第2話『忌み子』

「目がくさる! あまりのとうとさでッ、俺の目が腐るううう!!」

「まるで御伽噺おとぎばなしに出てくる女神様のような可愛さです」


 ユダ・ヴァーユはとろんととろけた頬をあけに染めていた。

 それは彼女の隣で同じようにだらしない顔をしている夫、ガランも同じだった。


「俺のぉおおおお! 目がぁああああアアアアアアアアアアア!!」

「ああ、ああもう、食べちゃいたいくらい。きっと蕩けてしまいますね」

「目がぁああああアアアアアアアアアアアっっ!!」

「って、うるさいですよ。アーチャが起きたらどうするんですか、あなた?」


 ユダが微笑ほほえみを浮かべたまま注意をうながすと、ガランはから笑いして頭をく。 


「いやすまん。それにしてもユダが優しい……これもアーチャのおかげだなぁ」

「あら、普段の私は優しくないとでも?」

「ひっ!?」


 聞き捨てならない言葉が聞こえたので目を細めてにらみをかせると、たちまちガランはすくみ上がった。いつもならそのまま機嫌きげんを悪くする所だが、「うみゅ」と母性をくすぐる寝言が聞こえて途端に頬が緩み、でへーと蕩けた顔になるユダ。


「ふふ、冗談ですよ。はあ~、可愛い可愛い私のアーチャ。ちゅき、すごいちゅき、んまんまんまーっ」

「なんだなんだ、ユダも人のこと言えないんじゃ――」

「今、何か言いましたか?」

「いや何でもないぞ? 本当だぞ? ……元気に、育つといいな」

「ええ、本当に」


 二人が見下ろす高級木製のベビーベットには、赤子が一人すやすやと気持ちよさそうに寝入っていた。一週間前に生まれた、ユダとガランの初めての子だった。


 名をアーチャ・ヴァーユという。


 その見目はユダに似たのだろう。まん丸い輪郭りんかく、ふっくらな頬、桜色の唇、小さな五指ごし。今は閉ざされている灰白色の瞳は女の子みたいにまん丸で、雪に灰が混じったような白髪とあわせてそこはガランゆずり、アルビノ化する〝巫女種〟の血が通っている証拠だった。


 はあ……と、尊すぎるが故の幸せな溜息が、二人の口から零れて止まらない。


「……しかし」


 が、いつまでも可愛い我が子の寝顔を眺めて癒やされている訳にもいかない。

 この子は紛うことなく天使だけれど、大きな問題を抱えて生まれてきたからだ。


「またどうして《ウェポン》が……」

「あなた。それはもう言わない約束でしたよね?」

「う、す、すまん。無い物ねだりが、ついな」


 頭を抱えたガランを、頬を膨らませたユダがいましめる。


 だが、ユダも多少は思うところがあった。


 この世界の住民は、例外なく三つの《ウェポン》を得て生まれてくる。

 そして《ウェポン》は三つ葉の痣――〈聖痕〉として背中に刻まれる。特殊な〈魔導具〉を用いるか、本人の意思を介さなければ解読が不可能、という特質を持つ黒の神話文字ミュートスで。


 だからこそ『〈聖痕〉がない』=『《ウェポン》を持たない』という認識に起因きいんする。オラージュの背中は新雪しんせつごとく、神話文字ミュートスどころか染み一つない綺麗な柔肌やわはだだった。それは産声を上げずに焦った時も、こうして一週間経った今も変わらない。


 これからのことを思うと、ユダは少し心配だった。


 あるはずの〈聖痕〉がない。《ウェポン》がない。前代未聞ぜんだいみもんだ、聞いたこともない。不憫ふびんな身に産み落としてしまったことを、悔やんでも悔やみきれない。


 ユダは憐れな息子の柔い頬をで、心を痛めて視線を落とす。


「……この子は、巫女の一族に課せられる〝義務〟を果たせるでしょうか」

「そうだな、成人までの義務はどうにかなると思うが……」


 巫女種は他の三種族には大きく劣るものの、〈四大貴種〉が一つとして数えられる。ヒト族の限界を超えた基礎能力を持って生まれる代償だいしょうとして、ガランとアーチャのように目も髪も肌も真っ白に、いわるゆアルビノ化する訳だが、問題は力を持つ者の務め――〝兵役義務へいえきぎむ〟が課せられていることにある。


