語り部のノア

潁川誠

砂漠の国 エドグサ

ーーーー


豆知識1.ウラルド


ウラルドは楕円形の形をしており、大きな大陸が一つだけしかない。その周りは変色した海と小さな孤島が点々とあるのみである。自然は荒廃しつつあり、腐った木々や花々がウラルドを丸く取り囲んでいる。その腐ったものは命に直接危険はないものの、それから排出されるものを長く吸うと、人体に異常をきたすと言われている。


17の州でウラルドは構成されており、一番真ん中に首都モラレウスがある。



ーーーー



時刻はお昼すぎ。


辺りは砂埃で視界が悪く、乾いたこの地では当たり前の光景であったとしても、その壮観たる様子には感嘆の息をつかざるを得ない。真っ青な空は雲一つなく、カンカンと太陽が照らしているだけだ。だが、その太陽のせいで少しずつ少しずつ命が削がれていく。


「ケホッ」


小さく盛れた咳。喉がヒリヒリとはりつく。砂埃を大量に吸い込んだせいで、喉の奥は鉄の味がする。息を吸えば、ヒューヒューと息が漏れてしまい、肺に届く前に抜けていってしまうようで息苦しさを感じる。力の出ない身体の中で、数少ない動ける場所である首を左に向ければ、今はもう命絶えてしまった弟が、眠っているような表情で顔をこちらに向けていた。


「ルキ…」


最期の最期まで苦しい思いをさせてしまった。死を恐れながら、全てを憎みながら死んでしまった。お前を守ると母さんに約束したのに、その約束すら守れなかった。


「ごめん」


ごめん、ごめんと何度も謝る。瞳がじんわりとあつくなり、視界が歪んだ。こんな干からびた身体にも、まだ涙がでるような水分があったのか。その水分をルキに飲ませてやれれば、死なせることもなかったろうに。

溢れ出る涙を拭うことも出来ず、一つ二つとぽろりと落ちる。

音が遠ざかってきた。

息が吸い込めなくなる。

知識がない自分でも、これが死へと近づいているのだとわかった。


思い出が次々と蘇ってきた。

この世に生を受け、間もなくしてすぐに父さんが熱病で死んだ。悲しむ暇もなく、母さんは女手一つで僕達兄弟を育ててくれた。それでも生活はひどく貧しかった。満足にものを食べたこともなかった。いつでも食事の心配をしていた。夏は暑さに怯え、秋は実りがないことを恐れ、冬は飢餓と寒さに怯えた。人生のほとんどを、怯えて過ごしてきた。

こう思えば、幸せな人生ではなかったのかもしれない。苦しいばかりの人生だった。恐れるばかりで、楽しいと思える時は少なかった。


ああ…こんなもので。

こんなもので、終わるのか。


すとんと心に落ちた言葉に、突然恐怖が芽生えた。

死ぬのか、たった数十年の命で。

まだ、なにもしていないのに。


「っ」


怖い。

身体が震える。

パニックに陥る。

瞬間、ゆっくりと穏やかだった息遣いがパニックのせいで荒くなる。はっはっと息をつきながら瞳を何度も瞬かせれば、また涙が出てきた。この涙は、恐怖からだろうか。恐ろしくて、こんなもので死にたくないと、身体や心が訴えている。


「た…けて」


誰か、助けてくれ。この苦しみから救ってくれ。

誰でもいい。誰もいいから。

僕を、助けて。


「大丈夫ですよ。」


不意に頭上から声がした。

驚きのあまりはっと息が止まる。次にきたのは、あまりにも冷たい、誰かの手の平が額に押し付けられた感触だった。


「大丈夫です。死を恐れる必要はありません。あなたの傍にあるのは、あなたに危害を加えるものではありません。」


穏やかな口調だった。その人は、 高いような低いような、耳に心地いい安らかな声をもった人だった。


「あなたの苦しみも、あなたの恐怖も、私がすべて引き取って差し上げます。ですから、大きく息を吐いて瞳を閉じてごらんなさい。」


その人のいう言葉は、なぜか心を落ち着かせた。今まで騒いでた心が静かに凪いでいく。言われた通りにすれば、先程まで吸い込めなかった息が、ゆっくりと肺に染み渡った。


「なた…は…」

「私はノアと申します。あなたの言葉を、ウラルドのすべてに至るまで、語り継ぐものです。」

「…かたり…べか」

「そうですよ」


にこりと、その人が笑った気がした。

そうか、あの有名な「語り部」か。ならばもう大丈夫だろう。


「ぼくの、瞳を 」

「わかりました」


願い請う。語り部の手の平が目の方へと移動した。ひんやりとした感触が目に移ったのを感じ、僕はゆっくりと瞳を閉じた。これで終わる。けれど、もう先ほどのような恐怖はない。

