そのさん
そのさん
夏と母が二人暮らしになって、数日たった。その日も夏は、学校に行く日だったが、なぜか、行く気にならず、自宅の中でぐずぐずしていた。
「夏、何をやっているの?学校に遅れるわよ。」
久子に言われて、朝ご飯を食べていた夏は、うるさいわねえと言って、椅子から立ち上がった。
「早く行きなさい。遅刻したら、成績も下がっちゃうわよ。それじゃあ、困るでしょ。」
「はい。」
そういってもどこか、違和感が残ってしまう夏であった。
せっかく二人だけになったのに。
「早く行きなさい。お母さんは、水穂さんにご飯を出してから行くから。夏は先に行きなさい。」
そういわれて、夏は、どこか変な気持ちがした。
それでも、お母さんは、そう言ってくれるのだから、学校に行こう。夏は自分に言い聞かせた。
「おかあさん、お昼はどうするの?水穂さんは、座れるとは言っても、布団から動けないのよ。」
「お母さん、一回家に帰ってくるから。水穂さんにご飯食べさせて、また仕事に行くから。夏は気にしないの。」
「そうなのね。」
夏は、それで何とかなるだろうと思った。この時は、まだ軽く考えていた。でも、なぜか学校に行こうという気はしない。。なんでだろう。学校へ行って、損をすることはあまりないのになぜか、行く気にならない。
「早くしなさい、遅れるわよ。」
「はい。」
そういいながら夏はしぶしぶ自宅を出て、学校に向かった。
なぜなんだろう。せっかく、うるさいおじさんたちが出て言ってくれたのに。其れなのに、なんでうれしくないんだろうか。
どうしてもうれしいと思えないのは、なぜだろう。周りのおじさん、つまり隣近所の人たちは、淳さん、怜子さんの独立を喜ばず、むしろ追い出してしまったと言っていた。それが、夏には印象に残っている。それは喜ぶべきことではないという事だろうか。もう、母が体を売ったりした原因を作った、伯父さんやおばさんは、いてほしくないと思っただけなのに。それをかなえると、みんな、夏のことを冷たい目で見る。それはいいことではないというのだろうか?
少なくとも、学校では同級生たちとおなじような生活ができて、うれしくなるはずだ。同級生たちはみな核家族で、伯父とおばが同居しているなんて、めったにいないし、第一自由がないと笑っていた。だから、みんなと同じようになりたい。夏はそう思っていたのだ。だから、杉ちゃんという人が、お料理を仕組んでくれて、おじさんたちが出ていくきっかけを作ってくれて、かえってうれしいなと思ったのである。そして、母が、水穂さんに、献身的な看病を続けるのは、おじさんたちを追い出して、三人で家庭を作りたいと望んでいるんだ。夏はそう解釈していた。母も、父が死んで、この家のただの稼ぎ役から卒業したいだろうし。そう思っているだろう。だから、それに向けて第一歩を踏み出したのである。
夏は学校に行って、しっかりと授業を受けた。学校の同級生たちとも、やっと同じ家族構成になれたのだ。それはうれしいことじゃないか、其れなのになぜ、うれしくないんだろう。
多分、同じ家族構成になれたことを喜ぶ人がいないという事も、理由の一つだろう。だってみんな核家族であるのが当たり前で、それを喜ぶなんて、誰もいないのだ。せめて、同級生にこれを持ち掛ければ変われるかな。
「ねえ、今日一緒に宿題しない?」
夏は、同級生に、話しかけた。
「ええ、夏、今日はうちで宿題やれるの?今まで授業が終わると真っ先に帰っていたのに。本当にできる?」
おどろいた同級生に言われて、うん、と夏は頷いた。
「もう外へ出歩いてもいいって親が言ったのよ。」
そこだけがやっと喜んで言える発言だった。
「じゃあ今日は、あたしの家で宿題しよ。」
「わかった。」
そうにこやかに言って、夏は同級生の家に行くことにした。
その同級生の家は、学校の近くにあったが、夏の家とはだいぶ違っていた。床に畳は貼られていないし、机の前には座布団ではなく、椅子が置かれている。座布団を交代交代で使うのではなくて、自分用の椅子というものが置いてあるのには、夏もびっくりした。
「ほら、ここへ座ってよ。」
といわれて、椅子に座った。座布団とは違って、椅子はどうもお尻が硬くて、座りにくかった。でも、誰かの、匂いが付かないという、椅子というものには魅力があった。そこに座れば、そこの空間は自分だけのものになるという事が素晴らしかった。夏は、自分だけの空間を持ったことがなかった。