 十歳で〈近衛このえ兵団〉か〈守護しゅご兵団〉に所属し経験を積み、成人である十五の歳で〈遠征えんせい兵団〉へ加わる。それらは力を持って生まれた者の義務だった。


「問題は、成人後の〝遠征〟か」

「《ウェポン》の一つも持たずに、壁の外を生身で闊歩かっぽするなんて……」

「厳しい、だろうな。……生き残る術は〝生体兵器〟に頼るのみ、か」


 三つある兵団の中でも、極めて異常な死傷者数を誇る遠征。そこに義務として参加している身であるガランの言葉は、ただただ世知辛せちがらい現実を見据みすえていた。


「私は……人道に背いたあのおぞましい魔法科学兵器が、あまり好きではありません。ましてやそれを、可愛いアーチャになんて……」

「それは俺も同感だ。だが、仕方ないだろう。人類は絶滅の一途を辿っている。戦わなければ滅びるのみ。そして真っ先に死んでいくのは、いつの次代も弱者からだ」


 息子を前にして、何て酷いことを――などと責められるほど、ユダは無頓着むとんちゃくな女ではない。それが現実だ。人類の情勢じょうせいは極めて深刻しんこく。この世界は残酷ざんこくだと、大人になる過程で誰もが思い知る。


「…………〈ヨハネ〉は、何の恨みがあって私たちを喰らうのでしょうか」

「奴らに恨みなどない。あるのは殺戮さつりく本能のみ。生身で〈ヨハネ〉に立ち向かえないのなら、一般兵用に作られた最新の魔導科学兵器に乗じるほかあるまい。もちろん、兵役義務を免れられるよう色々と動いてみるつもりではあるが……恐らくは」

「…………わかっています」


 ユダは悲しげに目を細め、大窓から外の情景を見た。

 そこには〈風の国〉の首都ペルンより大分離れた場所に建つ、巨大な城壁があった。曇天立ち込める鈍色にびいろの空に届きそうなほど巨大なそれは、異形の怪物の侵入をはばむために遙か昔から備え付けられているものだ。


 その外側にはまた街が広がっており、その街を守るべくもう一つの城壁がある。

 それより外は、〈廃墟の庭園ルイナ・エルピア〉と呼ばれる死んだ街が広がっており、人類の〝生存圏〟を外れる――つまるところ、奪われた、、、、大地だ。


 今より約四百年前、唐突に終焉をもたらした異形の怪物――〈ヨハネ〉の支配領域。伝承でんしょうにて【愚かなる】と【魔導王】の手によって守られたと伝えられているブリタニアは、一時はかつての隆盛りゅうせいを取り戻したものの、〈ヨハネ〉の勢力が増していくに連れて生存圏を減らしつつあった。


 生存圏の拡大を狙う〈遠征兵団〉への参加義務。

 巫女爵家ならまぬがないそれも、力を持たないアーチャならば該当しないかもしれない。……そう言い聞かせるけれど。活路かつろを見出さんとなけなしの勇気を抱いてつ〈遠征兵団〉の末路まつろは最悪だ。生まれた命の数以上の命が壁の外で散っていく。


 それでも、閉じこもったままでは人類に未来はない。だからこそ、無残な末路を知って尚、生体兵器という人道を度外視どがいしした手段に手を染めて尚、我こそは〈遠征兵団〉にと参加する勇士ゆうしが一定数いるのだ。だというのに、常人より強い力を持って生まれる〈四大貴種〉が義務を免れられるわれなど、どこにも……。


