転生猫_5

「ないですね……ここもハズレですか」

 本棚から視線を移しながら眼鏡をかけた睦月が言う。

「……なあ、睦月。聞いていいか」

「なんですか、教授」

「なんで眼鏡なんだ。私は今までそんな姿を見たことはなかったぞ」

 ああ、これですか。呟きながら睦月が眼鏡を外す。その眼鏡をひらひらとさせながら、

「俺、目がよくないんですよ。で、いつもはコンタクトなんですけど、切らしてるの忘れてて。気にかかります?」

 すごい気にかかる。私の助手像第一を誇るイケメンの睦月が眼鏡でギャップを挟んでくるのは、正直しんどい。理性が崩れかけのコンクリートのようにポロポロ来ているのが分かる。

 別に理性が崩壊したところで、何が起こるでもないが。

「……いや。その、睦月。眼鏡でしばらく過ごしてみる気はないか?」

「え? なんでですか」

「いや、やはり眼鏡と眼鏡なしのこの……」

 睦月の怪訝そうな顔を見て、はっとする。

「あー……いや……」

 しまった。私は他の人間にはバレても助手である睦月にはバレないようにと努めてきたというのに、なにを睦月相手にあろうことかその本人のギャップ萌えだとかイケメンの多様性について語ろうとしているのだ。

 睦月は私の手足のような存在だ。そんな彼との間に私の趣味がばれて距離でも出来たらどうする? 意志疎通が図りにくくなり、仕事に支障が出るじゃないか。

 それに、個人的に、睦月にはバレたくない。

 こちらを見てくる睦月に対して、私は頭を捻って答えを返す。

「そう、目の疲れ、というのはだいぶ違うからな。コンタクトは常時レンズを着用している状態だし、目に異物を入れないに越したことはない、と思ってな」

「ああ、確かに……。でもコンタクトに慣れると眼鏡が若干鬱陶しくなるんですよ。ほら、階段降りるときとかに下を見ると、階段が歪んで降りにくかったり」

「いや、言ってみただけだ。睦月がいいならそれでいいんだ」

 よし、回避したぞ。全く、こういう不意打ちがあるからイケメンが仕事仲間にいるのはよくない。

 睦月を雇ったのは私だが。

「ふむ、それにしてもこれだけ見てもないとは……いよいよあの神社、きな臭くなってきたな」

「きな臭い……怪しいってことですか? 何がです?」

「ああ、あの神社……そもそも神社なのだろうか。……御神体がずっと気にかかってるんだ」

「細かく砕かれた猫の骨と蛇の骨……でしたっけ」

「正確には猫の骨と蛇の骨の粉だ。私の知識では、ああいった類いの御神体は他にないはず」

 睦月が御神体の内容を聞き、苦い顔をする。

「なんだか不気味ですよね」

「……不気味?」

「ええ、なんていうか……だって気持ち悪くないですか? いくら御神体とはいえ生き物の骨を粉々にして壺に放り込んだわけじゃないですか。なんていうか……まるで呪術みたいだ。だから、有難いよりは怖いっていう感情のほうが勝りますね」

 睦月のその言葉を聞いて、脳のどこかがそれだ、それだ、と騒ぎだす。私は確認のために睦月に問う。

「……睦月、今何て言った?」

「え? えっと……有難いよりは」

 それじゃない。私は首を横に振りながら、

「その前」

「まるで呪術みたいだ……です。えっと、俺まずいこと言いましたか?」

 それだ。そうだ、その通りだ。こんなの御神体というよりはまるで悪魔に捧ぐ供物、またはそれに類する呪いの媒介にも近い。

 私は睦月に振り向き、こう言った。思いの外、興奮で声が大きくなったかもしれない。

「睦月、もうこんなところに用はない。もっと他のアプローチを仕掛けなければならない」

 私はさっさと背を向け、自らの研究室に戻るために歩き始める。可能性が絞られると同時、やることが一気に広がる。長いトンネルを抜けた先に様々な道が続いているかのように。

「猫……猫と蛇だな。しかし昔の日本にそんなものはあったろうか……いや、そもそも年代から調べる必要があるな。放射性炭素年代測定法か。しかし時間がかかるな。ここは奥谷教授に意見を仰ぐ……ん? 睦月? なにをしている。早く行くぞ」

 振り向くとポカンとした顔の睦月が私を見ていた。声をかけると、睦月は、あ、すみませんとすぐについてきた。

「悪魔か呪術か、まずはそこから明かす必要がある。手伝ってくれるな、睦月?」


「……これも違う。やはり呪術の類いに絞るべきか。睦月、見つかったか?」

「いえ、こっちもないです。……ていうか教授、これ俺が片すんですよね」

 机一杯に積まれた本を指差しながら睦月がいう。私は首を傾げる。

「当たり前だろう? 君は助手だからな」

「はいはい……教授はいつも優しいですけどこういう時だけ人使いが荒いですよね」

「そうか? そうかもしれないな」

 それにしても悪魔の線を排したならば呪術となるが、果たしてなにを呪ったか。それとも祈願か。しかし猫と蛇を混ぜこんで一体何を願う? ネズミ避けにしては少し物騒だ。

「よし、睦月。悪魔は考えるな。呪術の線でいこう」

「了解です、じゃあここらの本戻しますね……っと教授、不在着信入ってますよ」

「ん……誰からだ?」

「探偵、ってありますけど」

 私はスマートフォンを取り、かけ直した。彼から電話を掛けるということはなにか重要なことが分かったということだろう。探偵はスマートフォンをいじくっていたのか1コールで出た。

