第2話『忌み子』
「目が
「まるで
ユダ・ヴァーユはとろんと
それは彼女の隣で同じようにだらしない顔をしている夫、ガランも同じだった。
「俺のぉおおおお! 目がぁああああアアアアアアアアアアア!!」
「ああ、ああもう、食べちゃいたいくらい。きっと蕩けてしまいますね」
「目がぁああああアアアアアアアアアアアっっ!!」
「って、うるさいですよ。アーチャが起きたらどうするんですか、あなた?」
ユダが
「いやすまん。それにしてもユダが優しい……これもアーチャのおかげだなぁ」
「あら、普段の私は優しくないとでも?」
「ひっ!?」
聞き捨てならない言葉が聞こえたので目を細めて
「ふふ、冗談ですよ。はあ~、可愛い可愛い私のアーチャ。ちゅき、すごいちゅき、んまんまんまーっ」
「なんだなんだ、ユダも人のこと言えないんじゃ――」
「今、何か言いましたか?」
「いや何でもないぞ? 本当だぞ? ……元気に、育つといいな」
「ええ、本当に」
二人が見下ろす高級木製のベビーベットには、赤子が一人すやすやと気持ちよさそうに寝入っていた。一週間前に生まれた、ユダとガランの初めての子だった。
名をアーチャ・ヴァーユという。
その見目はユダに似たのだろう。まん丸い
はあ……と、尊すぎるが故の幸せな溜息が、二人の口から零れて止まらない。
「……しかし」
が、いつまでも可愛い我が子の寝顔を眺めて癒やされている訳にもいかない。
この子は紛うことなく天使だけれど、大きな問題を抱えて生まれてきたからだ。
「またどうして《ウェポン》が……」
「あなた。それはもう言わない約束でしたよね?」
「う、す、すまん。無い物ねだりが、ついな」
頭を抱えたガランを、頬を膨らませたユダが
だが、ユダも多少は思うところがあった。
この世界の住民は、例外なく三つの《ウェポン》を得て生まれてくる。
そして《ウェポン》は三つ葉の痣――〈聖痕〉として背中に刻まれる。特殊な〈魔導具〉を用いるか、本人の意思を介さなければ解読が不可能、という特質を持つ黒の
だからこそ『〈聖痕〉がない』=『《ウェポン》を持たない』という認識に
これからのことを思うと、ユダは少し心配だった。
あるはずの〈聖痕〉がない。《ウェポン》がない。
ユダは憐れな息子の柔い頬を
「……この子は、巫女の一族に課せられる〝義務〟を果たせるでしょうか」
「そうだな、成人までの義務はどうにかなると思うが……」
巫女種は他の三種族には大きく劣るものの、〈四大貴種〉が一つとして数えられる。ヒト族の限界を超えた基礎能力を持って生まれる
十歳で〈
「問題は、成人後の〝遠征〟か」
「《ウェポン》の一つも持たずに、壁の外を生身で
「厳しい、だろうな。……生き残る術は〝生体兵器〟に頼るのみ、か」
三つある兵団の中でも、極めて異常な死傷者数を誇る遠征。そこに義務として参加している身であるガランの言葉は、ただただ
「私は……人道に背いたあの
「それは俺も同感だ。だが、仕方ないだろう。人類は絶滅の一途を辿っている。戦わなければ滅びるのみ。そして真っ先に死んでいくのは、いつの次代も弱者からだ」
息子を前にして、何て酷いことを――などと責められるほど、ユダは
「…………〈ヨハネ〉は、何の恨みがあって私たちを喰らうのでしょうか」
「奴らに恨みなどない。あるのは
「…………わかっています」
ユダは悲しげに目を細め、大窓から外の情景を見た。
そこには〈風の国〉の首都ペルンより大分離れた場所に建つ、巨大な城壁があった。曇天立ち込める
その外側にはまた街が広がっており、その街を守るべくもう一つの城壁がある。
それより外は、〈
今より約四百年前、唐突に終焉を
生存圏の拡大を狙う〈遠征兵団〉への参加義務。
巫女爵家なら
それでも、閉じこもったままでは人類に未来はない。だからこそ、無残な末路を知って尚、生体兵器という人道を
ああ、そうだ。
希望的観測だと気づいているから、こんなにも胸が痛むのだ。
と、それだけで重い感慨を
「お、アーチャが目を覚ましたぞ。ばぁあ、おはようでちゅう、とと様でちゅよぉお。ほぉら、いないいない――ばぁああああ」
「そのふざけた口調どうにかなりませんか……まぁ、今だけはこの子の可愛さに免じて許してあげますけれど」
視線を元に戻すと、
ガラン
「なんだ、死んだような目をしてないか……?」
「気のせいですよ。ね、アーチャ? よちよち、眠たいだけでちゅよね~?」
ユダがベビーベットから抱え出すと、アーチャは彼女の豊満すぎる胸に顔を埋めて「だぶら……」と小さく零した。
*** ***
室内はしんと静まり返り、アーチャの泣き声だけが響いていた。
「――――魔力が、ない……?」
ユダの唇から呆然と
出産の場に立ち会った側近のルーシーに魔法医学を教えた師でもあり、ヴァーユ家が抱えるこのヒト族純人種の優秀な魔法医師ソワンは、「心してお聞き下さい」と前置いた後、なんと言った?