安らかな気持ちのまま、意識が遠のく。誰かに看取られて死ねるのなら、これまでの思い出が物語となって生きるのなら、これはこれで悪くない。


「安らかな終焉を」


ふっと、小さく紡がれた言葉に、意識が完全に消えた。

それは、とても静かで、とても穏やかな「死」であった。



「ノア」

「…この国も、もう長くないね」


バサバサと鳥の羽根が羽ばたく音とともに、ノアと呼ばれた小柄なそのヒトの肩に、鮮やかな色の美しさを持つ鳥が留まった。


「砂漠の国エドグサなんだから、砂に呑まれるのは時間の問題だったデショ」

「そうだとしても、進行が早すぎる。このままでは、30年も持たないだろう」


高めの女性のような声で言った鳥は、呆れたように小さく息を吐いた。


「ニーナ、私は別に哀れんでいるわけでは」

「ヤメロ。その思考は、お前を危険に晒すだけダ」

「それは、友人としての助言?それとも案内者としての?」


鳥はその鋭い嘴をぱくぱくとさせた。どうやら、不満があるらしい。


「案内者としてに決まってイル」


ノアはフードを深く被った頭を微かに揺らした。


「ごめん、わかったよ」


小さな謝罪に、ニーナと呼ばれた美しい鳥はとりあえずは満足そうにした。


「エドグサの首都に向かおう。この物語を語るに最も適している場所だ」


ゆるりと立ち上がるノア。

一瞬既に息絶えた2人の兄弟を一瞥した。憐れむのは愚か者のすることだ。彼らは死を受け入れた。ヒトにとって未知である死を、例え、恐れ、憎みながらだったとしても、受け入れたのだ。

それは偉大なる行為であろう。

だからこそ、尊敬に値する素晴らしいヒトだった。そう思う。


すぐに視線を前に向けた。マントにかかった砂をはたく。サラサラとこぼれ落ちる砂はとても細かい。


「行こう、ニーナ」


茶色を基調とした重そうなマントをかけ直す。さくりと前へ進めば、焦げ茶のごつめのブーツが砂に埋もれた。


「早く、一刻も早く」


小さく呟いた言葉に、今度はニーナは反応しなかった。代わりに彼女は、キュロラと不思議な鳴き声を一声鳴らした。途端、砂埃で視界の悪かった景色が一瞬にして晴れた。


さくり、さくりー。

辺りには砂を踏みしめる音のみが響いていた。



砂漠の渇きは、物理的に水分を奪うだけではない。

本来人にあった多くのものを吸い取り、干からびさせてしまう。それは、人々の根本にある優しいもの全てを、少しずつだが確実に吸っていく。

もちろん、渇きに耐えきれなくなった人もいる。そういう人はみな、自ずから死を選ぶ。生きていくことに意味を見い出せなくなるのだ。自身の幸福の尺度が測れなくなる。そうなると、人はもうだめになる。意味なく生きることに耐えられないのだろう。


だが中には渇きを耐え忍ぶ人もいる。

この州の民は、皆が強い。そう信じている。


「イシシュー!!!!」


窓のない空いた隙間から空を見上げていると、声をかけられた。見知った声に思わず振り向けば、おーいと大きく手を振りかざしながら親友が近付いてきた。

にっかりと大きく笑った親友は、息を切らしながら近付いてくる。


「アル、そんな急いでどうしたんだい?」


膝に手をつき、腰を折って深く息を吐く親友ーアルジャンスーにそう問いかけて見れば、アルはあのな!とばっと顔を上げた。


「あっちに人が倒れてんるだ!ちょっと手を貸してくれないか?」

「なんだって?!」


アルの言葉に驚いて、声を上げてしまう。


「あぁ!ここですよ!」


大きく手を翳した大柄な男性の元に近づく。男性の名はイルタ。ここら一帯に昔から住んでいた住民の一人だ。イルタは、俺を見つけるとにこりと笑った。からっとした笑みは、昔と変わらない。