「探偵。なにかわかったか?」

「ああ、わかった。この地域は500年ほど前に天然痘が流行っていた。その原因は海外からの行商人だ。奴等がその病気を持ってきたらしい。廻戸はそんなに外との関わりが少なかったから奇跡的にその伝染は集落内で終結したらしいが……そこの集落は全滅だったようだな」

「ほう」

「んで……重要なのは、その行商人、猫を売り物にしていたらしい」

「猫を?」

「ああ。まあ奴等もその集落でくたばっちまったみたいだがな。そこで猫の行商人の記録は途絶えてるんだと。まあ歴史についちゃこれくらいか。ああ、あと気になることが」

「なんだ?」

「ここまでいろんな人間に聞き込みをしてきたが老人は愚か、この地域の専門家ですらあの神社を知らなかった。気持ち悪くねえか? まるであの場所を知っているのは俺らだけみたいだ」

「……もう少し聞き込んでみてくれないか? 少し、可能性を探ってみる」

「あいよ」

 電話を切り、ポケットに滑り込ませる。

「ちょっと奥谷教授に会ってくる。そこら辺のものを片付けといてくれ」

「えっ、あ、教授!」

 

 奥谷教授の研究室に入ると、ココアを口にしている彼が目だけでこちらを見た。そこには久留宮の姿もありなにかを話していたようだ。

 ‎奥谷教授がこちらに椅子ごと体を向ける。

「お疲れ様です。なにかわかりましたか?」

 私は久留宮に軽く手で挨拶し、本題に入る。

「もしかしたらあの神社は、神社じゃなくて呪術のための建造物ではないかと疑ってます」

 奥谷教授が楽しそうに口を歪め、目を見開く。

「ほう、呪術……いよいよらしくなってきましたね」

「詳しいことは後程。それより奥谷教授、あの社がいつ建てられたのかを知りたいのですが、放射性炭素年代測定では時間がかかりますよね?」

 久留宮が首を傾げる。

「放射性……なんですか?」

「放射性炭素年代測定。一応義務教育でやるんだが久留宮君は理系だからあまり記憶がないかもしれないね。歴史の分野だ。……生物は常に一定量の炭素、まあ炭素同位体『14C』なんだけど、ああ、理系だからこっちは分かるかな」

「ええ、まあ」

「この年代測定はその14Cがどれだけ含まれているかで年代を推測する方法のことだよ。ただこれは結果が出るまでちょっと時間がかかってね。早くても2か月ほどだろう……あの骨の保存状況は非常に悪いからね。……宮本さん」

「教授です、教授」

 いつになったらそう呼ぶ癖は抜けるのだろうか。そう訂正すると、奥谷教授は微笑んだ。

「ああ、すみません。どうにも。まあ、やり方に心当たりがあります。あの社自体は保存状態は割とよかったはずです。年輪年代測定の方で試しますよ」

「……すまない。そっちは頼んだ。こっちはこっちで仮説を確かめる」

「検証、ですか。オカルトの検証は可能なんですか?」

 純粋な疑問からか奥谷教授がそう尋ねてくる。私はそれに苦笑で返した。

「奥谷教授。オカルトというやつは観察が容易でない代物であり、不可能と言って差し支えない代物だ。オカルトは解明できず、証明できず、そう、所詮は推測に過ぎない。しかし、現に転生する猫が存在した。邪神が復活していた。それは幻覚とか幻聴の類でなく、確かに存在した『何か』の知覚現象。『何か』の物理的物体。私はそれを定義するために腐心しているが……見えているんだ。解明は不可能だと。だから信じるしかないんだ。歴史を遡り、様々な文献を漁り、感情を探り、全てをまるでラプラスの悪魔の如く把握し……そうやって出した自分の答えを信じるしかないんだ。それでも……永遠に胸を張ってそうだと言えないその不明瞭さを、私はひどく愛しているんだ」

「やっぱ、オカルトが好きなんですね」

 久瑠宮が笑って聞いてくる。が、私は首を横に振った。

「オカルトは……神や超常現象はまさにそうだが……守られるべき存在なんだ。そう思う理由を私は明確に示せない。ただ、オカルトは信じる者を失くしたときに消滅してしまう……私はそう思っている。私はそれを失くしたくない。だから『愛している』んだ」


 研究室に戻ると、ちょうど本を片付け終えたところのようで睦月がコーヒーを淹れて一服していた。私の姿を認めると。教授も飲みますか、と聞いてきた。私はそれに頷き、部屋の書物を眺める。

「……ふむ」

 大概、検討はついた。私の中の知識が間違ってさえいなければ、この仮説が一番正しいだろう。存在しない儀式。確かに行使された呪術の痕跡。蛇と猫の骨。

 睦月がコーヒーを差し出してくる。

「ああ、ありがとう。……睦月、お疲れ様だった。この件はもうじき終結する」

「え……ええ?! なんで俺が知らないうちにそんな……」

「私の頭の中で解決したことだ。……いや、所詮推測に過ぎないが、これで私ができることはやりつくしたと思うぞ。奥谷教授が年代を特定できたのならば、それで全てつながる」

