第三部 組歌
第三部 組歌
杉ちゃんが戻ってきてくれて、水穂は、とても嬉しそうに、
「やっぱりかえってきてくれたんだね。」
と、静かに言った。
「ああ。すまんなあ。あのときは、ちょっと強制的だったかもしれないね。なんかさあ、いろいろあってよ。やっぱりかえったほうがいい、という、淳さんの意見でかえることにしたんだ。ちょうどその時、小花さんが電報を寄越してくれたので。」
ということは、タイミングよく帰ってこれたんだなということである。
「まあ、どっちにしろ、僕らのろくべえ教室なんて、役にたたんのよ。はじめの頃はみんな来てくれるけど、そのうちどこかで、同情をひくとか批判がでちゃう。」
という事は、杉ちゃんたちも、碌な暮らしをしてこなかったという事がわかる。
「はじめは、みんなで一生懸命やってたさ。生徒さんたちもそれなりに来てくれた。けどな、僕らはそんなことしたつもりはないのにさ、何か変な噂が広まっちゃってな。なんか知らないけど、僕らが、世間の同情を引くためにやってるという発言が出ちゃって。瞬く間にそれが広がっちゃって、誰も来なくなっちゃった。だから、結局、何も得られないで、一瞬の夢だけ見たようなもんだよ。」
なるほど。
「結局な、僕達みたいなのは、やっぱり誰かに助けてもらってないと、やっていけないんだ。自立しようとすればがたがでる。そういうもんよ。」
杉三の話はしっかりと核心をついていて、やっぱりだめか、という諦めと、これでいいのだ、というきもちもあるようだ。
「まあ、僕らは結局のところ、どこかに頼らないといけないんだ。だって、材料を探しに行ってくるのだって、一人ではできないからさ。だって、みんな重たい粉をもって歩くこととかできないもんね。そのためにはどうしても人手を借りないといけないしね。だから、仕事しているなんていうな!なんていわれてしまう始末で。恥ずかしいよなあ。人間には恥ずかしいっていう感情もあるからよ。それで結局僕らは、仕事から、外れていっちゃうんだよねえ。仕事ってもんはな。一人でいきていける奴らのためにあるんだよ。」
「うん、その気もちわかる。」
と、水穂は、杉三にいった。
「へへん。そうだろ、だから、もう僕らだけで事業をするには難しいの。教えてくれる人もおらんし。教えてもらえる年齢でもないしねえ。そんなこと、健康な人ならとっくに知っているだろうが、僕らは、何も知らないからな。それに、教えてくれと言っても、はいそうですかって、素直に見てもらえる立場ではないからなあ。」
そういうことを話す杉ちゃんも、苦労したんだなと、言うことが、よくわかる顔であった。
「杉ちゃんも苦労したね。」
水穂は思わず言った。
「僕は、何もしないで布団に寝ているだけだったけど。」
「お前さんだって苦労しただろう。なんだっけ、あの夏とかいうやつに変なこと言われてさ。」
杉三はからからと笑った。
「そう。なんだか夏さんに利用されてるみたいで、辛かったよ。」
「そうだよねえ。本当に疲れたよなあ。僕も、一応作り方は教えたんだからよ。責任を感じて一緒に行ったが、淳さんと怜子さんが、人の同情を引いているだけだって、抗議を受けていた時は、なんだか二人に悪いことを仕組んじゃったみたいで、ほんとに辛かった。あの二人は、慣れているから平気だよ。なんていってくれたのにさあ。僕、なんだか申し訳なくて、さんざんだったなあ。」
二人は、互いの苦労話を語り合って、ほっと溜息をついた。
それがほかの誰かと、大勢で語り合えたら、また変わってくる事だろう。
「でもよ、どうしてその苦労を共有しようとか、そんな気持ちには、ならないのかなあ。みんなおんなじように苦労しているとわかれば、もうちょっと、楽になると思うんだけどね。でも、ここの人たち、何か人には親切だけど、自分の苦労を話したり、共有することは苦手なように見える。ただでさえ、蕎麦とか高粱とかサツマイモ程度しか食べ物も作りにくいところなんだから、そこの苦労を共有すれば、もっとサツマイモ麺について、嫉妬する人は減るんじゃないかと思うんだけどねえ。」
「そうだね、杉ちゃん。確かにそれは言えるよ。余りにも人に迷惑をかけないというか、皆それぞればらばらになりたがっていて、それが出来ない人が固まって住んでいるよね。僕たちがつい先ほどまで住んでいたところもそうだったね。」
なんだか、苦労することを話すのは、難しい事になってしまっているようだ。それとも、聞く余裕がないということか?