「やぁ、イシシュもきてくれたのか。いや、ほんとアルジャンス様のお手を煩わせてしまって申し訳ないです」


申し訳なさそうに頭をかいたイルタに、アルは何言ってるんですか!とイルタの肩を叩く。


「助けを求めてる人に応えないのは、愚か者がすることですよ!そんなことしたら、父さんに殺されちてしまいます」

「はは、まったくだな。それでイルタ、その倒れてるやつってのは?」

「あぁ、その人ならここだよ」


ほら、と体をずらしたイルタ。イルタの足元に目をやれば、そこには岩陰に身体を横たえている人物が見えた。


「なんか、変な格好だな」

「旅人じゃないですかね」


幾重にもある茶色のボロボロの布切れを身体に巻き付け、だるっとした明らかに体のサイズにあっていないズボンに、やけに大きながっしりとした黒いブーツを履いたその姿。ここらへんでは到底見られない格好だった。それに、と俺は思う。顔の見えないほどに深々とかぶったフードに、口元をすべて隠した布切れが、異質だと。


「生きてるのか?」

「まぁ、一応…?」

「なら、俺の家に運ぼう。イルタ、手伝ってくれ」


そっちをもってくれとイルタに頼む。彼ーいや彼女か、一見して性別は分からず、その人の足を持ち上げれば予想外の軽さに目をぱちくりとさせてしまった。頭の方を持っていたイルタも、同じように驚いている。


「軽いな。なんだ、それなら俺でも持てそうだ。」


イルタに断ってその人を抱く。横抱きでは息がしづらいだろうと、仕方なくいわゆるお姫様抱っこと呼ばれる抱き方をする。


「すまんな、イシシュ」

「いいんだって。イルタは前も腰やってたし。それに俺は若いしね」


すまなそうに謝るイルタに、俺は軽い口調でニヤリと笑ってみせる。イルタは、そんな軽口に対しなんだとコノヤロ!と軽く肩を叩いてきた。だがイルタはそういうが、実際全くの無問題なのだ。この人は恐ろしいほど軽い。人間を抱いているとは思えないほどだ。


「イシシュ、じゃあ僕は先にマルカのところに行ってくる。マルカに頼んでその人の手当てしてもらおう」

「あぁ、頼むよアル」


アルの機転に感謝する。イルタが横に並び、俺達は砂に埋もれた道を歩き出した。足が砂に取られて多少の歩きづらさはあるが、それでも慣れた道だ。生まれた時から暮らしていれば、人は慣れる。順応力が高いのだ。


「それにしても、いったいどこからきたんだろうな。そのリュックも、この人の?」

「そうなんだよ。こっちの方が重いくらいだ。」


イルタが持っている大きなリュックに目をやる。この人の半分くらいありそうな大きなリュックだ。パンパンで、歩く度にガチャガチャと金属が触れ合うような不思議な音がする。


「旅人だとは思うけどな。周辺地域の様子を是非にでも聞きたい」


小さく呟いた後半の言葉に、イルタは少しだけ嫌そうな顔をした。その理由は、もちろん知っている。けれど特に突っ込まない。

話を変えようと別の話題を振る。


「イルタんとこの娘ちゃん、今はいくつだっけ?」

「2歳になったばかりだ。ラーナは天使だよ、イシシュ」

「親バカだな。まぁ確かに、ラーナはめっちゃ可愛いけどさ」


神に祈るように手を組んだイルタを笑ってやる。良かった。イルタの家族仲は良好だし、イルタの嫁さんも娘も、本当にいい人たちだし。嬉しそうな顔をするイルタを横目でながら、ほっと息をつく。

そうか、もう2歳か。ついこないだ生まれたばかりだと思っていたのに。時が経つのは早い。もう暫くラーナに会っていないから、あの子は俺のことを忘れてしまっただろうか。


「今度うちに遊びにきてくれよ。家内も喜ぶ」

「レカさんの飯は美味いからなぁ。それは嬉しいお誘いだよ。ありがとなイルタ」


ニシシと笑えば、イルタも同じように笑った。


暫く砂を這う音が響く。

サラサラとした足を取られる砂も、生まれた時から歩いていれば、慣れてしまうものだ。どうやって足を上げるか、どのタイミングで足を下ろすか…人は本当に順応力が高いと実感する。