「すごい気になるんですけど、教えてくれないんですか?」

 私はにやりと笑ってみせた。

「睦月には話したことがあると思うんだがな? いつまでも私の『お手伝い』では困るぞ。自分で考えてみろ。私の足りない頭を補えてこそ、私の『助手』だ」

「それは厳しいですよ……」

 それもそうか。心の中で呟き、コーヒーを啜る。

「ま、なんにせよ、解決は間近であとは待つだけだ。どれ、睦月が気になっていると言ったステーキ屋に行ってみようじゃないか」

「え、ほんとですか?! 行きましょう教授! もういい時間ですよね!」

 食べ物の話をした途端に子どものように喜ぶ睦月には、愛情にも似た苦笑が浮かぶ。イケメンだということを抜きにしたって、かわいらしいものだ。

「ああ、そうだな。今日は良く頑張ってくれた。私の奢りで行こう」

 だから毎回奢ってしまうのだろうな。私の月給も、いい方ではないのだが。


 後日、奥谷教授の調査結果が出たというので私は探偵を奥谷教授の家に案内した。

 ‎私が家に入るや否や猫が私の足元に近づき、遊んでとでも言うようにこちらを見つめてきた。

「久しぶりだな、瑠美子」

 撫でてやると瑠美子は気持ち良さそうに喉をならす。もうすっかりなつかれたようだ。

「これが件の転生する猫……そんな大仰なものには見えないもんだ」

「ええ、そうでしょう。……瑠美子は転生する以外に特異な性質を持ち合わせませんからね。ささ、中へどうぞ」

 リビングに抜けると奥谷教授の心遣いか、軽食が数種類用意されており、ポットには紅茶が溜められていた。探偵と顔を見合わせる。私たちはホームパーティーに招待されたのか、それとも貴族にアフタヌーンティーのお誘いでも受けたのか。

 ぽかんとしている私たちを見て、奥谷教授はにっこりと微笑んだ。

「瑠美子についてご協力いただいたあなた方にはもてなしをするのは当然です。紅茶はお嫌いではないですよね? ダージリンを用意しましたから、どうぞご賞味ください」

 言われるがまま、紅茶の用意された席に座らされる。私たちはどうやら遺伝子研究でノーベル賞を獲得した栄光ある大先生にお茶を入れさせていたようだ。実感がないながらも恐縮する。

 奥谷教授は私たちが椅子に座るのを確認してから、腰を下ろした。

「さて、宮本さん。木の年輪からあの社の建てられた時期を特定しました。あの社が建てられたのは500年ほど前で間違いないでしょう。加えて、言われた通り何体分の猫と蛇の骨が入っているかも調べました。3匹と推測できます。蛇は大人のもので9体分でした。誤差は存在しますが」

 奥谷教授はチョコレートを齧り、こちらにも食べるよう促した。

「500年、っていうと天然痘が流行った時期と被ってるな」

「ああ」

 探偵の言葉に頷き、紅茶を一口含む。ダージリンの茶葉はその深い香りと癖のない爽やかさを口に残した。

「では、"仮説"を話そう。……前にも申し上げましたが、奥谷教授、私は真実の語り手には……」

 奥谷教授はクッキーを差し出しながら微笑んだ。

「構わないですよ。僕はあなたを信じているんです、宮本さん」

「……そうですか」

 クッキーを受け取り、一口。私は話を続ける。

「瑠美子の転生の理由は、呪いによるものです。それも人間が憎悪の感情に任せて行った、呪い」

「呪い……」

「ええ。……あのようなフォーマットを持つ呪いは私の知る限り存在しないのですが、しかし、呪いとは感情と信仰によって結果が左右される代物です。その者が、呪いを信じ、効果を信じ、執念を燃やし、そのやり方を正しいと信じれば……成就します」

「ほう……。そういえば宮本さんは御神体を見せた際に仰ってましたね。『神性は失われない』、と。あの意味をだいぶ考えていたのですが、神性とは『信仰に依存したなにか』を指しているんですね?」

 私は彼に頷いてみせた。

「正体不明であることは、神にとって重要だ。お守りの中身も……何が入っているか、知らないことが重要であり、その条件を満たした時に特別な結果をもたらしうる。今回もそうだ」

「よく言うが……儀式じゃなく、心が大事ってな」

「悪くない解釈だ、探偵。……だからオカルトとは手のつけようのない代物なのだが。さて、その呪いの動機だが、おそらく天然痘だろう。推測だが……猫商人と天然痘が流行った時期が被った故に、人はその不満の捌け口を猫に向けたのだろう。……さしずめ猫が病原体を持っているなんて噂でも流されたのだろうな。……瑠美子、おいで」

 瑠美子は賢い猫だ。名を呼ばれるとすぐに私の足元にすり寄った。彼女を抱えあげて、

「天然痘」

 と言ってやる。すると瑠美子はびくりと体を震わせ、じたばたと暴れた。

「瑠美子、すまないな。よし、よし。大丈夫」

「その病名に強く反応する、ということは、何かの記憶があるようですね」

 奥谷教授の顔が、少し曇っている。言わずもがな、彼は察知したのだろう。天然痘の原因であるとされた猫たちがどうされたか。

 ‎私は瑠美子が落ち着くまで、彼女を撫でて、その後で彼女を放した。

「これで私の論は多少補強されたかと。瑠美子がその言葉に対してネガティブな反応を示した、ということはあまりよくない扱いを受けたのでしょう。詳細は分かりませんが、その一環があの呪いです」

「うーん、しかし、わっかんねえな。それでどうやって転生する猫に結び付くって言うんだ」

「探偵。仏教は何を目的としたものか知ってるか?」

「生憎だが知らんな。祈る理由も、なんにも」

 探偵は顔をしかめている。こいつは宗教を毛嫌いしているようだし、まあ当然の反応かもしれない。

「仏教は輪廻転生から外れることを目指したものだ。生きるのは辛く苦しいから、何度も生まれぬように。それが仏教の根底にある目的だ。彼らはそれを逆手に取った。"この猫を永遠に苦しませよう"」