 ああ、そうだ。

 希望的観測だと気づいているから、こんなにも胸が痛むのだ。


 と、それだけで重い感慨を払拭ふっしょくしてくれる「んな」という間の抜けた声がした。


「お、アーチャが目を覚ましたぞ。ばぁあ、おはようでちゅう、とと様でちゅよぉお。ほぉら、いないいない――ばぁああああ」

「そのふざけた口調どうにかなりませんか……まぁ、今だけはこの子の可愛さに免じて許してあげますけれど」


 視線を元に戻すと、よだれを垂らした半眼のオラージュが天井を見上げていた。

 ガラン渾身こんしんの顔芸に一瞥いちべつをくれると、ハッと鼻で笑ったような。そのまま再度天井を見上げるも、やはりその目はどこか遠くを見据えているような……。


「なんだ、死んだような目をしてないか……?」

「気のせいですよ。ね、アーチャ? よちよち、眠たいだけでちゅよね~?」


 ユダがベビーベットから抱え出すと、アーチャは彼女の豊満すぎる胸に顔を埋めて「だぶら……」と小さく零した。


 *** ***


 室内はしんと静まり返り、アーチャの泣き声だけが響いていた。


「――――魔力が、ない……?」


 ユダの唇から呆然とこぼれた声音が弱々しく震えていて、ガランはハッと我に返る。己すら現実を受け止めきれないまま、彼女の細い肩を抱いた。


 出産の場に立ち会った側近のルーシーに魔法医学を教えた師でもあり、ヴァーユ家が抱えるこのヒト族純人種の優秀な魔法医師ソワンは、「心してお聞き下さい」と前置いた後、なんと言った?


 魔力が、ない? この子に? アーチャに? ……は?


「なるほど貴様、さては冗談を言っているのだな? よし、クビだクビ」

「お、お待ちください。ご覧の通り、魔力の測定値はゼロを示しているのです」


 ソワンに促され見やった機械は、内在魔力を測定するための稀少きしょうな〈魔道具〉だ。難しい記号がいくつも連なってガランには解読不能。だが、本来であればそこに示されるはずの数値がなんら反応を示していないことだけはわかった。


「いや、いやいやいやいや。内在魔力が少ないならまだしも、ない、、だと? 全くのゼロ、、、、、だとでも言うのか?」

まごうことなくゼロでございます。すずめの涙ほどの魔力すら測定できませんでした」

「〈魔道具〉の故障じゃないのか? 新しいのをもってこい」

「お言葉ですが。魔物と協定を結んだ現代において、魔石を原動力とする〈魔道具〉は稀少な代物であります。そう簡単に手に入ることも、貸し受けることも難しいかと」

「ぐ……」


 ソワンの顔は確信に満ちていた。

 ガランは押し黙り、やりどころのない感情を持て余して天をあおいだ。発達した科学がもたらした無機質な白い照明が眩しくて、手で顔を覆った。


 しばし間が空いて、アーチャを抱く腕に力を込めたユダが意を決して問うた。


「間違い、ないんですね……?」

「代々お抱えの光栄に預かる、ヴァーユ巫女爵家専属魔法医師の名にかけて。何度も何度も慎重しんちょうに検査いたしましたが、……やはり結果は変わらず」

「そう、ですか……原因は」

「今はまだ断言できかねます。アーチャ様の御身おんみを最優先とし、後日詳細な検査をいたしますが……お覚悟、、、は、なされたほうがよろしいかと」

「っ……」


 ソワンが神妙な面持ちで言うと、ユダが痛まく表情を歪めた。複雑な情の嵐に荒らされる乙女の顔をガランの肩に押しつけ、小さく嗚咽おえつを漏らし始める。


 ガランは妻の胸中を察して、血が滲む程に唇を噛んだ。

 我が子の不遇ふぐうが悲しいのだろう。何もできない不甲斐ふがいなさが悔しいのだろう。どうしてと、応答のない質疑を繰り返し絶望に暮れているのだろう。


 それでも尚、我が子アーチャが愛おしくてたまらないのだろう。


 泣きわめく赤子の小さな身を一瞬たりとも離すまいと、強く抱くユダ。二人を包み込むように抱きしめて、ガランはどうにか心を落ち着かせようと試みる。


 今も、認めたくは、ない。

 だが、現実は現実だ。――そういうこと、、、、、、、なのだろう。


 混乱したままの頭で思考する。

 これは、どうしたものか。どうすればいいのか。


 魔力が空となると、いよいよ生体兵器に頼る他ない。

 それは人類がわらにもすがる思いで開発した魔法科学兵器。導入されたのは割と最近だが、それでも遠征の帰還率きかんりつは毎度四割を切る。犠牲者の多くは、この国の人口の九割以上を占めるヒト族の勇士だ。


