終わりに
終わりに
「だいぶ、良くなって来たね。」
久子がそういう通り、水穂も回復してきたようだ。おそらく気候が暖かくなってきたのも、理由の一つだろう。
「この頃よく食べるし、咳き込まなくなったし。あった時の顔とはぜんぜん違う。よかった、うれしいわ。」
久子はにこやかに言った。
「今日はちょっと歩いてみましょうか?」
そういわれて、水穂もそうですね、と頷いた。そこで久子に支えてもらいながら布団から出て、枕元においてあった、自分の羽織を羽織った。今まで、ずっと浴衣を借りていたから、自分の匂いを嗅いだのは、何日ぶりだろう。
「もう暖かいから、すぐに行けますよ。ほら、足袋も履いて。」
言われた通り、白足袋を履き、久子に支えてもらいながら、よいしょとたち上がる。長い間寝ていたが、体はさほど重く感じなかった。
「少しなら、歩けますから。」
久子は、肩を貸してやろうとしたが、水穂はそれを断った。一寸散歩に行ってくると言って、二人は、家を出た。
丁度夕方であった。周りは、春特有のきれいな夕焼けである。
「きれいな夕焼けね。明日も晴れるかな。」
不意に久子は、そんなことを言った。
「はい。たぶんはれるのでは無いかと。夕焼けは、いつでも晴ですからね。」
水穂も、久子の言葉に応えると、
「そうね、いつでも晴が続くとは、限らないけどね。」
と、にこやかに言った。
「向こうの橋のところまで行ってみようか。」
「はい。」
丁度、前方に大きな橋があった。そこまで歩いてみることにした。
「じゃあ、行きましょうか。」
二人は、非常にゆっくりしたスピードで、橋のほうまで歩いてみる。
「ねえ、水穂さん、ちょっと聞きたいんだけど。」
久子は、ちょっとはにかんでそう聞いた。
「あたし、このままやっていって、いいのかな。何かもっと、夏が胸を張って説明できる仕事に就いたほうが、いいかな?」
たしかに、女郎という仕事は、汚い仕事として有名だ。それは確かに認めざるを得ない。まあ確かに夏が暮らしていけるようにと、彼女は身売りをしたのだろうから、それは、仕方ないのではないか。
そして今は、掃除人として、一生懸命やっている。其れだって、パッとしない仕事ではあるけれど、
大事な仕事でもある。
「いや、いいんじゃないですか。大事なことは、何の仕事についたのではなくて、何を学んだかではないでしょうか。」
水穂はとりあえずの答えを出した。
「ありきたりな答えですみません。」
一寸頭を下げて、申し訳ない顔をした。
「いいえ、それでいいわ。其れしか答えが出ないのもあたし、知ってるもん。」
誰でも、これでいいだろうか、という不安は持つだろう。でも、答えを出したら、また別の意味で愛想劇になってしまう可能性もあり、平和を守るため、黙っているのだ。
二人は、ゆっくりと歩いて、目的地の橋までたどり着いた。
「ずいぶんきれいな川ですね。」
「ええ、ここで催しが行われることだって、結構あるのよ。」
「そうなんですか。」
日本の川と違って、川底に鯉が泳いでいるのが見えるほど、きれいな川だった。
「あの大きな鯉が、この川のボスなのよ。あとの子はみんな彼に従っているの。」
久子が指さすところには、大きな鯉が、悠々と泳いでいた。
ああいう、リーダー的なものが、人間社会にもいてくれたら、もっと暮らしやすくなるだろうか。
「明日、この川で、たらい乗り競争があるのよ。体調がよかったらそれ見て行ったら?年に一度のお祭りで、すごく面白いのよ。」
へえ、そんなお祭りがあるのか。おもわず水穂はくすりと笑った。
「ここではちょっとした名物なんだけどね。最も、あたしたちは事情があって参加できないけど。」
「じゃあ、是非見に行きます。」
彼女の言う通りにしようと思った。
翌日、久子に連れられて、水穂はお祭り見物に出かけた。夏は家にのこった。
「ひさびさに、出かけられてよかったわね。ほんとに、これまでとは顔色も違うしよかったわ。」
久子は、橋の上まで歩きながら、そんなことをいった。
橋の上にはもう、大勢の人が集まっていた。二人が、橋の上に到着すると、丁度子供たちが木製のたらいに乗って、スタート地点で待っていた。直径一メートルほどのたらいに乗って、木製の櫂を両手で握って、それを漕いで川を下っていき、だれが一番早くゴール地点にたどり着けるかを競うものである。
「はい、位置について、用意、開始!」
号砲がないので、係の人が手をたたいてスタートの合図をする仕組みになっていたが、子どもたちはそれでも十分なようで、我先に、と、櫂を漕いで、たらいを動かし始める。それを、周りを見ていた大人たちが、自分の子の名を呼びながら、応援している。
「本当は、夏もね、これに参加させたかったの。この競争は、この村の子供ならだれでも参加するように決められているから。」
不意に、久子がそんなことをいい始めた。