だけど、慣れを侮ってはいけない。


「ついたぁ…」


何分か、何十分か、砂の霧に視界を阻まれつつも見慣れた我が家についた。後ろを振り向いてイルタの影を確認すれば、彼は砂埃にまみれながらもぐっと親指を立ててきた。この砂風を吸い込んでは危ないため、2人とも口に布を巻いているのでお互い返事は出来ないが、いつものように頷き合うとまだ歩を進めた。


ドンドンと扉を叩けば、薄く扉が開く。


「っイシシュ!」

「マルカ、もう着いてたのか。すまないが開けてもらっても良いか?」


黄土色のお下げに赤い眼鏡をかけたマルカが、心配そうにこちらを見つめてきた。


「もちろん。さぁ入って。イルタさん、そっちのリュックは玄関の隣に置いてください」

「あぁ、マルカすまんね。ありがとう」


砂埃が入らないようにと開閉部が狭くなった扉に、屈めながら入る。視界が先程まで悪かったせいか、中の明かりがぼんやりと目に映っていた。


「それで、この方はいったい…?」


イシシュとイルタ、アルジャンスに茶を出してくれたマルカは、早速先程の人物を診ていた。横に寝かせ、分厚いマントの上から身体を触診している。


「さぁ…とりあえず生きてるよな?」

「ええ、胸が上下しているので生きてはいますよ。けど…このマント脱がそうと思ってもなかなか脱げないんです。」

「なんじゃそりゃ」


おかしいのか、肩を震わせて笑ったイルタは、お茶を置くとマルカの隣に座った。彼のまあるい瞳が、興味と好奇心でさらに丸くなっている。


「任せな、マルカ。俺がやるよ」


そう言いながらニヤニヤと笑い、手をわきわきとと奇妙に動かしながら服をぬがそうとしたその瞬間のことだった。


キュロラロラ、キュロラ……


それは美しい鳴き声であった。この世のものとは思えないほどの澄んだ声は空気を震わさせ、部屋中に響かせた。


「な、なに?!」


臆病なマルカが、驚きのあまりイシシュに抱きつく。


「あそこだ」


アルジャンスの言葉に、一同は反射的にぱっと顔を向けた。

美しい鳴き声の正体は、屋根の梁にゆっくりと降り立った。尾が長く、見たことのないほどに美しい羽根の色をしていた。翡翠色の瞳をまたたかせると、鳥は驚く一同をぐるりと見回し、嘲笑うかのようにまたキュロラと小さく鳴いた。


「ソイツは脱がすナ」

「っ?!」

「しゃっ、喋った!?!」


当たり前のように喋った鳥に、マルカの腰が抜ける。イルタも、これは夢かと目をぱちくりとさせながらまじまじと鳥を見つめている。


「なんダ、喋らないとでも思ったノカ。愚かだナ」


クククと笑った鳥は、マルカとイルタを馬鹿にするように言う。


「…それよりモ、オマエ、そいつから離れロ」


唐突にお前、と嘴を向けられたのはイシシュであった。未だ驚きから抜けられていなかったイシシュであったが、鳥の言葉に無意識に、慌てて離れた。


「ノア、どうせ起きているのダロ。狸寝入りはヨセ」

「…バレてたか。ふわあ、よく寝た」


あくびをしながら、唐突に上半身を上げたその人物に一同は驚きのあまり息をのむ。

まるで、さも今起きたばかりであるように、すっとなめらかに背中を正し、その人物はぐるりとあたりを見わたして、そうしてぺこりと頭を下げた。


「あぁどうも、みなさん。初めまして、私はノアと申します。」


それは、女とも男とも判断できないようなふしぎな声であった。よくとおる澄んだその声は、男性特有のごろごろとした低音でもなく、かといって女性特有な鈴のような高い声でもなく、そのちょうど半分にあるような不思議な響きを持っていた。耳に残ったその調律にはっと呆けていたイシシュは、慌ててその人物の方へと目をやる。