「その結果が、転生だと?」

 奥谷教授の問いに頷く。

「先ほどの奥谷教授の報告を受けて、さらに確信しましたよ。"三"は仏教では重要視される数字でして、無限に近い意味があります。例えば、仏の顔も三度まで、なんて言葉がありますけれどあれは三回目までは許してもらえるという意味だけでなく、仏は何度でも許してくれる、という意味にも取れるのです。現代では専ら前者ですが」

「なるほど。猫の骨が3体分。猫に無限の意味を持たせた」

「そうなりますね。しかも、当時の人がどこから仕入れた知識かは分かりませんが……蛇にも無限の意味があり、循環性の意味も持っています。これを輪廻と解釈したのでしょう」

「蛇はその生命力と脱皮という特徴から不老不死の象徴としても扱われてきましたからね。彼らがそれを重視したというのなら、分からなくもない理由です」

「ええ、そして蛇の数は九匹。九は苦を象徴する忌み数です。偶然と言われればそれまでですが、相当な恨みを持っていたと。.……おい、探偵。聞いているか」

 探偵は食べていたクッキーを飲み込むと、ああ、と気のない返事をした。

「聞いてるさ、聞いてる。聞いてないようで聞いてるもんだよ、人間ってのは」

「ならいいが。……まとめると、ですね。瑠美子は天然痘の恨みを買って、輪廻転生するような呪いをかけられた。それがどうねじ曲がったかはわかりませんが、このような目に見える転生になったわけです。加えて彼らがこだわったのは、猫のまま転生し続けることです」

「……それはまた、どうして?」

「輪廻転生を普通にしろ、というのなら呪いなどは不要です。修行をしなければ外れることができないのが輪廻ですから」

「ああ、そうか。猫は修行をしねえ。修行する猫なんていたらそれこそオカルトだな」

「その通りだ、探偵。つまりその願いが、猫であり続けろという強い願い、呪いがこのような結果を招いたのです」

 言い終えて、息を吐く。

「私の推測は、以上です」

 奥谷教授はなにも言わず、しばらく瑠美子を眺めていた。

「……ちなみに、ですが。これにおいては呪いを検証する方法が一つだけあります」

「解呪、でしょう?」

「ええ。……方法は分かりませんが、可能かと」

「……これは、参った。参ったな」

 奥谷教授はそう呟きながら、瑠美子に近づいた。瑠美子も奥谷教授の足元に近寄る。彼女を抱えあげた。

 ‎瑠美子の転生を止めるとは、即ち死を意味する。それは彼女にとって幸福であるか否か。瑠美子はなにも言えない。死にたいとも生きたいとも表現できない。それが猫というものだ。500年という時を漂った彼女は、果たして何を思っているのか。それとも何も思っていないのか。

 ‎奥谷教授も同じことを考えているのだろう。彼女の目をじっと見つめ、彼は深刻な表情を浮かべていた。


 あの後、奥谷教授はすぐには答えを出さず、考えさせてくださいと言った。

 ‎無邪気で奔放である彼が、本気で思考を巡らしている苦悶の表情を見せるのは後にも先にもこれ一度きりであろう。

 ‎斜陽差す列車の中、探偵が言った。

「難儀なことだ」

 探偵のほうを見ると、眉を寄せていた。心配とも取れる表情だ。

「奥谷教授のことか?」

 探偵は目を伏せる。

「ああ。……単に手放したいとかいう次元の話じゃねえ。あの猫の幸せを考えれば考えるほど、詰まる」

 確かに、そうかもしれない。我々は幸福というものの正体を突き詰め得ただろうか。人間の幸福がなんであるか、それすら理解できずにいるのに、猫の幸福がなんであるかを説くことができるだろうか?

 ‎私は一瞬の思考の後、答えた。

「それでもいずれ、なんかしらの解答を出さなければいけないだろうな。……私たちは、これ以上関与できないよ。……それより、探偵。興味深いことを言っていたな」

「ん?」

「あの場所が知られていなさすぎる、と」

「……ああ、そういえばそうだったな。単なる偶然と言えばそれまでだ。特に気にすることでも」

 探偵は私の方を見て、言いかけの口を閉じた。そして、ため息を吐き、呆れたような微笑みを向ける。

「気になるんだな? 学者様。今から付き合えっていうのか、神社に」

「そうだ。奥谷教授の依頼、そういえばもうひとつあったのを思い出してだな。瑠美子がなぜオカルト的な人間の手に渡らなかったのか。偶然と言えばそれまでだ。だが500年の歳月の中、瑠美子はじっとあそこに留まっていたのか? 誰にも保護されずに。……そう考えるとおかしな話だろう?」