「子供が孤独にならないようにっていう、目的で毎年行われているお祭り何だけどね。夏をたらいに乗せたら怖がって大泣きして。もう、周りの人から白い目でにらまれる始末だったわ。そうなったら、其れよりも、ほかのことで自信をもってもらったほうがいいと思って、夏には、近所の子たちと一緒の学校へ通わせなかったのよ。たしかにその学校では、生徒を個人として見てくれるのには非常にすぐれているとは思ったけれど、うちでは、義兄と義姉も一緒だったから、どうしても同級生と同じ環境にはなれなくてね。それで夏も、なんだかちょっと、ひねくれてしまったみたいで。」
久子は、大きなため息をついて、また言った。
「みんなと同じことができなかったから、なにか別のことで自信をつけてもらいたかったけど、結局あたしが、体を売ることになったりして、何も夏を幸せにはできなかったわ。ほんと、私は親として、ダメな人ね。」
「ええ、確かに失敗です。」
水穂は小さいが、しかしきっぱりした口調で言った。
「人間にとって一番大事なことは、その環境から逃がしてやることではなくて、その環境にどう対処していくか、のほうが大事なんですよ。だから、逃がしてやるという事は、絶対にやってはなりません。ものすごく経済的に恵まれている人なら別ですけど、そんなことができる身分ではないんですから。夢をもって何かするよりも、環境に適応して、平和な暮らしを作ることこそ、勝利なんですよ。もし、夏さんが、お祭りに参加することを拒否するんだったら、強制的に参加させるべきだったと思います。」
「そうね、そんなこと、とても思いつかなかったわ。義兄や義姉みたいに、人の手を借りて生きて行かなければならない人生にはさせたくなかったから、私は、そこを間違えてしまったんでしょうね。」
「ええ、そもそも、お兄さんやお姉さんのしていることはなにも恰好悪いことではないし、人間誰でも人付き合いはしないと生きていけませんから、それを途絶えさせるようなことはしてはなりませんよね。何よりも、人間は人間の間で生きていますから、そこを断ち切る境遇には絶対にしてはなりません。そうじゃなくて、人間を大事にできる環境にしてやらないと。それは、僕らの世界では、もはや不可能と言われていますけど、こちらではそうでもないと思うので。」
水穂は、にこやかに笑った。でも言っている内容は、非常に厳しかった。
「そうね。でも、これからどうやって教えて行けばいいのかしらね。あたしも、もう年だし、夏もあんな年だし、誰が教えてくれるというのかしら?」
久子は、ちょっと弱気になってそういうと、
「それは義理のお兄さんやお姉さんが、何よりも知っていると思います。多分きっと、家族って必要だから一緒にいるんだろうし。それがどんなに嫌だと思っても、平たく言えば嫌な奴であっても、どこかで必要になるからいるのではないですか?必要なければ、当の昔に別れていますよ。必要があるから、いるんでしょ。」
と言われて、ああなるほど、と、考え直した。
「でも、もう遅すぎるんじゃないかしら。それは、子どものころじゃないと、教えていけないのでは?」
「そんなことありませんよ。幸い、お兄さんとお姉さんは、変えられない条件というものを持っているんですから。子供のころのような単純な覚え方はできないだろうし、非常に苦痛を伴うと思いますけれども、夏さんには、生きていかなきゃならないとわかってもらわないとなりませんから。たぶんこの世界では、まだいきるきっかけというか、選択肢があるのではないかと思います。僕らの世界では、ほとんどのことは機械任せで、もう必要のない人間がゴロゴロ出ていて、心中も自殺も平気で行われてますもの。そうはならないためにも。」
「そうですか。其れなら、不便なほうが返ってしあわせなのかしら?」
久子がそう聞くと、水穂は静かに頷いた。
「ええ、何でも叶うとね、あるものは空虚感だけになりますよ。」
そう話しているうちに、たらい乗り競争は終わって、少し鼻の抜けた少年が一等賞を獲得した。でも、彼を嫉妬するものは誰もなく、皆、おめでとう、良かったね、なんて彼に声掛けをしていた。水穂は、これが、自分たちの世界とは一番違うところだなと感じ取り、どうかそれを忘れないでほしいと心より願った。
一等賞をとった少年の、表彰式等が終わってお祭りはお開きになった。みんなバラバラと自分たちの
家に帰っていく。一等賞も、最下位も、普通に隔たりなく言葉が交わしている。そういうことができる社会が、ここではまだ残っているのだろう。それが忘れられていないので、きっと、やり直しもできるだろう。水穂はそう思った。
橋のうえを歩いて、久子の家に向かっているところだったと思っていたが、いつの間にか周りの景色が、田園風景ではなくて、日頃からなじみのある駅前商店街に変わっていった。あれ、と思って目をこすると、いつの間にか、元の吉原駅に戻っていた。
「帰ってきたなあ。」
いつの間にか杉ちゃんの声がした。
「そうだね。僕らは一体あの世界で何をしてきたんだろう?」
水穂がそう聞くと、
「わかんないけど、何か役に立ったんじゃないの?さ、電車で帰ろうぜ。」
と杉ちゃんは言った。時刻は、たったの五分程度しかたっていなかった。
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