第二部輪舌 そのいち
第二部、輪舌
そのいち
「ついにやめて行っちゃったかあ。あの二人。」
杉三とやり手のおばさんは、空っぽになった店を眺めながら、そうつぶやいた。
「そうだねえ。でも、あの子たちにとっては、こういうところで汚い仕事をするよりも、ちゃんとした世界に住むほうが、よほどいいんだよ。」
やり手のおばさんが、杉三に言った。
「まあ、そりゃ確かにそうだ。そうだよな。ちゃんとしっかりした、世界のほうが、はるかに住みやすいよ。」
「でも、二人がいっちゃって、何か寂しいわねえ。」
やっぱり長くここで働いているおばさんだからか、そういうことを言い始めた。やっぱり、やり手として、働くことにやりがいはあったのだろう。
ゆきちゃんは、自身が書いた「遊郭にて生存する方法」という文書が好評になって、初めて本を書くことになって、出版社の人に身請けされていった。そして、はなちゃんは、あの箏の演奏が大うけして、楽器屋さんで働かせてもらうことになった。つまり、杉ちゃんのやり方は見事に成功し、二人は、自身の特技で、大儲けするという、幼い子どもであれば、必ず一度は口にする人生の目標をかなえたのである。
明日から、この建物も取り壊しが始まるらしい。杉ちゃんは、そんなことは口にはしなかったが、僕たちは、どうなってしまうのだろうかと、不安にならざるを得なかった。本人は、どこかでそば屋でもしようかな、なんて考えていたのであるが、水穂はどうやって生活させたらいいか、不安で仕方なかったのである。
「あんたたちは、小花さんの実家に行ってもらうからね。小花さんが二人の世話をすることになっているから、ちゃんとお礼をして、やることはしっかりするようにね。」
不意にやり手のおばさんは、そんなことを言った。
「へえ、何?僕たちはそこへ行くの?」
杉ちゃんがそういうと、やり手のおばさんは、そうだよと、当然のような顔をした。
「小花さんに聞かなかったの?もう、かなり前から小花さんはそう考えていたみたいだよ。実家へ帰ったら、アンタたちを家族として、一緒に暮らしてもらうんだって、嬉しそうに話していたよ。」
「ええー、そんなこと聞いてないよ。なんだよ。小花さんは僕たちに好意でもあったんだろうか。僕らはどうしたらいいのだろう。」
やり手のおばさんはにこやかに言ったが、杉三はどうも腑に落ちなかった。そんなこと、いつごろから、決まっていたのだろうか。
「まあねエ。この先、何が起こるかわからないよりいいじゃないの。小花さんの家の人は、みんな事情があるけど、いい人達よ。小花さんの娘さんのなっちゃん、あ、夏さんね。その子も、いい子だから、ゆっくり住まわせてもらってさ。水穂さんだって、体を治すことはできると思うから。」
「そ、そうだけどねえ。僕らは、よそのおたくに居させてもらうってのはちょっとなんだか申し訳ない気がしてしまうんだけど?」
「いいえ、そうだけどね。路上で蕎麦屋をするより、よほど安全でいいじゃないの。さっきも言ったけど、先が見えないより、見えるほうが、安全だし、安心するのではないのかしら?この土地では、誰でも放置しないで一緒にやっていくのが当たり前なのよ。」
やっぱりここは別世界だ。誰かの家にいて迷惑とか、そういうことはあまり考えないらしい。それよりも、勝手にそうやって決めてしまうのは、杉三も驚きだった。
「はああ、この世界では、勝手に決めちゃう人が、本当に多いんだねエ。」
杉三は、やり手のおばさんに言われて、そうため息をついた。
「ここでは、人に迷惑をかけるなんて当たり前なんだから、助け合うのが当たり前なのよ。それを、破ったら、たいへんなことになっちゃうの。それに、どんなに悪い人でも、必ずなにかよいところを持っているって考えるのが、ここでの性分なんだから。あんまり変な批判はしないで、小花さんの誘いに乗って。」
まあ、そうするしかないだろう。どっちにしろ、この世界には、具体的な身内もいるわけではないし、元の世界に戻る方法も全く分からない。そうなれば、この店の人しか頼れる人もないわけだから、彼女たちの指示に従うしかない。そうすることにした。
「明日、男衆にお願いして、水穂さんを運んでもらうから。それであんたも、小花さんと一緒に行くんだよ。そして、小花さんたちと仲良く暮らしてちょうだいね。」
やり手のおばさんは、そういって杉三に目くばせする。
「ああ、わかりました。それじゃあ、そうするわ。小花さんのところでお世話になることにするよ。ま、みんなとはこれからもよろしく、という事になるんだね。」
杉三はとりあえず頷き、改めてあいさつした。