「まあな、結局のところ、みんな自分だけで精一杯だからよ、語り合う習慣もないんだろ。それでは、誰かの話なんかきいたって、共感と言うより、嫉妬話になっちゃうんだ。みんな、他人が憎らしくなるんだろうな。余裕がなくて。もうちょっと、誰かの話をきいて、自分だけじゃないと思えたらいいのにね。」
本当にそうだ。自分の事をきにかけてくれたのは、淳さんや怜子さんのような、事情がある人だけだった。
「とにかくな、僕らはこのせかいでも、ろくな目にあわんなあ。淳さん、怜子さんと三人で、でろくべえ作ったりへそもち作ったりしたけど、みんな白い目でみるし、買ってやっているという感じで買っていくのさ。それじゃあ、店も長続きしないよ。やっぱり僕らは、店をやるにはだめだなあ。」
「そうだね杉ちゃん。」
水穂はそっといった。
「もう、もとに帰りたいね。」
杉三は、うーんとため息をつく。
「まあ、向こうもこっちもおんなじなんじゃないの?きっとそうだよ。向こうは、これがもっとひどいことになっているかもしれないよ。」
確かに、人は親切だが、対して変わらないところも多い。電気も水道もないところなので、文明化はしていないが、それでも、人間のレベルと言ったら、今も昔も変わらないのではないか。
「みんな寂しいというところは同じかな。」
水穂は、静かにため息をついたと同時に咳が出た。
「ほれほれ、とりあえず、今日は寝ろ。あんまりしゃべると、疲れちゃうよ。」
杉ちゃんにそういわれて、水穂はそうだねと頷いて、言葉を途中で切り、杉三に布団をかけてもらって、静かに眠った。
翌日。午後過ぎの事である。夏が、学校からそろそろ帰ってくる頃かなと思われたころ。
不意に玄関の戸が開いた音がした。
「あら、お客さんかしら。」
洗濯物をたたんでいた怜子が、不意にそんなことをいった。
「ちょっと待って、あたし出てみるわ。」
と、玄関にでてみると、そこにはなつかしい顔ぶれが、旅行の格好をして、二人、たっていた。
「こんにちは。小花さんいますか?あの、訳があって、旅行しているんです。近くまで来たから、会いに来たんですが。」
そこにいるのは、ゆきちゃんはなちゃんの二人連れだったのである。
「あ、ごめんなさい。いまの名前は、久子さんでしたね、ついつい、過去の名前をいってしまう、癖があって。」
「お、二人とも、よくこっちまで来たな。何の用事でここまで来た?」
杉三も、玄関先へ出た。すると、二人は、にこやかにわらって、杉ちゃんなつかしい!と、挨拶をかわした。
「ねえ杉ちゃん、小花さんいる?」
はなちゃんがそう聞くと、
「はいはい。小花さんなら、掃除の仕事にいったよ、多分、夕方にならないと、帰ってこないと思うけど?」
と、杉三は答える。
それを聞いて、はなちゃんゆきちゃんは、がっかりとして杉三をみた。
「お時間があるうようでしたら、少し上がっていったらどうですか?たまにしか会えないんだし、久子も喜ぶと思いますから。」
怜子さんに言われて、はなちゃんゆきちゃんは、そうしよう、と、互いに顔を見合わせた。
「よし、それなら、中へ入れ。」
杉ちゃんについて、あとの二人はお邪魔しますと、中へ入っていく。とりあえずちゃぶ台の前に二人を連れていくと、ちょうど晩御飯を作っていた淳さんは、久子がこんな若い人から頼りにされていたのかと、驚いていた。
「いや、久しぶりです。あの時はありがとうございました。あたしたちを身請けしてもらえるように、仕向けてくれて。」
ゆきちゃんは、杉三に礼を言った。
「いや、僕はやり方を教えてやっただけだよ。区画整理に引っかからないための。」
杉三は、にこやかに笑って、二人にそういうが、
「でも、お前さんたち、あんまり嬉しそうじゃないな。」
と、いたずらっぽくいった。
「ええ、まあ。」
ゆきちゃんはなちゃんは、申し訳なさそうにいう。
「まあいい。お茶でも飲んでゆっくりしろや。」
杉三が言うと、淳さんが、お茶を出した。
「今日は二人で旅行ですか?」
「ええ、あたしたち、元の職場の近くに住んでいるので、こうしてたびたび二人合わせて旅行に出ることがあるんです。今日はたまたま、この近くを通りかかったんで、一寸よって行こうということになりまして。」
ゆきちゃんはそう説明した。
「其れより、今日はなんでまた二人そろって、旅行何かしようと思ったの?単に取材とか、そういうための旅行じゃないだろ?違うよな?」
杉三が、またそんなことをいった。二人は、実は、、、と恥ずかしそうな顔をして、