「それじゃあ、今日の宿題、一緒にやろ。分からないものがあったら、すぐに言ってね。」
と、にこやかに笑って、同級生と夏は宿題を開始した。時折、夏は同級生にわからない問題があると聞かれて、それにこたえてやった。あるいは、その逆もやってみた。互いに同じ学校を目指しているという訳でもないから、宿題は、一緒にやっても構わないのであった。
それにしても、この家は静かだ。ほかの家族はみんな出かけてしまっていて、家にいるのは、同級生と夏だけであるからだ。いつも、家に誰かいて、近所の人たちがたくさんやってくる夏の家とはそこが違っていた。
「夏、宿題私終わったよ。」
同級生がそういって、鉛筆を置いた。
「あたしも終わった。」
夏も、鉛筆を置いた。
「どうしたの?なんだかうちの中をきょろきょろ観察しているみたいだけど?」
同級生はなんだかどっかおかしいよ、と言いたげに夏を見た。自分ではそんなことをしているつもりはないのだが、夏は、そうしていたようだ。同級生はそれが面白かったらしい。
「いや、何でもないわよ。」
「なんでもないはずないでしょ。あたし、ちゃんと見ちゃったんだ。夏が、宿題やりながら、部屋の中見渡しているのを。」
同級生は何をとぼけているのかと言いたげに言った。それほどはっきり見えてしまったのか。それでは、はっきり認めざるを得なかった。
「夏、おかしいよ。この家そんなに面白い?」
「いや、面白いというかね。お宅があまりに静かすぎてちょっとガラッとして、あたしには違和感があって。」
夏が正直に言うと、やあねえ夏は、という顔をして、同級生は大笑いした。
「これで当たり前よ。みんな学校が終われば、カギをもって家に帰るのよ。家に帰れば、することと言えば、宿題すればいいだけ。其れさえすれば、あとは親に任せておけばいいの。」
「ご飯はどうするの?誰が作るの?」
素朴な疑問として投げかけると、
「ええ、母が近くの万事屋さんで買ってきてくれるわ。作るのなんて面倒だし、人数が少ないからその分作ったりしたら、かえってもったいないじゃない。それなら出来合いを買ってきたほうがいいわよ。」
と、同級生は言った。
「でも、寂しくないの?お母さんかお父さんが戻ってくるまでずっと一人なんでしょ?」
夏がまた聞くと、
「そんなこと言う必要は無いわよ。もう、ぜんぜん平気。だって、誰もいない間は自由じゃない。宿題さえやって置けば、大人の話に加わらないでいいのよ。それに、年寄りもいないから、うるさく言われなくていい。それができるんだから、あたしはここで幸せ。誰かを手伝う必要もないし、誰じゃを助ける必要もない。もう、ほかの人のために自分が犠牲になる時代は終わったの。これからは、必要なことだけやって、必要な人だけと住めばいいの。それに、仕事さえしていれば、一人で十分暮らしていける時代じゃない。それでいいじゃないの。わざわざ他人と住まなくても!もう一人で十分やっていけるんだから!」
同級生は、にこやかに笑って言った。
「よし。宿題終わったんだから、遊びに行こう!それでは、行きましょ。」
「え?留守番はしないの?」
「そんなもの必要ないわ。だって、夜にならないと、母も父も帰ってこないし。鍵さえかけておけば、何も気を遣う必要はないわよ。さ、行きましょ。」
「ええ。」
と、同級生たちに連れられて、夏は、彼女を家を出た。そのあと、夏は彼女と一緒に出掛けてきたのだが、彼女と何をしたのか覚えていない。ただ、感じたのは、ものすごい劣等感だけであった。自分が、どれだけ、時代から取り残されていたか、思い知ったような気がした。
同級生と別れて、夏が家に帰ってきたのは、夕食時刻のぎりぎりの時間だった。家に帰ると、母久子が、何か作っていた。
「あら、お帰りなさい。夏、水穂さんにご飯食べさせてきて。お母さんまだ、やることあるから。」
「やることって何よ。」
「洗濯物たたまなきゃ。」
そうか、今まで洗濯物はおばさんの仕事だったが、今は母の仕事になっている。と言っても、三人分の量なので大して大量ではないのだが。それでも、母はなぜか楽しそうではなく、大変そうだった。二人の人がいなくなったのに、母は、楽になったというより、やることは寧ろ増えてしまうようである。
「ほら、早く。」
と、夏は言われて、ちゃぶ台の上にあるおかゆの入った皿をもって、水穂さんの部屋に行った。ふすまをそっと開けて、
「ご飯です。」