翌日。小花さんは、今までの借金が完済できたことを、おかみさんに告げられた。一方のところ、水穂は店の畳を一枚分けてもらって、そこへ寝かされ、男衆に両端を持ってもらい、いちにいいちにいという掛け声とともに、三浦屋の建物をでた。女郎としての装束をはずして、平服になった小花さんは、その姿のほうが、ずっとかわいいような気がした。
「じゃあ、これからも、元気でね。」
「はい、わかりました。」
あたまを深々と下げて、小花さんは、おかみさんに礼を言う。
「あんたたちも体に気を付けて過ごすのよ。」
やり手のおばさんは、杉三たちにも考慮して、そういってくれた。
「おう、任しとけ。バカは風邪なんか引かないから、大丈夫だよ。ははは。」
でかい声でわらいながら、杉三はにこやかに言った。三人はおかみさんたちにずっと手を振られながら、店の建物を出て、遊郭の正門をくぐって外の世界に出た。
「もうあたしのことは、小花さんとは言わないでね。これからはちゃんと、尾畑久子と呼んでね。」
小花さんは、杉三たちにそっとそう言った。
「おう、わかったぞ。」
杉三は、でかい声で、つきがーでたでーた、つきがーでたーなんて歌いながら、広い道路を移動していった。
小花さんの実家は、遊郭から半日くらい歩いた、かなりの遠方にあった。都市化しているのはほんの一分のエリアだけで、あとはみな田園ばかりの田舎風景がつらなっていた。小花さんの実家も山を切り開いて、やっと人が住んでいるような場所にあった。この世界には、自動車も何もなく。徒歩で移動するしかなかった。時折、道端に立っている茶店で一休みさせてもらいながら杉三たちは移動して、やっと小花さんの実家へたどり着いたときは、もう昼飯ちかかった。
小花さん、本名は尾畑久子さんであったが、その実家はとても古い家だった。でも、柱も屋根もまだしっかりしていた。小花さんの夫、清さんは、十年前に亡くなっていた。理由は、雨漏りをしていた屋根を直そうとして、そこから落ちてしまったそうである。この地域ではなかなか腕の良い大工だったそうだが、猿も木から落ちるというのは、この事なんだろうか?
「ほら、つきましたよ。こちらへ入ってください。」
小花さんが玄関の戸を開けた。
「あら、お帰りい。帰ってきたのね。無事に帰ってきてくれてうれしいわ。ありがとうね。」
出迎えたのは、小花さんより年上の、中年のおばさんだった。
「それに、気風のいい、男の人が一緒に。」
「はい、影山杉三、略して杉ちゃんだ。ただのバカですが、縫物と料理と音楽なら得意だよ。なんでもつかってね。」
杉三はにこやかに頭を下げると、
「はい、杉ちゃんね。よろしくね。あたしは、尾畑怜子です。久子とは、義理の姉になります。」
と、その女性、つまり怜子さんは言った。
「おーい、小花さん、水穂さん何処へ連れていけばいいんですかね。」
水穂を連れてきた男衆が、久子さんに言った。それを聞くと、怜子さんの後ろから、久子さんらしい源氏名をもらったなと笑いながら、左足を引きずり引きずり、一人の中年男性がやってくる。怜子さんが、自分のお兄さんで名前を淳さんと紹介した。つまり、このお宅には、淳さん、怜子さん、清さんの三人兄妹がいて、久子さんはその末の清さんのお嫁さんという事になる。
「ははんなるほど。みんなよい人というのは、そういう訳だったのか。」
杉三はぽつりとつぶやいた。
「もう一回聞きますが、水穂さんはどこへ?」
「あ、清の部屋が空いているでしょうから、そこへ寝かせてやってください。」
淳が男衆に言った。あたしが布団を敷いてきますから、と、怜子が急いで部屋へ行く。
「おい、なんだかこの家の世帯主は誰なのかわからなくなってしまったぞ。」
杉三が、久子に聞いた。
「ええ、一応、あたしの主人が持っていたんですが、もう亡くなってしまってからは、あたしが持つことにしています。見てのとおり、お兄さんは、足が悪いし、お姉さんは特殊な体質で、二人とも、外へ出られないので。」
「そうか。それにしてはおかしいな。あの二人が、家の中を取り仕切っているように見える。世帯主のお前さんが何で黙っているんだ?」
と、杉三は言った。
「まあ、それはしょうがないわ。年上の人には逆らえないから。」
久子は笑ってごまかした。
「布団敷けましたよ。こっちへ連れてきてやってくれる?」
怜子さんがもどってきてそういったため、水穂は男衆の背中に背負われて、家の中に入った。
「さて、皆さんもご飯にしましょう。あ、それとも道中で何か食べてきたでしょうかね。」
淳がそう呼びかけると、
「あ、まだ、、、。」
久子は答えるのに躊躇した。
「じゃあ、皆さんでご飯にしましょうか。」
「おう、食べよう食べよう。それよりもさ、やり手のおばちゃんに聞いたんだが、このお宅には確か、夏ちゃんという、女の子がいたはずではないか?」
杉三は思わずそういったが、それは言ってはいけないという感じがした。禁止ワードなのだろうか?