「まあ、そうねえ。こうして出かけると、時々、思い出したくなるのよ。あの頃の生活の事。何だかそれを思い出さないとやる気が出ない時があって。」
はなちゃんは、ちょっと恥ずかしそうに言った。
「ほら、あの頃は、ずっと誰かに管理されてたでしょ?あたしたちのすることと言えば、ただ、客を喜ばせるだけのことで。ほかのことは、みんなおかみさんや、やり手のおばさんに管理されていたし。それは自由はなかったかもしれないけど、逆を言えば、誰かに基本的な生活は、任せきりで、あたしたちは、本当に夢だけ考えていればよくて。だけど、郭の外に出れば、基本的なことは自分でしなきゃならないから、ある意味、それは悲しい話でもあるのよね。」
たしかにそうだ。管理されていれば、なんでも管理者に任せきりで、自分の妄想に浸っていればよい。
でも、現実はそうはいかない。自身のことも自分でしなければならなくなるからだ。
「ただいまもどりました。」
玄関の戸が開いて、小花さんこと、尾畑久子が戻ってきた。あれ、お客さん?と言いながら、久子が部屋に入ると、ゆきちゃんとはなちゃんは、にこやかに笑って、ここへ来させてもらいました!と口々に言った。
「まあどうも。ほんとに狭くて汚い家だけど、どうぞくつろいでいって、、、。」
久子も、二人がここへやってきたのが、一寸驚いているようだ。」
「ありがとうございます。小花さん、じゃなくて久子さん。ほんと、突然押しかけてごめんなさい。」
「いえ、私はいいんだけど、どうしたの二人とも。来るんだったら、こちらへ電報でも打ってくれればいいのに。そうしたら、私、仕事休んで、おもてなししたのに。」
「いや、いいんですよ。あたしたちが勝手に来ちゃっただけですから。」
久子の問いかけに、ゆきちゃんは、すぐに振り払った。
「それにしてもどうしたの?あの後の、生活がうまくいってないの?」
久子は、今度は心配そうに言った。
「ええ、そういわれてみればそうなんです。だから時折あたしたちは、二人集まっています。」
「うまくいっていないとは、贅沢な言い方かもしれないから、同じ境遇の人でしか、話し合うことができなくて。」
ゆきちゃんはなちゃんは、次々に答える。
「どういう事?」
「あの後、あたし、瓦版にいくつか文書を記載させてもらっているんですけど、今、旦那さんと一緒に暮らしているから、家事のほうを優先してしまって、その合間合間に書いているので、なかなかよいものもかけないのです。それでも、もう文書書く人間と世間では認識されてしまっているから、それでやっていかなきゃいけないですよね。ですから、時時、もう何も思いつかなくて、この頭をきってしまいたいほど悩んだことも少なくなかったんですよ。何かひらめいても、家事のせいで全部忘れて、いざ机に向かったときは、何も思いつかないことも多くて。そういうときは、もうこの頭もういらない!ってなる。」
ゆきちゃんは、しみじみと話し始めた。
「あたしはね、あの後、お箏弾きとして、音楽関係の方に雇ってもらったんですけどね。本来弾きたい曲は後回しにされて、手事ばっかり弾いてくれと、係の人に言われてしまう始末で。本当は私、組歌とかやってみたいなあと思っていたんですけど、あの曲を弾けるから、ここでやれるんだって、言われてしまえば何も言えませんよ。だから仕方なく手事を弾いてるの。生計を立てるためにね。」
はなちゃんまでそういうことを話し出す。
「すまんなあ、僕があの曲教えちゃったばっかりに。」
「何言っているのよ、杉ちゃん。杉ちゃんがあの曲を教えてくれなかったら、あたしは別の店に売られるところだったんだし。それは免れたんだから、もう悪いことしたとは思わないでよ。」
杉三が、頭を下げたが、はなちゃんは明確に否定した。
「でもさ、お前さん、身請けされないほうがよかったとおもったこともあっただろ?」
「そうね。それはあったわね。できればあの管理され切った世界に居たかったなと思ったことも少なからずあった。それは認めるわ。でも、あの世界は一度入ればそれでいいことにしたいのよ。だって、女を商売にするって、きっと良いことじゃないでしょうし。」
はなちゃんはそうきっぱりと言った。
「でも、小花さんにもう一回会えてよかったわね。なんだか、小花さんのことは先輩格として忘れずにいたい。だって、小花さん、娘さんのために一生懸命やってたし。それはあたしたちも、しっかり頭に焼き付いてるわ。」