「調べる価値はあるかもな。現場百篇。付き合ってやろう。あんたをあの場所に一人で行かせちゃあ転落死しないか気が気じゃねえ」

「ご心配どうも。そうと決まれば、さ、降りるぞ」

 二度目の神社への道も、危険であった。私は探偵からの横抱きか俵担ぎかという提案を拒否したのだが案の定転び無理矢理に担がれた。

「言うこと聞いとけ。ガキじゃねえんだ」

「ああ私がお前の子どもならだっこでもおんぶでも構わん! だがもう三十半ばなんだぞ!」

「そうだな。三十半ばですってんころりんして服汚したんだよな。素直に持ち上げられてろ学者様」

 これについては返す言葉もなかった。転倒の呪いを話したところで笑われるか呆れられるかがオチだし、奥谷教授に論破されたばかりだ。

 ‎しかし私はそんな不注意か。自分の欠点になんとなく気分が萎えてしまう。

 ‎探偵に担がれ揺られること数分。見覚えのある景色にたどり着いた。それにしてもこの神社跡が呪いの儀式場などと、あの時は思いもしなかったな。

「さて、着いたはいいが、なにをどう調べたもんか」

「うーん……そこなんだ。瑠美子がこの場を動けなかったとすると結界かもしれん。どこぞに札とかが貼られていたりはしなかったか?」

「いや……見てねえな。まず、だ。その結界とかいう奴は外から何も見えなくするのか?」

「ん?」

「誰にもこの場所を知られないような結界とか張れるのかって話だよ」

「ああ。先ほども言ったがオカルトは信仰と執念だ。そういったことも可能……いや、分からない。だが結界の実例は何度か目にしたことがある」

「へえ。結界は札じゃねえと無理なのか?」

「いや。繰り返すが大事なのは形式ではなく心だ。しかしやはりある程度の形式を整えなければ信仰は成り立たないだろう。札以外なら……楔、というのも見たことがあるな」

「楔か。よし、手分けして探してみよう。……転ぶなよ」

「馬鹿にするな。子どもじゃないんだ」

 探偵にそのように一喝するが、彼は嘲笑うように私の服を指差した。

「そうだな。泥んこ遊びをするようなガキじゃないよな」

「っ………」

 羞恥と悔しさで顔が歪むのが自分でも分かった。当分この探偵とは飯を食わないことにしよう。

 探偵と二手に分かて近辺を捜索する。社の細かいところから木の幹一つ一つまでを注意深く観察してみたが、特に変わった様子がない。木に模様でも彫られていないかと観察していると、遠くから探偵に呼ばれた。

 ‎探偵の方に向かうと、それは前回も目にしたパイプ椅子とぐちゃぐちゃになった段ボール。L字ロッド。

「これ、人がいた形跡だよな」

 私は頷く。

「前回、ここを見つけたが役に立つような情報もなかったから伝えなかった。……が、今思えばすこし気になる」

「ああ、気になるな。……この形跡は博士さんより後か先か」

「先だとすれば瑠美子はその際に目撃されていることになるが……」

「拾われはしなかったってことか。まあ気になりはするが、あんたの言うように役には立たなさそうだ」

 そうだな、と答えて私はL字ロッドに目を落とした。

「まさかな」

 ダウジングで偶然にもなにか見つかってくれはしないものか。私はペンデュラムを手に取り、紐を二本の指で持った。

「……どうした、学者様」

「いや、ダウジングを試してみようかと。ああ、あまり期待するな。こんなものはただの気休め……」

 気休めでしかない。そう言おうとしたとき、ペンデュラムが不自然な揺れを見せた。その揺れは次第に大きくなっていく。

「……おいおい。ジョークとしちゃあテンプレートすぎるな」

「ジョークかどうかは、掘ってみてからだ。探偵、さっき買ってきたシャベルで掘ってみてくれ」

 神社になにがあってもいいように買ってきた安物だ。あいよ、と返事をして探偵は疑いながらも地面を掘る。

 ‎少し掘り進めた後、探偵が手を止めた。驚きの表情を浮かべている。

「おいおい、まじかよ。なんか埋まってやがる」

「本当か?! 掘り出してみてくれ!」

 だいぶ物が大きいようでその回りを10cm程掘ると、埋まっている代物が八角柱であると推測できた。探偵がそれを掴み無理矢理に引っこ抜くとようやく全貌を把握することができた。

 果たして掘り出されたのは直径15cm、長さは30cmほどの木製の杭であった。

「あー、ようやく取れたか。学者様、こいつはなんだ」

「杭、だな。……だいぶボロボロのようだが、よく全身無事のまま抜くことができたもんだ」

「ああ、下手に触ったら壊れそうだ。腐食が進んでる。それにしたって、杭か。ここになにか建てる予定だったのか?」

「いや、もしかしたらこれは……結界を張るための杭か?」

 なんとなくフォルムに見覚えがある。が、腐食が酷いものだから判別をするのは難しそうだ。

「どうだ、わかるか?」

 探偵の問いに、否定の意を示す。

「少し詳しく見てみないとな。……持ち帰ることにしよう」

「正気か。それで電車に乗るのか」

「まあ、ビニール袋かなんか調達してそのなかに入れておけばいいだろう」

 その後、私たちはそれ以上の成果が上がらず探偵と私は家に帰ることにした。

 ‎鍵を開けて、杭が破損しないようそっと玄関口に置く。一応写真は取っておいたので、後は過去の結界に関する事例を調べれば片は付くだろう。

 ‎私は山積みになったファイルの中から、まあだいたいここら辺だろうとあたりをつけて数冊取り出す。

「えっと、悪魔召喚……蘇生術……ツチノコ……ああ、あった」

 結界のファイルを見つけ、類似したものを探してみると、気になるものを見つけた。

「白水上木神社、か」

 この神社は、東北地方にあり、長い間人に知られることはなかったが、3年前にその存在を認識された無人の神社だ。この神社は過去に放棄されたようで所々が風化している……のだがその付近では多数の気になる証言が上がっている。その主旨は「あの神社は突然現れた」といったものだ。しかし付近の防犯カメラの隅っこにはしっかりと白水上木神社が映っていたらしく、場所もかなりの田舎で立地も見つけにくいものだったとのことで、それほど話題にはならなかった。

 ‎しかし、白水上木神社の本家、白水神社は結界を使って邪気を払っていたとの伝承があり、そのような行事が今でも行われているようだ。内容としては、「鬼から姿を隠し、福を呼び寄せる」といったものと聞く。

 ‎つまり、この結界が人避け、もしくは「認識させない」類いのものであった可能性が存在していたのだ。

 ‎私は過去に週一で本家白水神社に通いつめて、しつこく結界の存在について聞いた。宮司は最初冷やかしだと思ったのだろう。門前払いをされていたが、私の誠意が伝わったのか、彼女がいろいろと話してくれた。結界の話のみならず白水神社の歴史など。白水上木神社の一件は先代が、悪霊を鎮めるために神社を人から隔離する必要があったようで、そこで人避けの結界を張ったそうだ。その結界がとうとう切れ、白水上木神社は公になった、と彼女は言っていた。

 私はスマートフォンを取り、電話を掛けた。白水神社の宮司とはそれ以降、形は違えど無形を信じるものとして仲良くさせてもらっているのだ。あと中々綺麗な方だ。

「あ、すみません。突然電話してしまいまして。ええ、ちょっと見てもらいたいものがあるんですよ。はい、はい……」

 明くる日の昼。私は白水神社の宮司を家に招くことにしていた。探偵にこの事を話すと『さっさと片付けろ』と言われ、久々に書類の山などを整理する羽目になった。約束した時間が正午などでなかったのは救いだ。起きて3時間ほどでこの部屋のものを片せるほど、私の要領はよくない。

「はあ……これでいいだろう。ああ、疲れた……」

 ‎朝から慣れないことをした私がソファにずっぷりと体重を預けていると、チャイムが鳴らされた。

「早いな」

 時計を見るとそうでもなかった。片付けだけでこれほどの時間を潰せるのならば、退屈があまりに苦しく死んでしまいそうな時があれば、ちょうどいい暇潰しになるだろう。

 ‎ちなみにそんな暇をもらったことは一度もない。

 ‎ドアを開けると宮司の威厳というやつを全く感じさせない、いわゆる今時の女性が立っていた。

「あ、どうも、宮本さん」

 彼女の……白水美麻の屈託のない笑顔で片付けの疲れなどは一瞬で吹き飛んだ。ああ、やっぱり可愛らしく、汚れない様はどちらかと言えば巫女ではないか?

「わざわざすみません、家に呼びつけたりして。すみません、汚い部屋なんですが」

「いえいえ。大丈夫です」

 彼女を家にあげると、困惑した声が聞こえた。

「……どうかしました?」

「いや……日本人的な謙遜かと思ったのですけど、宮本さんはとても素直な方なのですね」

 ショックで頭がぐらりとゆれたのが分かる。これでも片付けた方なのだが、駄目か。

 ‎もちろんそんなことは言えず、すみませんと苦笑い。間違いなく非は私にある。彼女に悪意などというものは微塵も宿っちゃいない。付け加えれば、遠慮なども全くない。

「ところで、件の代物はどこにあるんですか?」

「あ、はい。こちらです」

 私が袋にいれた木の杭を持ってくると彼女の目の色が途端に変わったのを察した。

「宮本さん。今すぐそれを持つ手を離してください。ゆっくりと」

「え……あ、はい」

 プロの言うことは聞くものだ。私はそれから手を離した。

 ‎美麻は袋を開き、じっとその杭を観察する。いや、観察ではないのかもしれない。彼女が実際に結界を行使する場面に、一度だけ遭遇したことがある。

 ‎白水上木神社の人避けの結界を一時的に張り直した時があったのだ。私は美麻に「危ないですから」と同行を断られたのだが、彼女が境内に入り少しすると、突如白水上木神社が"消えたのだ"。私は慌ててそれがあったであろう場所を撮影したが、どこにもなく、消え去っていた。

 ‎彼女の結界はあまり持つものではないが、なんらかの施しをするには十分な時間なのだろう。1時間ほどで彼女と共に白水上木神社が姿を表した。

 ‎写真を確認すると、その中にはしっかりと白水上木神社の姿が写り込んでいた。

 ‎彼女が一種のサイキッカー(ここでは超常的な能力を行使できる人間全てのことを指す)であることは経験的に間違いないことだ。私はオカルトの専門ではあるが、そのような能力を行使できたことは一度もない。知識のプロは決して技術のプロになれるわけではないのだ。

 彼女は少しすると、先ほどと同じような可愛らしい笑みを向けてきた。

「とりあえず、一時的な無力化は行いました。宮本さん、こんなものをいったいどこで?」

 私は一通り瑠美子の話、それを調べているという話を彼女にした。

「……一応、こういう経緯がありまして」

「にわかには、信じがたいお話ですね」

 それには苦笑を返すしかない。私たちにとってはあなたの力がほとんど信じがたい代物だ。

「この杭は、確かに結界を張るために使用されたでしょう。"呪縛"と"人避け"。しかし、これはもう神道とかではないですよ。黒魔術にも近い、あまりにも邪悪なものです。……宮本さん、あなたはこれを掘り出したと言いましたが……これはまだ効力を残しています。裏を返せば結界を無理矢理に打ち破らなければ、そんなことは不可能なんです。そもそも、私のような人間でなければこのような人避けの結界に気づくはずはない」