と思って、それ以上杉三は言わないことにした。
取りあえず、杉三たちも中に入って昼食にした。昼食内容は蕎麦だった。
「ごめんなさいね。せっかくお客さんが来てくれたのに、蕎麦くらいしか、もてなす料理がないのよ。」
怜子さんが言う通り、この家は余り経済的に豊かではないらしいことが見て取れた。杉三は、量が食べられれば、大丈夫とにこやかに笑った。
「いただきます。」
杉三は急いでそばを口にしたが、
「これ、打ったのは誰だ?」
と聞いた。
「はい、僕ですが。」
淳が答えると、
「うーん、ちょっと味が悪いなあ。もうちょっとそば粉の分量を増やして、小麦粉は減らしてみな?そうしたら、もっとうまくなるぜ。なんだか、このそばは粉っぽいのよ。」
と、杉三は解説を始めた。淳はそれを何も嫌そうな顔をせずに、真剣に聞く。
「そうですか。ではどうしたらいいのでしょう?」
「うん。これおそらく二八蕎麦のつもりで打ったのだろうが、ちょっと小麦粉の分量が多すぎるようだな。それに麺に水分が足りていないと思うんだ。あと、このつゆな、これ一寸薄すぎるからさ、もう少し濃い味でもいいぞ。」
「なるほど、わかりました。次はきを付けます。」
「よかったねエ。お兄ちゃん。しっかり教えてもらえたじゃない。もともと、からだが悪くて働きにいけなかったから、ご飯の仕事はお兄ちゃんに任せきりで、何だか指摘されるまで、味が薄いとわからなかったわ。」
怜子さんに言われて、淳は少し苦笑いした。そして、杉三に、蕎麦の作り方のコツなどを盛んに聞き始めた。二人の息はぴったりだ。
「後で、ちゃんと蕎麦の作り方をしっかり教えてくれませんか。僕はそれしか能がないのですよ。」
「ああ、足が悪い分、ちゃんとやるべきことを心得ているようだな。」
「ええ、よく男のくせに働けないので、近所の人に笑われてましてね。せめてうちのことだけはちゃんとやりたいって思うようにしているんですよ。外のことは、なんだか久子さんに任せきりにしてしまったので、できることはちゃんとやろうって、誓いを立てて。」
「そう、お兄ちゃんは、そういうところがしっかりしてて、カッコいいわ。」
怜子さんも、淳さんも明るかった。二人とも、体が不自由ではあるが、明るく楽しく生きることは、心得ているようである。
杉三が淳さんたちとご飯を食べている間、小花さんこと、久子は、夫の使っていた部屋で寝ている水穂に、ご飯を食べさせていた。
「ほら。」
と、口に入れさせるまでは成功するが、やっぱり咳き込んで吐き出してしまう。
丁度その時、一人の女性というより、思春期の少女が部屋に入って来た。この人こそ、久子さんの娘という夏ちゃんなのだろうか。
「お母さん帰ってきたんだ。」
と、彼女は言ったので、それは当たっていた。
「この人は、お母さんのお客さん?」
一寸ばかりきつい言い方で、夏は聞いたが、久子は静かに、
「お客さんというか、大事な人なのよ。」
と、答えた。
「あんたも早くご飯食べてきてよ。まだ、蕎麦が残っているはずよ。」
「いい、あたしも手伝うから。」
夏も、水穂さんの枕元へ座った。
「一体お母さん、この人を使って何かするつもりなの?」
「そんなことしないわよ。あんたが、もうちょっと前向きになってほしいと思っただけよ。」
久子がそういうと、夏は、
「なんだ。あたしのこと。」
と、なんだかがっかりした様子で言った。
「なんだ。」
そうもう一回言うところを見ると、何か変化を起こしてくれると、期待していたのだろうか。しかし、期待していたのとはまた違う目的で、母は水穂をここへ連れてきたという事になるので、夏はがっかりしたのである。
「夏、熱がないかどうか、ちょっと見てあげてよ。」
夏は母に言われた通りにして、水穂の額に手を当てて、
「熱がある。顔が熱いもの。」
と、ぼそっと言った。
「そうか、其れなら水枕持ってきてやってくれないかしら。」
「わかった。」
夏は部屋を出て、台所に行った。