ゆきちゃんにそういわれると、小花さんは、申し訳なさそうにがっくりと肩を落とした。
「あたしは、手本になんかなれないわ。娘だって、そんなに学校に行けているほうじゃないし。まだ、夫の兄弟たちに頼りっぱなしだし。」
夏は、この時に学校から帰ってきて、ただいまと口にしたのだが、誰からも返事が来ないので何だろうと思っていると、怜子伯母さんが、お母さんの大事な人が来ているから、宿題をやっておいで、と言った。夏は、その通りにしようかと思ったが、なんだか母が誰としゃべっているのか気になって、ふすまの前に立って立ち聞きしていた。
丁度、ゆきちゃんが文筆家として苦労している話、そしてはなちゃんが音楽家として苦労している話が聞こえてきた。それに杉ちゃんや母が付け加えているのも聞こえてくる。
母は、次のように話していた。
「本当は、夫の兄妹たちに頼りっぱなしなのが本当に情けなくてね。それでは、嫌だなと思って、何とかして娘と水穂さんの三人でやって行こうとおもったの。でも結局できなかった。其れより、やっぱりこの家は何人かいないとダメなんだってことがよくわかったわ。このうちは、本当に変な家で、何とか人並みになりたいと思っていたけど、それが無理だって分かったのは、この年になってからよ。」
「そうですか。小花さんも苦労しているんですね。あたしたちから見れば、娘さんのために一生懸命努力している女性って、感じだったけど、、、。」
はなちゃんがそういうと、
「結局みんな同じなのよ。誰でも、問題がない人なんていないのよ。あたしも、ほかの人は幸せそうなのに、自分だけどうしてっておもったことは一杯あったけど、それは、大間違いだったわね。」
母は、苦笑いというか、静かな口調でそういうのだった。
そうか。
あたしだけじゃないんだ。
みんな、同じように悩んで生きているんだな。
夏は、ゆきちゃんはなちゃんの話を聞いて、なんだか自分がとてもずるい生き方をしているのでは無いか、と思った。
「でも、いいじゃないか。みんなそれぞれ悩みをもって生きているんだからよ。それは、人間であればだれでもそうだし、何処の世界だって同じさね。大事なことはね、どこの世界にも、楽なところ何て、何処にもないという事を忘れてはいけない、これだ。」
杉ちゃんのセリフを聞いて夏はハッとした。
そう、それを忘れてはいけない。
「そうだね、杉ちゃんすごいこと言う。あたし、そこを忘れて、相手の人のことを憎たらしいと思っちゃうから、それを忘れちゃいけないよね。ありがとう。」
「忘れないように、こうしてみんなで集まってお話するのも、大切だね。」
はなちゃん、ゆきちゃんは何かを感じ取ってくれたようだ。
「そうそう。定期的にこうして集まって、みんなで語り合うのが一番世の中に対応していく手っ取り早い方法だよ。ま、馬鹿の一つ覚えでした。はははは。」
そうだよね。みんな、辛い思いをして生きている。それを感じ取れたのだから、私もそういう人ができるといいな。夏は、そんな思いをしながら、宿題をしに、部屋へ戻った。
「そうそう。水穂さんはどうしてる?」
不意にはなちゃんがそういう。
「ええ、一時よくなったかと思ったんだけど、先日また咳き込んで。今は寝ているわ。」
久子は正直に答えた。
「そうかあ。じゃあ、あたしたちあまり長居はしないほうが良いかしらね。あんまり長くいると、水穂さんの具合に申し訳ないわね。」
「そうねえ。じゃあ、よろしく言ってちょうだいね。水穂さんによくなってもらえるように、よろしくといってあげて。」
ゆきちゃんはなちゃんは帰り支度を始める。
「おう、僕が言っておくよ。今は起こしてやらないで、眠らせる時は眠らせるほうがいいんだ。そうすればするほど早く良くなるだろうからな。」
杉三が、にこやかに言う。
その間に二人は帰り支度を終了し、お邪魔しましたと言って、玄関先まで歩き出した。
「また来て頂戴ね。」
久子は、二人を玄関口まで送りだしたが、もうまた会えることは無いかもしれないと思ってしまった。事実、そうなる可能性のほうが高いのだ。文明化されていない、この世界では。
「また来ますね。小花さん。いつまでもあたしたちのあこがれでいてください!」
「つらい時には、いつでも、小花さんのことを思い出すようにしますからね。」
ゆきちゃんはなちゃんはずっと、小花さんこと久子の顔を見ながら、家を出て行ったのであった。
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