 まだ効力を残している? 私はその言葉に、おかしいな、と感じた。私も完全に油断してこの杭に触れていたのは、この杭が「最早効力を持たぬ代物」だと認識していたからだ。

「一体、どうやったんですか。あなたの近くに私と同じような人間が?」

 美麻は私に詰め寄るが、全くもって心当たりがない。奥谷教授も、探偵もそんな素振りは見せなかった。

「いえ……そんなはずは」

「……。宮本さん、その場所に案内してくれませんか? とにかくこのような邪悪な代物を放っておくわけにはいかないのです」

「ええ」

 言って、出掛ける準備を始める。が、一つ大事なことを言っておかなければならないことがあった。それを思い出し、あの、と声をかける。

「その……件の猫の呪いを解くのは待ってくれませんか?」

 すると彼女は苦笑した。

「そういうわけにはいきません。……と言いたいところですが、残念ながら私にはその呪いを解くほどの力はないでしょう。ええ、この杭の無力化も一時的にしか出来ないというのに、生命にまで深く入り込むような呪いは……解けないです」


 神社に案内すると、美麻の眼はいよいよ鋭くなってきた。垂れた目尻からは想像できないほどの警戒から来る緊張が漏れている。

「間違いないです。この結界は無理矢理破られた。それも、バラバラです。普通はこんなことはあり得ないというのに……」

「あり得ない?」

「ええ。結界を破るにしても、私は一点突破で小さな穴を空けることしかできませんが、これは違う。そういったものを全部無視して、完全に破壊し尽くしているのです」

「…………」

 私は、この時には奥谷教授がサイキッカーでないかと考え始めていた。そもそも瑠美子を見つけたのは彼だ。ということは神社に侵入したのも彼が最初である。

 ‎しかし、断言できない要素が一つ。ここで"お茶会"を開いていた、もといパイプ椅子を持ち込んでいた存在が、彼より先に侵入したか、否か。

「私ができることはなさそうですね。これは"上"に報告しなければいけないことでしょう」

「あの……」

 恐る恐る声を掛ける。すると美麻はいつも通りの純粋な笑みで、

「大丈夫ですよ、宮本さん。この場所を保護するだけです。ですが、もしものことがあれば私から提言しておきましょう。……それに私たちもこの呪いを研究しなければなりませんし、そう簡単に解呪とはいきませんよ。危険でもありますからね」

 その言葉に胸を撫で下ろした。

「それよりも私の興味はこのようなことを易々と行えるサイキッカーについてです。宮本さん、心当たりのある人物、いらっしゃるんですね」

 私は、ええ、と返事をした。奥谷教授に電話を掛ける。

「もしもし、奥谷教授。いまどこですか」

「宮本さん、珍しいですね。今、池蒲公園ですよ。今日は何の……」

「博士ーー! 遊ぼーよ!」

「ねえねえ博士! この虫はなあに?」

 電話越しにいくつもの子どもの声が聞こえる。

「ああ、ちょっと待ってね。博士は今お仕事の電話で忙しいから。ほら30秒だけ待ってね。……ええと、何のご用でしょう。出来れば30秒以内で」

 苦笑する。律儀な人だ。

「今、奥谷教授にはサイキッカーの可能性が浮上しているのでサイキッカーがあなたに興味を持っている。ので今からそちらへ向かいます。以上」

「え、あ、ちょ」

 電話を切り、美麻に笑顔を見せる。

「許可が下りました、行きましょう」

 どうせまた公園でフィールドワークでもしていたら子どもに囲まれていたのだろう。

 ‎私たちはこの近くである池蒲公園に向かった。タクシーで10分程度の場所だ。それなりに広い公園で、林の中のジョギングコース、テニスコート、グラウンドなどが整備されている。