「ノア、といったか。」

「えぇ、そうですよ。私はノア。そして、あそこにいる鳥は私の友であるニーナといいます」

「友ではなく案内者ダ。」


ひどく不満そうにこぼしながらも、先ほどの美しい鳥はノアの肩におりたった。ばさりと優雅に羽を畳み、そのままキュロラキュロラと鳴く。

イシシュは目を瞬かせながらも、ノアの隣に座りこんで視線を合わせる。もちろん深くフードを被ったノアでは、どこに目があるのか、イシシュには到底わからなかったが。


「ノア、あなたは『何』だ?」


あえて「何」という聞き方をしたイシシュに、イルタとマルカは目を合わせる。

いつもなら誰に対しても丁寧なイシシュが不遜な言い方をしているのが気になったのだ。しかし、イシシュはまっすぐにノアを見つめたまま視線を外さない。


「そうですね」


少しの沈黙ののち、ノアは少しだけ笑いながら答える。


「簡単に言うのであれば、私は『語り部』というものですね」


その言葉に、一同はまた言葉を失った。


「おや?語り部をご存じありませんか?では、簡単に説明をしましょう」


言葉を失った一同になにを勘違いしたのか、説明をする。


「語り部とは、世界中を旅する者で、特殊な一族に属するものです。様々な物語を語り、それを後世に伝えることを生業としています。私も例にもれず、多くの国を回って、世界の声を聞いています。そうして、それと同時にその声を文字にして、終焉の物語として一冊の本に書きあげているのです」


ふっと、ノアは立ち上がる。


「語り部が世界を回るとき、それは…」

「世界が、終わるとき。」


ノアの言葉を引き継いだのは、先ほどからずっと黙っていたアルジャンスだった。

ふっとアルジャンスの方へ向いたイシシュに、アルジャンスはそっと微笑む。軽く手で彼を制し、そのままノアの方へ近づいた。


「ノアさん、あなたがここにきたということは、砂漠の国エドグサはもう……」

「みなまで言うな!!」


言いながらうなだれたアルジャンスに、イシシュが声を上げる。ノアはゆっくりと彼に目をやり、そうしてうなずいた。


「そうですよ。」

「そうに決まってイルだロウ。語り部トは、世界の終焉を見守る者ダ」」


バサバサと羽を揺らしたニーナ。そして、非情にもうなずいたノアに、イシシュは言葉を失ってしまう。大きく身を震わせて、ぐらりと揺れたイシシュを支えたのはマルカだった。


「イシシュ、しっかりして。この人が言っていることを真に受けないで」

「マルカ」

「そうだぞ、イシシュ。こいつが語り部だっていう証拠なんて、ただのひとつもありやしないじゃないか」


そういいながらノアを鋭くにらみつけたイルタに、ノアは肩をすくめるだけだ。否定も肯定もせずに、静かに彼らを見つめている。いつのまにか、さきほどまであった温厚な空気は消え去っていた。今、この空間にあるのは、まるでイシシュが具合悪くなったのはノアのせいだとでも言わんばかりに、ノアを責めるような怒りの目線のみだった。マルカはイシシュを大切そうに抱え、イルタもそんなマルカを支えている。イシシュは唇をかみしめながら、ノアの存在を見たくもないのか顔をそむけたままうなだれた儘だった。

しかし、ただひとりアルジャンスだけはノアを哀しそうな目線で見つめていた。直立不動でニーナとノアを交互に見つめながら、目線をさまよわせている。


「ノア」

「なぁに、ニーナ」

「ここから出た方がイイ」

「どうして」

「皆が、お前ヲ責めてイル」


そのニーナの言葉に、ノアはやっと現状を理解したのか、肩を震わせた。


「そうだ」


口を開いたのは、イルタだった。


「出て行ってくれ。ここから出ていけ!!!」


激しい怒りの声に、ノアはゆっくりと下がる。

ゆらり、ゆらりと下がったノアに、イルタはまた毒を吐く。


「っ、砂漠の国エドグサは終わらない!お前がいなければ、終わらない!!」


吐いた言葉に、ノアはひとつため息をつく。「困ったね」と一言つぶやいて、憎しみの目線を身体いっぱいに受けて、笑った。


「始まりがあれば必ず終わりが来るように、一つの国だって必ず終わりが来るものです。世界とはそういうものです。終わりが来ないものなんて、万に一つもありはしません」

「っ、うるさい」

「砂漠の国エドグサで、私は物語をかたらねばなりません。それが、この世界の掟なのです」

「うるさい!」


叫んだのは、イシシュだった。


「でていけ!まだ、この国は終わらない!俺は最後まで足掻く!!!」

「足掻いたところで、結果は変わりません。貴方は知っていますか?今日も、この国で小さな命が二つも失われました。こうして命がまた多く失われていく。世界が終わるということは、本来ならば失われるはずのなかった命が、こうして簡単に失われるようになるということなのです」