魔力が、ない? この子に? アーチャに? ……は?
「なるほど貴様、さては冗談を言っているのだな? よし、クビだクビ」
「お、お待ちください。ご覧の通り、魔力の測定値はゼロを示しているのです」
ソワンに促され見やった機械は、内在魔力を測定するための
「いや、いやいやいやいや。内在魔力が少ないならまだしも、
「
「〈魔道具〉の故障じゃないのか? 新しいのをもってこい」
「お言葉ですが。魔物と協定を結んだ現代において、魔石を原動力とする〈魔道具〉は稀少な代物であります。そう簡単に手に入ることも、貸し受けることも難しいかと」
「ぐ……」
ソワンの顔は確信に満ちていた。
ガランは押し黙り、やりどころのない感情を持て余して天を
しばし間が空いて、アーチャを抱く腕に力を込めたユダが意を決して問うた。
「間違い、ないんですね……?」
「代々お抱えの光栄に預かる、ヴァーユ巫女爵家専属魔法医師の名にかけて。何度も何度も
「そう、ですか……原因は」
「今はまだ断言できかねます。アーチャ様の
「っ……」
ソワンが神妙な面持ちで言うと、ユダが痛まく表情を歪めた。複雑な情の嵐に荒らされる乙女の顔をガランの肩に押しつけ、小さく
ガランは妻の胸中を察して、血が滲む程に唇を噛んだ。
我が子の
それでも尚、
泣き
今も、認めたくは、ない。
だが、現実は現実だ。――
混乱したままの頭で思考する。
これは、どうしたものか。どうすればいいのか。
魔力が空となると、いよいよ生体兵器に頼る他ない。
それは人類が
生体兵器は非力なヒト族を〈ヨハネ〉と同じ土俵に立たせてくれるだけ。それどころか数の差で圧倒的不利なのが厳しい現状。
ああ、わからない。俺に何ができる。どうすればいいのだ。どうすれば!
「くそ、くそッ! どうにかならないのか!? 魔力を覚醒させる〈魔道具〉とか、違法だが《ウェポン》の移植でもいい、お願いだッ、報酬ならたんまり払う! 魔法医学の力でなんとかならないのか? 頼むよソワン……ッ!」
なりふり構っていられないし、解決法が自分では見当もつかないのだから、その道のプロに縋り付くしかなかった。けれど、ソワンは眉根を下げて首を振った。
とんとん、と肩が叩かれる。横を見やれば、悲しい微笑みを浮かべたユダだ。
「……あなた」
「…………そう、だな。取り乱して、すまなかった」
スッと、冷静さが舞い戻った。
アーチャは目元を赤く
ガランはショックだった。この子に呆れたとか失望したとか、そういうことではないが、……ただただショックだった。
「そろそろアーチャを寝かしつけないと。あなたもしばらく仕事は休んだ方がいいですよ。現実を受け入れるために必要なのは、時間でしょうから」
「あ、ああ……すまない」
よしよしアーチャ、もう怖い検査は終わりですからね? と優しく微笑みかけるユダ。母は強いな、と心の底から尊敬した。同時に、
《ウェポン》がない。内在魔力すら空っぽ。
だからなんだ、この子はこの子だ。
自分とユダの最愛の子、アーチャだ。
「そう、だよな。よし、よし。アーチャ! お
「あなた、そういうのはアーチャが歩けるようになってからしてください」
しまった。少し先走りすぎてしまったようだ。
そうだな、そうだったなと苦笑して頭を掻いた。
アーチャは生まれたばかりの赤子だ。こんなに小さい。《ウェポン》もなければ魔力もなく、それどころか歩くことすらできない
――この先どんな苦難が待ち受けようとも、俺が守ってあげねばな。
――どんな形であれ、この子が俺の手を離れていく、その時まで。
そう心に誓うガランだった。
できれば手を離れていくその先に、希望などなくとも僅かばかりの
「帰ったら、いないいないばあの練習でもするか」
どうか、どうかこの子に幸あれ。我ら家族が、幸せであれ。
アーチャを独り占めして抱くユダの隣で、俺にも抱かせてくれよとせがみ続けられる
その三日後。再度挑んだ検査を経て。
確信とある種の覚悟を宿した面持ちの魔法医師から、こう伝えられた。
「アーチャ様は〝忌み子〟でございます」
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