深爪
時雨逅太郎
深爪
紙ヤスリを指でなぞったことはあるか。俺はその時、サーカスの綱渡りにも似たスリルを感じていたことを覚えている。さらり、と猫を撫でるくらいの力なら問題はない。しかし、その先はどうであるのか、俺は期待と不安を抱えながら俺自身の指で実証していった。
どれほどであろうか、姑が埃を確認するアレくらいに指を強めると、ガリッと嫌な感触が伝わった。慌てて指を離して見ると、爪の先がほんの少しではあるが削れていたのだ。俺はその時、とんでもない気持ち悪さに襲われたのを覚えている。吐き気とまではいかなくても、全身に駆け巡る恐怖と焦燥に俺は耐えかねず、誤魔化しに水を飲んだ。
以来、俺はひどく深爪をするようになった。爪から伝わる感覚がなぜあんなにも気持ち悪いのかは分からないが、俺は爪から伝う感覚のほとんどが受け入れられなくなっていた。
爪、というのはよくよく考えてみればおかしな器官である。人間の体の中で外界に触れうる硬質な部分は歯と爪ぐらいであり─私の友人はここに髪の毛を入れたがったが、私は生物学的に同質であろうともそれは許容できない─常に、という制約を付けるならば爪でしかあり得なくなる。
それに歯と爪は明らかな差異が存在している。それは磐石さだ。歯はがっしりと歯茎という垣に支えられているが、爪は肉と─どういう原理かは分からないが─引っ付いているだけで、衝撃を与えると飛び込み台ほどはいかぬが丁度あの感じで細かく、小さく、震えてしまうのだ。俺はその感覚にひどい危うさを感じている。いつ、こいつが剥がれてしまうのか、人間が普段気にしないその部分を嫌でも想起させる。
人間は温室育ちではないが、鈍感である。いつ崩れるか分からないこの日常を、まるで永遠に続くかのように錯覚し続ける。爪は、その中でも最も身近な存在なのだ。こいつが、ふるる、と震える度に、俺はその堪らなさに身悶えする。数学の解のようにぴたりとはいかない。むしろ数学そのものの欠陥を見つけてしまったような感覚。だから俺は爪を可能な限り切っていく。そしてまた深爪をするのだ。
深爪 時雨逅太郎 @sigurejikusi
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