と、枕元におかゆを置く夏。
「ど、どうもすみません。」
最近は水穂さんも余り咳き込まなくなっている。そこはいいのだが、なんだかまだよそよそしそうにしている雰囲気もあった。すみません何て言わなくてもいいですよ、と夏はいいながら、水穂さんに匙を渡した。水穂さんも、布団によいしょと座って、おかゆを食した。でも、おいしいとは言ってはくれなかった。そこは何だか何よりも寂しいところだった。そう思ってしまうところから、夏も水穂さんに何かを抱いていたのかもしれない。
「夏さん、宿題はいいんですか。僕は、一人でも食べられますから。」
そんなことをいわれて夏は悲しくなってしまうのであった。そうなるとやっぱり、何か持っている。
「だって、誰かそばにいたほうがいいのではないですか?」
「いいえ、かまいません。夏さんが、宿題のできる環境にいたほうがいいんだし。」
と、水穂さんは言った。
「そんなことありません。あたしは、別に誰かのそばにいることは苦ではありません。それより、水穂さんのことは、母がすごく大事にしていると思いますから、ゆっくりしてください。」
「でも、僕たちがお宅を引っ掻き回したというか、めちゃくちゃにしてしまったというか、そんな気がして。」
意外な答えが返ってきた。そんなこと絶対にないのに、そんな気持ちを思ってしまうのだろうか。
「多分きっと、おじさんもおばさんも、僕の世話に飽き飽きして、出て行ったのではないですか?」
「そんなことありませんよ。仮にそうだったとしても、母だけは特別です。水穂さんに好意を持っているんじゃないかと思います。だから水穂さんも、病気を早く治すことに努めてください。」
「そうですか。」
水穂は小さくため息をついた。
「きっと母はそのつもりです。だから、邪魔な人たち、おじさんおばさんを私が、外へ出したんです。それはいいことなんじゃありませんか。私、今日一緒に宿題をやった友人と話して、家族が共同でどうのというのは、もう古いんだなって、わかりましたよ。だから、水穂さんも、この家のことは気にしないでいいですから、母と幸せになってください。」
水穂は、もう一度ため息をつこうとしたが、代わりに少しばかり咳をして返答した。
「あ、あれれ。昨日まで咳き込まなかったのに。どうしたんですか?」
理由なんてわからないけど、ゆっくり休んだ方がいいと、夏は思った。
「まずは休んでください。できるだけ、体を安静にすることが必要です。」
水穂は、すみませんといって、静かに横になった。夏は布団をかけてやった。おかゆの器に目をやると、取り合えず八割は食べてくれてあったから、たぶん大丈夫だろうと思っていた。
「じゃあ、失礼します。」
夏は、軽く礼をして、静かに部屋を後にした。この時はこの後特に、何もないだろう、そんな気持ちだった。
しかし、その翌日の未明の事である。
夏はご不浄に行きたくなって目が覚めた。まだ、学校に行くには早すぎる時間だし、母が仕事に行くのにも、早すぎる時間だった。間仕切りをした隣で母が寝ている音がした。でも、なんだか、隣の部屋でがたがたと何か鳴っているような気がした。
雨が降っていたので、その音かと思ったがどうもそれとは違うような。一体何だろう。
とりあえず夏はご不浄にいって、用を済ませてまたもどって来た。いや、戻ってこようと思った。しかし、隣の部屋がどうしても気になるので、そっと中をのぞいてしまう。
「あの、すみません。どうしたんですか?」
そっとふすまを開けて、中をのぞいてしまう夏。中では、水穂が激しく咳き込んでいるのが見えた。真っ暗な中だけど、畳の一部が濡れているのも確認できる。それを見たとたん、夏は顔色を変えて、
「お母さん、ちょっと来て!」
と、部屋へ戻った。
急遽、久子が呼んできてくれた医者の処置によって、水穂は助かったが、
「危ないところでしたね。」
と、言われてしまった。
「もうちょっと発見が遅かったら、無理だったと思います。取り合えず、良かったには良かったのですが、二度とこうならないように、暫く動かさないでやってください。」
「はあえーと、そうですか。」
久子は、畳にくっついた血液をふき取りながらいった。
「はい。しばらくは、付きっ切りで見てやった方がいいですね。いつ、またこうなってしまうか、予測がつかないので。そして、少しでもおかしいなと思ったら、すぐにこちらへ連絡をください。」
医者に言われて、ちょっと待ってくれと、久子はおどろいていう。