 ‎探すこと5分。奥谷教授は林の中で子どもとじゃれていた。遠くに私の姿を認めると、彼はこちらに手を振る。周りにいる1,2,3……5人の子どもも私たちの方を見た。

 ‎近づいて、挨拶をする。

「どうもいきなりすまない」

「いえ、まあ、いいですよ。で、先ほどの話は」

「博士ー! この人誰ー?」

「博士のお嫁さん?」

「お姉さん何してる人ー?」

 子どもというのはここまで好奇心が旺盛で、ここまで人懐っこかったか。

 ‎小さな女の子が私に声をかけてくる。

「ねえねえお嫁さんー」

 奥谷教授の嫁と言われるのは構わない。が、貰い手のつかない独身女にその問いは堪える。

「違う、違う。私は博士のお嫁さんじゃないんだ」

「じゃあ彼女?」

「なっ……」

 質問攻めに会う私を奥谷教授が助け出した。

「こらこら。彼女はぼくのお嫁さんじゃないよ。この人は宮本さん。僕の友達だよ」

「博士のお友だちなの? じゃああなたも博士なの?」

「えっ」

「何の博士なのー?」

「あ……うーん……」

 私は少し考えて、答えた。

「お化け、かな……」


「宮本さん、人気でしたね。あの子達も喜んでましたよ。『博士が増えた』と」

「子どもに喜ばれるのは、悪くないな」

 子どもは好きだ。ほんと……ほんと可愛い。余計に子どもが欲しくなってしまった。

 ‎余韻に浸っていると、奥谷教授が、

「ところで、あの方は?」

「え? ああっ! すみません美麻!」

 少し離れたベンチで、美麻はいつの間にか買ったのであろう缶ジュースを飲んでいた。

 美麻は微笑みかけてくる。

「いえ、見てて楽しかったです。宮本さん、母性に溢れた顔をしていらして、なんだかほっこりしました」

 言われて顔が熱くなった。私はそんな顔をしていたのか。奥谷教授に目で聞くと、彼女とよく似た笑みを浮かべて、

「ええ、確かに。とても素敵な顔をしていましたよ」

 死にたい。恥ずかしい。

 ‎美麻は奥谷教授の方へと向かってくる。

「あなたが、奥谷さん?」

「ええ、そうです。あなたがサイキッカーの方ですか?」

「……まあ、宮本さん風に言えば。白水美麻と言います」

 美麻が右手を差しだし、彼もそれに応じる。

「奥谷廉太郎です。博物学……ああ、ええと生物や地層、いろいろと研究しております」

「私は神社で宮司をしています。……白水神社はご存じですか」

「いえ」

「よければ今度、いらっしゃってください。……ところで、あなたはサイキッカーなどと言われて、信じるのですね?」

「はは、私は宮本さんを信じていますから」

 美麻は私の方をちらりと見て、また彼の方を見る。

「私が超能力者の可能性がある、と宮本さんはそう仰いました。しかし私は……そんな大それた事をした覚えはないです」

「ええ、無自覚かもしれませんね。しかしあなたはあの神社の結界を破った可能性があります」

 そうですか、と奥谷教授は頷き、

「……で、いかがでしょう。あなたの見立ては。僕に会って、その可能性は高くなりましたか? それとも低くなりましたか?」

 美麻は手を離し、ふふ、と笑った。

「皆無、ですね。あなたは普通の人です。あの結界を破れるはずがない」

「そうでしょう。宮本さんから聞きました。オカルトは信仰であると。……自分にそういう能力がないと信じている私に、そのような力は宿らない」

 宮本さんのこの仮説、気に入ってるんですよ。そう彼が耳打ちしてきて、少し嬉しくなってしまった。人間誰しも認められるというのは快いものだ。

「ふう……少し、残念です」

「残念?」

 美麻が眉を下げた顔を上げる。

「ええ、もし、もしそうであったなら……。私たちは常に人で不足なもので」

「なるほど」

「大変なんですね、そういった道の人も。……ところで、えー、美麻さん」

「はい? はい、どうかいたしましたか?」

「あなたは超常的な能力を行使できる、と。私はあなたにとても興味があります。ええ、その能力がどのような効力を及ぼすか、その限界はどこなのか」

「あ、いえ……すみません。その……こういった力はみだりに使っていいものではないのです」

「……そうですか」

 奥谷教授が悲しそうに顔を伏せる。相当がっくり来たようだ。美麻が慌てる。

「あっ、えっと、そういった力を使うときにはお呼びいたしますから、どうかそんなに悲しまれずに……」

「ああ! 本当ですか!? ありがとうございます」

 奥谷教授はすぐに顔を上げ、満面の笑みで、彼女の手を取った。

 現金だ、と彼を知らない人ならば言うかもしれないが、彼は素でああなっている。心の底から落ち込んだあとに心の底から喜んでいる。

 ‎美麻はそれに対して少し照れたように、いえいえ、と返していた。

 ‎悪気の全くない同士のやり取りは、かえって胡散臭くも感じうるが、微笑ましくもあるものだ。

 ‎それにしても奥谷教授がそうでなかったとしたら、

「……恐らく、あのパイプ椅子を持ち込んだ人間が、サイキッカーか」

「ところで宮本さんにはサイキックの素養があったりするんですか、美麻さん」

「え? ……いえ、ないですね。宮本さんも普通の人です」

「なるほど……」

 奥谷教授は私の方を向く。

「その結界とやらを破ったのは、何者なんでしょうね。ましてやそこでくつろいでいる」

「……その者に会えるかと言われれば、分からないな」

「まあ、確率は低いでしょう」

「だな。……すみません、美麻。付き合わせてしまって」

「いえいえ、平気です。宮本さんは信心深い、貴重なお方ですから」

 美麻はその後、"上"にこの事を報告するとのことで急ぎタクシーで帰った。美麻が帰り薄暗くなった公園には私と奥谷教授だけになった。

 ‎私は、彼に瑠美子の解呪は今のところ不可能だということ、その経緯なども伝えた。

「……そう、ですか」

 奥谷教授はぼんやりと夕日を眺めている。

「浮かない顔だな」

「彼女にとって、転生が不幸であるか、散々に考えました。考えたんですよ。しかし、僕はすぐに気づいたんです。そんな答えを出すには、僕はあまりにも無知だ。あまりにも無知で……どうしようもない」

「………………」

「果たして生きることはは幸せか? 死ぬことは幸せか? 僕ら人間は、高度に発達した脳を持ちながらそれを出せない。いや、持っているからこそ出てきた問いであって……では猫は一体幸福を考えるに能う脳があるのか……もうなにも分からないわけですよ。こういうときに、僕は無力を思い知る」

「……でも、あなたはどうするか決めたのだろう?」

「はは、そうですね。決めましたよ。結局僕は……僕は現状に座すしかないのです。動くことが出来ない。動かせるのは……座りながら動かせるのはこの手くらいですか」

「……なるほど」

「……現状で、幸福な状況を、彼女に提供することに決めたのです。これが正しいとは思いませんよ。これには僕が彼女を手放したくないというエゴも含まれていますから……しかし間違っているとも思わないです。いくら欲望にまみれ、あまりに汚いと思える意思を含んでいても、その決断が間違っている証明にはなりません」

 そのあと、奥谷教授は笑ってこう締めくくった。

「ま、どうあがいても、言い訳なんですがね」

 私は、それについてはなにも反応しなかった。できなかった。したところで、訳のわからない沼に足を沈める気がしたからだ。

「……なあ、奥谷教授。少し飲まないか。ワインが美味しいお店を知っている。探偵のやつも呼ぼう」

「……ふふ、良いですね。行きましょう、今日は宮本さんの奢りですね?」

 奥谷教授が私に向けた、混じりけのない笑顔。それを私は、うらやましいと、ただそう思った。

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