵から連絡が入った。校門前に向かうと、電子煙草を燻らす探偵の姿が目に入る。

「早かったじゃないか、探偵」

「ああ。急がないと一人で突っ込みそうだからな」

 またその話か、と言いそうになったが、

「まあいいか。……探偵、これをやる」

 探偵はラベルを確認すると、あからさまに嫌そうな顔をした。

「『ガーリックジンジャーエール』……? なんだこれ」

「今若者に流行りの鋭角攻めジュースだ」

 飲め、という気を視線に乗せる。それが伝わったかは分からないが、探偵は私を一瞥し、一口。さらに顔を歪めた。

「……まっず」

「やはりか。お前も年だな、探偵」

 探偵の苦悶の表情がおかしく、私はけらけらと笑った。探偵はしかめっ面のまま、手近にあったゴミ箱に缶を捨てた。

「あんたはなんでそんなに嬉しそうなんだよ」

「同類を認めて嬉しくなっただけだ。さて行こうか」


 廻戸駅から10分とかからない士岸駅。ここが牧瀬の家の最寄り駅である。主要駅からそう離れていない士岸駅だが、廻戸大学に通う学生が多く住んでいる学生街でもある。

 牧瀬の家は徒歩5分もかからないワンルームアパートの一室だった。外見は年季の入ったボロボロの豆腐のようであったが、室内はリフォームしたのだろう、白塗りの壁、整ったフローリングの床と清潔な内装であった。

「すみません、散らかっていますが……」

 常に客人でも入るのか、とも思う整い具合に目を疑った。私の横に立っていた探偵は頷きながら、

「いいや、大丈夫だ。学者様よりはきちんと整頓されている。立派な生徒さんを見習うこった」

 などと言葉を吐いた。癇に障る探偵の言葉は無視して私は辺りを見渡す。

「調べられるところは自分で調べてみたんですが……あの包丁はどこにもなくて……」

「そうか」

 そうは言っても彼の部屋全てを洗い出す必要があるだろう。彼を信用していないわけではないが、悪魔がなにをしでかすか分かったものではない。私は、よし、と気合いを入れた。自分の部屋で書類を探す時の労力と比べれば、造作もないことだ。

「探偵は彼のことを見といてくれ。あとお前から聞きたいこともいくつかあるだろう」


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