 生体兵器は非力なヒト族を〈ヨハネ〉と同じ土俵に立たせてくれるだけ。それどころか数の差で圧倒的不利なのが厳しい現状。一度ひとたびアーチャを壁の外に送り出せば、きっともう……。


 ああ、わからない。俺に何ができる。どうすればいいのだ。どうすれば!


「くそ、くそッ! どうにかならないのか!? 魔力を覚醒させる〈魔道具〉とか、違法だが《ウェポン》の移植でもいい、お願いだッ、報酬ならたんまり払う! 魔法医学の力でなんとかならないのか? 頼むよソワン……ッ!」


 体裁ていさいなどないに等しい。可愛い息子の生死がかかっているのだ。

 なりふり構っていられないし、解決法が自分では見当もつかないのだから、その道のプロに縋り付くしかなかった。けれど、ソワンは眉根を下げて首を振った。


 とんとん、と肩が叩かれる。横を見やれば、悲しい微笑みを浮かべたユダだ。

 んだ紅宝石ルビーの瞳には、既に涙はなかった。酷く情けない顔をさらしている父親ガランの姿が映っているのが、よく見えた。


「……あなた」

「…………そう、だな。取り乱して、すまなかった」


 スッと、冷静さが舞い戻った。

 アーチャは目元を赤くらして、今も延々えんえんと大粒の涙をこぼしている。


 ガランはショックだった。この子に呆れたとか失望したとか、そういうことではないが、……ただただショックだった。のどが渇く、手が震える、足元がふらつく、まともにアーチャの顔を見てやれない。


「そろそろアーチャを寝かしつけないと。あなたもしばらく仕事は休んだ方がいいですよ。現実を受け入れるために必要なのは、時間でしょうから」

「あ、ああ……すまない」


 よしよしアーチャ、もう怖い検査は終わりですからね? と優しく微笑みかけるユダ。母は強いな、と心の底から尊敬した。同時に、狼狽うろたえていた自分が情けなく、恥ずかしく思う。


 《ウェポン》がない。内在魔力すら空っぽ。

 だからなんだ、この子はこの子だ。

 自分とユダの最愛の子、アーチャだ。


「そう、だよな。よし、よし。アーチャ! おトト様と寝室まで競争だ!」

「あなた、そういうのはアーチャが歩けるようになってからしてください」


 しまった。少し先走りすぎてしまったようだ。

 そうだな、そうだったなと苦笑して頭を掻いた。


 アーチャは生まれたばかりの赤子だ。こんなに小さい。《ウェポン》もなければ魔力もなく、それどころか歩くことすらできない生々流転せいせいるてんの小さな命。改めてそう考えると、たまらなく愛らしいと思った。情が湧いた、父性が際限さいげんなく溢れた。


 ――この先どんな苦難が待ち受けようとも、俺が守ってあげねばな。

 ――どんな形であれ、この子が俺の手を離れていく、その時まで。


 そう心に誓うガランだった。

 できれば手を離れていくその先に、希望などなくとも僅かばかりの安寧あんねいがあればいい。そう願いながら、アーチャの小さな手に自身の無骨むこつな手を重ねた。


「帰ったら、いないいないばあの練習でもするか」


 どうか、どうかこの子に幸あれ。我ら家族が、幸せであれ。

 アーチャを独り占めして抱くユダの隣で、俺にも抱かせてくれよとせがみ続けられる余生よせいであれ。





 その三日後。再度挑んだ検査を経て。

 確信とある種の覚悟を宿した面持ちの魔法医師から、こう伝えられた。



「アーチャ様は〝忌み子〟でございます」

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