台所に行くと、夏がみたのは、おじの淳さんが、杉三にそばの打ち方を教わっている光景だった。いつも、後ろ向きなおじさんが、そばを教わっているなんて信じられない。それをおばさんの怜子さんがにこやかに見ている。
「あらなっちゃん。今やっと起きたの?この杉ちゃんが、おそばの作り方を教えてくれるんだって。これからね、うちのそばもすごくおいしくなること、間違いなしよ。」
今日も又蕎麦かあと思ってしまう夏。毎日の食事は、蕎麦と雑炊ばかりで、夏は少々イライラして来たのである。
「怜子おばさん、何かほかのものを作ってもらえないでしょうか?」
思わずそういうと、怜子おばさんは悲しそうな顔をした。
「ごめんなさいねえ。うちにあるのは、コメと、そば粉しかなくて。もともと歩けなかったり、体の悪い人ばっかりの家だから、なかなか新しい食材には手を出せないのよ。」
もっと、しょうゆのかかった味ご飯とか、酢飯のちらし寿司とか、そういうものを食べってみたいという気持ちもあったが、それは、うちにいる限り食べれないのは知っている。怜子おばさんが、大の魚嫌いというよりも、魚を食べてはいけない体であるからだ。
「ごめんね、おばさんのせいだよね。なっちゃんが学校でつらい思いをしているのは分かるけど、無理なものは無理ってあきらめてね。」
そういう言い方って、本人は申し訳なくてそういうのだが、いわれる側にとってはいい迷惑になるのだ。そういわれたって、なんの解決にもならないのは、だれでも知っている。
ああ、なんであたしはこんなに不幸な環境に産まれてしまったのだろう。どうして人並みの幸せが持てないんだろう。夏は、がっかりと肩を落とした。
「でも、久子も戻ってきたことだし。それになんでもしてくれる杉ちゃんと、あんなにきれいな人を連れてきたんだから、それでいいにしましょう。」
「夏、何をしているの?早くもって来て頂戴よ。」
部屋から久子の声がした。
「はい、ただいま。」
夏は急いで、水枕を取りに風呂場へ行った。それを怜子おばさんは、申し訳なさそうに見る。
「お母さん、持ってきた。」
夏が水枕をもって、部屋へ戻ると、水穂さんは、おかあさんと一緒に何か話していた。
もしかしたらお母さん、淳伯父さんと、怜子伯母さんに対抗するために、この美しい顔をしたおじさんを連れてきたのではないだろうか。もしかして、お父さんのことを忘れるため?何て夏は考えてしまった。それほど、お母さんは楽しそうにしゃべっていた。
「晩御飯よ。」
怜子さんにそういわれて、せめてこの時だけはと、怜子さんたちと一緒に、夏は食卓へ着いた。
「はい、今日は杉ちゃんさんに教えてもらったそばです。まあまだへたくそですけど、言われた通りにやりました。そんなにうまくはないかもしれませんが、食べてみてください。」
いつも通りのざるそばであって、変わりぶりは余り感じないのであるが、
「遠慮なく感想でも言ってください。」
と言われて、夏は急いで食べてみた。
「あら、上手いじゃない。ちゃんとこしがあって、食べ応えもしっかりあるわよ。」
怜子さんが言う通り、しっかりした蕎麦だった。今までの粉っぽくてぼそぼそした蕎麦とは、まるで違う。
「いやあ、初めて作り方をしっかり教えてもらったのですが、結構混ぜ方で、苦労してしまいました。」
と、淳は苦労話を話した。
「それでは、今日のが、新しいやり方で教わった蕎麦の、第一号という事になるのねえ。」
怜子さんは、おいしそうにそばを食べた。
みんなにこやかに食べられたのは、久しぶりだなと夏は思った。もともと、おじさんとおばさんがいるせいで、自分はおじさんたちよりもっと大きなことをしなければならないと、言われているような気がして、非常に家の中に居づらかったのだが、それはもしかしたら、変わってくるのかもしれなかった。母も、ああして水穂さんという人を連れてきて、そこに何か新しいことを見出そうとしているのかもしれない。そうしたら、また優先順位も変わってくれるかもしれない。そんなことを夏は考えていた。
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