淡々と紡がれるノアの言葉に、イシシュは聞きたくないとでもいうように頭を振りかぶる。止めたマルカの手を払い、支えようとしたイルタの腕をぶって、ノアに近寄って胸元をねじり上げた。


「っ命をこれ以上失わさせはしない!!この国は、まだ、終わらせない!!!」


涙声を孕んだイシシュの声にも、ノアは首を振る。ねじり上げられているはずなのに、宙ぶらりんになった足はこともなげにぶら下がっている。


「イシシュ、さんですね。」

「……」

「崩壊は、必然です」


ノアは、そっとイシシュのほほに手を置いた。零れ落ちる涙を優しく撫で、そうして心に染み入るような優しい声で続ける。


「受け入れてほしいと、そういっているわけではないのです。崩壊や、終焉が来る前に、私はただ、物語を語りたいだけなのです。それが、私の使命なのです」

「…っ、でていけ」

「それを否定するということは、この国の物語が語れなくなるということです。この国が、なくなってしまうということに繋がるのです」

「でていけ!!!」


終ぞ、ノアはそのまま扉の外に投げ出される。

ノアの肩にいたニーナが「野蛮人!野蛮人!!」と叫ぶ中、イシシュは涙をこぼしながら言った。


「砂漠の国エドグサは、終わらない」


それを最後に、ドアは閉められてしまった。



「愚かモノめガ」


砂に埋もれたノアは、しばらくの間座り込んでいたが、やがて重い腰をあげてきた道を戻り始めていた。ノアの周りを飛んでいたニーナは、けたたましく鳴きながら、ノアを責め立てる。


「言ったダろう。入れ込むナと。オマエの心などダレも理解シナイ」

「…たとえそうだとしても、説明をしない理由にはなりえない」


ため息交じりにノアは言う。


「誰だって、世界が終わると聞けば動揺はするものだよ。ニーナ。」

「言わなくてもイイことハある」

「そうだとしても」


立ち止まったノアは、茶色の布で覆われた腕を伸ばし、かすかに指先だけみえる手を空に広げた。


「私は、そういう語り部で在りたいのだよ」

「……愚かダな」

「それでいい」

「よくわからナイ」


ふわりと笑ったノアが、また歩き出したそのときだった。


「ノアさん!」


遠くの方で、ノアを呼ぶ声が聞こえた。

振り向いたノアに、その声の主が叫ぶ。


「ちょっと、待ってください!!」


現れたのは、アルジャンスだった。

はぁはぁと息を切らしながらも、驚くノアの前に立ったアルジャンスは、大きく息をつく。


「アルジャンスさん、どうしたのですか?」


柔らかく言葉を紡ぎながらも、ノアはこてんと首を傾げる。アルジャンスは、砂漠のカンカンと照りつける太陽と、息苦しいほどに熱い空気にしんどそうに息を吐きながらも、言った。


「ノアさん、物語、を語ってくれませんか」


どうか、とアルジャンスは願い請う。


「僕は、砂漠の国エドグサの統帥の息子であり、次期統帥なのです。砂漠の国エドグサを、僕の代で、無くす訳にはいかない」

「…なるほど。貴方は、終わり行くこの国を受け入れているのですね?」

「えぇ、少なくとも、僕は。けれど、イシシュは、我が国をどうにかして、生かそうとしています。アイツは、誰よりも─ヘタをすれば、統帥の息子である僕よりも、砂漠の国エドグサを愛している」


アルジャンスはふっと瞳を眇める。どこか諦めたように、悲しげに微笑みながら、アルジャンスはそんな自分の感情を誤魔化すように頬をかいた。


「─イシシュは、僕の異母兄弟なのです。アイツは、それを知らない。それを知っているのは、僕と、それから、父だけです。」


ノアは、アルジャンスの静かな独白を黙ったまま聞いている。そんな2人の頭上で、キュロラキュロラと2人の上空でニーナが穏やかに鳴きながら旋回していた。


「その昔、父は砂漠の国エドグサに来ていたとある部族の娘に恋をしました。そうして、その娘に婚約者がいたにも関わらず、半ば無理やり、イシシュという子を成しました。その娘は、イシシュを産んでしばらくして、産後の状態が悪化し、父へ呪詛を吐きながらひとりぽっちで、亡くなりました。」


「父は、ひどく愚かにも、イシシュを認知しなかった。だからあいつは、自分には血の繋がった家族がいないと思いこみ、とくに身寄りもなく、たった一人で生きてきた。─僕は、そんなアイツを心から愛し、心から大切に思っています。アイツは、僕にとっては、たった一人の大切な義弟なのです。」


アルジャンスはそう言いながら微笑んだ。


「イシシュは僕よりも、この国の統帥に相応しい。国の上に立つものは、国を心から愛している人が1番いいと、僕は思っています。

僕は、父の汚いところを知ってしまった。砂漠の国エドグサの深いところで、権力という名の甘い蜜を吸いながら、愚かなことをする人間を知ってしまった。─砂漠の国エドグサが悪い訳では無いんでしょうね、けれど、僕は、父を許せない。本来ならば愛すべき父を変えてしまった砂漠の国エドグサを、許せないのです。」


愚かでしょうと、自嘲気味に笑うアルジャンスに、ノアは小さく首を振った。


「私の使命は、終わり行く世界を記録し、後世に紡ぐこと。貴方は、砂漠の国エドグサを憎みながらも、成すべきことをしようとしていらっしゃる。─愚か者とは、自分の使命から目を背け、自身の欲ばかり考え、他人を顧みない人のことを言うのです。私は、今の貴方を、愚かだとは思いませんよ。」


ノアの言葉と声は、アルジャンスの心の奥底に浸透する。潤み始めた瞳を隠すように、アルジャンスは何度か目を瞬かせ、笑った。


「ノアさん──いえ、語り部殿。我が国の、砂漠の国エドグサのお話を、させていただいてもよろしいでしょうか」

「ええ、もちろんです。」

「これは、僕と、イシシュ。そして、我が国の国民たちの、人の心を蝕むほどに乾いた空気の中で、水不足に苦しみ、乾燥した世界に呪詛を吐きながらも、それでも生きよう、生きて見せようと足掻く物語です。

あぁ、どうか、嗤ってくださいね。」


ウラルドと言う世界があった。

ウラルドは楕円形の形をしており、大きな大陸が一つだけしかない小さな世界だった。その周りには孔雀緑と織部色を合わせたような色に変色した海と小さな孤島が点々とあるのみだった。自然は荒廃しつつあり、腐った木々や花々がウラルドを丸く取り囲んでいる。その腐ったものは命に危険はないものの、それから排出されるものを長く吸うと、人体に異常をきたすと言われていた。

17の州でウラルドは構成されており、一番真ん中に首都モラレウスがあった。モラレウスに隣接しているのが四つの州で、モラレウスの次に力を持っているのが、砂漠の国エグドサ、結晶の国リーリア、高山の国マッダンド、腐河の国アマリアレイだった。

砂漠の国エドグサは、木々や花々が一切生えない、乾燥した国だった。

終わり行く世界の中で、最も早く崩壊する国。それが、砂漠の国エドグサだった。命は確実に奪われる。いつかこの国は終わる。それはきっと、そう遠い未来ではない。どんなに足掻こうともう生きられない未来ならば、ならば死を望むかと問われればそんなことはない。僕には民がいる。友人と、大切な人がいる。小さな幸せがいつまでも続くように願うことはいけないことだろうか。その幸せのためならなんだって捨てても構わないとさえ思うのは、愚かなことだろうか。否、そうは思わない。僕は、大切な人達の幸せが、自分の幸せだと思っている。僕にとってはそれこそが真理。そして、エドグサの民にとっても、それが真理だから。


終わり行く世界に乾杯を。乾いたこの地が潤うのは、きっと砂漠の国エドグサの民達が、最後まで足掻く汗によって、涙によってなのだろう。それでいい。それが、いい。

自分たちは、それが「らしい」。

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