「一寸待ってくださいよ。それでは、ずっと見ていなければならないと?仕事はどうするんですか?」
「そんな事わかりません。ご家族で調整してくださいとしか。ただ、それくらい重篤なのは、間違いありません。それはご了承くださいませ。」
それは、お医者さんだってそういうしかないだろう。それは分かるけれど、久子たちにとっては、重大な問題だ。だって、外で働けるのが、久子しかいないからである。
「お母さんこのままじゃ、水穂さん。」
「とりあえず、夏は、今までの生活を続けてくれればいいわ。お母さんが何とかするから。」
そうするしかなかった。
「おかあさん、もしかしてまたどこかに体を売るつもり?」
夏はぎょっとして、そういうが、お母さんは、答えを出さなかった。そうなると、水穂さんの存在が、いとおしいというより、妬ましくなった。
「お母さん。それだけはやめて!」
夏は母にかじりついたが、母は、無理なものは無理よ、そうしなければだめでしょう!と、夏をしかりつけた。
「お母さんなんて、大嫌い!体を売ってまで、お金なんかほしくないし、学校にも行きたくない!」
と、夏は、部屋に戻っていってしまった。お医者さんの送り迎えは母がした。
結局、作戦は成功しなかったんだな、と夏は何となく感じた。やっぱりこのうちは、、、と。
翌日、朝になっても、夏は母と口を利かなかった。いつも通りに学校へ行こうと、家を出かけたその時。
「なっちゃん。大変だったね。水穂さんも大変だっただろうけど。」
不意に前方から声がしたのでそのほうを見ると、伯父さんとおばさんが戻ってきたのである。その中に杉三もいた。
「ごめんね。やっぱり一緒にいたほうがいいと思って、帰ってきたのよ。」
怜子伯母さんがそういうと、
「いくら、一人一人がどうのと言ってもね。やっぱり一緒じゃないとできないこともあるからね。今頃久子も困っているだろうから、すぐに中に入ろう。」
淳伯父さんは、その通り、すぐに部屋に入った。
部屋の中から、あ、お兄さん、と母が話している声がしている。母は水穂さんのことについて何かしゃべっているようであるが、それはいかにも辛そうで、相当心細かったということが感じ取れた。母も、しっかりしているようで、実は不安だったに違いない。事実それを示す通り、
「お兄さんが、戻ってきてくれてほっとしました。私も、また体を売らなければならないのかと不安でたまらなかったわ。」
と聞こえてくる。
「じゃあ、手っ取り早く決めてしまいましょう。久子は、これまで通り、掃除の仕事をしてくれればいいよ。あとは僕たちで、何とかする。それでいいね。食べる物はこれまで通り、僕が作るから。そして、掃除洗濯はこれまで通り、怜子が担当するから。」
「でもお兄さん。お兄さんたちだって、仕事があるのではないですか。だって麺づくりの仕事が、、、。」
「いや、そういうことは、余り重要ではないんだよね。僕たちみたいな、足が悪かったり、体に事情があったりすると、余り金銭面で活躍という事は難しいので。」
伯父さんはきっぱりと言った。何となく、それは、確信に近い響きがある。
それは、間違いなく事実だろう。
伯父さんたちは家を出ても、独立することはできなかったのである。
なぜなら、足に障害があるためだろう。
「でも、久子も苦手だった電報を、良く打ってくれたわね。まあ確かに、あの子には今度こそ、まともな仕事についてもらいたいしね。」
と、怜子伯母さんは言った。そうなるとやっぱり母が、おばさんたちを呼び戻したという事もわかった。それに、おじさんとおばさんは自分たちのせいで、久子が体を売ったことをよく自覚しているのだと思われる。それをさせたくなくて、戻ってきたという事情もあった。
「さあとにかく入ろう。久子は、とにかくでかければいいから。僕たちは、中に入って先ず布団を整えることから始めなければ。」
「あ、あたしも行くわ。」
外で待っていた怜子伯母さんが、急いで中に入った。たぶん、二人に任せたら、水穂さんは大丈夫なのでないかと思われた。
「ほら、なっちゃんは学校に行きなさいよ。」
草履を脱いだ、怜子伯母さんが夏に言う。
「ほら早く。」
「はい!」
やっぱり、うちはこのままでいたほうがいいのかなあと、やっと考え終わったなつは、学校へ向かって歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます