ステップ・イン・ザ・ナイト

阿部 梅吉

ステップ・イン・ザ・ナイト

 昔の同僚が結婚した。ただ、それだけの話だ。簡単なハガキが来た。私たちは結婚しました、と。式は挙げなかったようで、同僚らしいと思う。彼女が結婚式でウェディングドレスを纏っている姿など想像できない。


 僕はもう一度ハガキを見た。知らない名前と見覚えのある字が同じ場所に並んでいる。僕はそれを近くにあったゴミ箱に放り投げ、目の前のパソコンでメールを確認した。全て仕事のどうでも良い話だ。どれもこれも急ぎの用ではない。なにせ、今日は土曜日だ。こんな天気の良い休日に仕事しているのは罪な気もする。


 

 手紙が来たのは、そんな春の土曜日の昼下がりだった。


 時は流れる。それを誰も止めることはできない。


 


 踊りましょう、と彼女は言った。もう六年も前の話だ。踊る? よくわからなかった。僕は生まれてこのかた、まともに踊ったことなど一度もなかった。


 それしかやることがないし、今は。


 そう言って彼女は、高価そうな黒いカバンを地面の上に置いた。どすっ、と鈍い音がした。真夜中の公園。周りには誰もいなかった。時折蚊の飛ぶ音がするくらいだ。彼女はおもむろにスーツのジャケットを脱いで地面に放り投げた。あまりに自然な行動だったから、その間僕は何も言えなかった。


 彼女は地面を一瞬見た。それからゆっくり足を上下に動かした。彼女は黒いヒールを履いていたので、足を動かすたびにコツコツと小気味よい音が響いた。ステップは遅いテンポから始まったが徐々に早くなっていった。テンポの上げ方も完璧だった。彼女は次第にノッてきたみたいで、足を左右にも動かしたし、徐々に前に移動して行っていた。それに合わせて指を鳴らし、腰を動かしながら腕を上下に振った。


「踊らないの?」

と彼女が言った。少し息が上がっている。当然だ。僕たちはその日朝の九時から仕事していたのだ。正直、僕はヘロヘロだった。


「踊れないんだ」

と僕は言った。彼女と僕は少し距離があったので声を張り上げなければならなかった。

「踊ったことなんかない」


「なんだっていいのよ」

と彼女は言った。


「とにかく踊り続けるの、考えながら」

彼女は少しだけ笑った。


「音楽は止まんないでしょ?」

 その時音楽は鳴っていなかった。彼女の中では流れていたのかもしれない。


「終わるわよ」


 僕は彼女の横に立った。見よう見まねで踊ってみる。彼女は高速で足を動かしていたので当然ながらついていけなかった。彼女は構わず何ステップか刻んだ。と思ったらそのあといきなりステップを緩めた。僕をみて少しだけ笑った。綺麗な笑い方だった。もともと彼女は綺麗なのだ。


 それから僕らはたっぷり夜の十二時まで踊った。 ヘロヘロになるまで踊った後、僕らは炭酸を一緒に飲んだ。


 何かが弾けた。


 


 彼女のことはよく覚えている。彼女は綺麗だった。長い髪を後ろで一つに束ね、いつも清楚な服を着て凛とした表情で仕事に向かう彼女はとても美しく、まぶしかった。当然ながら、彼女の周りには優秀な男がいつもいた。しかし彼女の頭の中にあるのは悲しいかな、仕事しかなかった。彼女自身はそれで何ら問題ないようで、周りに男性がいようがいまいがどっちでも良いようだった。


「私は男だから」とたまに彼女は冗談で言った。

「まさか」

「でも私が男だったら良いと思わない?」

「どっちでも良いかな。君が優秀なことには変わりないし」

「でも月経痛に毎月悩まされるのよ」

「それは大変だと思う」

「本当に暑い日にストッキングを履かなくちゃいけないし」

「うん」

「毎日拘束具を胸につけなきゃいけないし」

「うん」

「肌がどうであろうも化粧は必須」

「うん」

「たまに嫌になる」

「本当にたまに?」

「たまによ」

「それは大変だと思う」

「何か男性も大変なことってないの? 何か……月経痛みたいなの、ない訳?」

「ないんじゃないのかな?」

「男で嫌だったと思うことはある?」

「ないかな、わからないね」

「でも正直に言うとね」

「うん」

「女でいるのもそれほど悪いもんじゃないのよ」


 たった六年前のことだ。つい最近のことのような気もするし、うんと昔のことのような気もする。きっと忘れてしまったこともたくさんあるに違いない。でも僕は覚えている。


 六年前、まあまあ晴れたある四月の日、彼女は僕の職場に来た。僕はネット関係の会社にプログラマとして勤めていて(今もそうだ)、彼女は僕の会社にデザイナーとして派遣された。もともと女性の少ない職場だったので、彼女が来た時は会社の雰囲気がガラリと変わったことをよく覚えている。


 彼女がいると皆背筋を伸ばして熱心に仕事をしたし、オフィスは前より小綺麗になった。空気も前より美味しくなった。彼女がいるとみんなあんまりよく働くので、仕事が進んで楽だった。


 職場の少なくない連中が、彼女に好意を持っていた。しかし誰も彼女に手を出さなかった。当然の話だ。彼女は上司のお気に入りだったのだから。


 彼女は何も言わなかった。彼女が当時誰に好意を抱いているのか、僕には全く検討もつかなかった。彼女は誰に対しても同じように話しかけたし、誰が話しかけてもにこ、と笑ってくれた。



 それから三カ月経ったある夏の日だった。蝉が鳴いて、脇が汗ばむ季節だ。その日は金曜の夜で、僕以外にはオフィスに誰もいなかった。


 二十二時くらいだったと思う。作業をしていると、隣の部屋からカタンと音がした。電気はついていなかった。僕はボタンを押し、明かりをつけた。見ると真ん中のデスクで彼女が突っ伏して寝ていた。


「いたんだ」

と僕は声をかけた。


 彼女はゆっくりと顔を上げたが僕の方を振り返らずにそのまま手で目を抑えていた。眩しかったのだろう。


「すみません」

 低くだるい声だった。全く人間に興味を示さない猫が頭を撫でられた時のような声だった。


「寝るつもりはなかったんです」

「寝てて良いよ、僕はまだいるし」

「いえ……」

 彼女は顔にかかっていた髪の毛を、頭を左右に振って振り払った。そのまま沈黙が訪れた。彼女はまだ目に手の甲をあてていた。


「何か飲む?」

「……あなたが飲むなら」


 僕は隣の部屋に戻り、ティーバッグの紅茶を淹れた。彼女の元へ戻ると、また机に突っ伏して寝ていた。彼女からしゃっくりのような音が聞こえた。僕は彼女の頭の横に紅茶を置いた。こんなとき、いったいどうすればいいのか僕には全くわからなかった。

 僕は徐ろに近くのパソコンを起動させ、ユーチューブを開いた。その時に流したのは、カーペンターズの『愛にさよならを』だった。カレンはいつもよりも語尾を伸ばしたり縮めたりして遊びながら歌っていたが、間奏のギターは相変わらず素晴らしかった。曲の終わりごろにもう一度、彼女からひくっと音がした。しゃっくりが止まらないらしい。僕は次に何を聴くべきか悩んでいた。なんとなく彼女に声をかけるべきではないと思った。

 僕は適当に曲をいろいろかけた。そうするしかなかったのだ、僕には。『愛のプレリュード』、『トップ・オブ・ザ・ワールド』、それに『イエスタデイワンスモア』。

 『 愛は夢の中に』が終わったところで彼女が起きた。なかなか甘く切ない曲だ。


「良い曲」

息の多い声だった。

「うん」

「カーペンターズがお好きなんですか?」

「親が好きだったから」

「良いですよね」

「うん」

 正直に言うと僕はたまに聴いてると眠くなるがそれは言わないでおいた。


「でも踊れません、こんなスローな曲だと」

「踊れるよ」

 『タッチ・ミー』がかかった。僕は彼女の右手を取って起き上がらせた。漸く彼女は僕の方を見た。彼女の目は赤かった。


「いつもとは少し違うけど」

僕は彼女の手を離さずに適当にステップを踏んだ。


「回れば?」

と言ってみた。彼女は恥ずかしそうにゆっくり三回ほど回り、少し微笑んだ。不思議な笑い方だった。悲しいのか嬉しいのかわからない表情だった。僕は笑った。僕は彼女をもう一度椅子に座らせ、一人で適当に踊った。


「なんか変、曲に合ってない」

「良いんだよ、これはこれで」

「そう?」

「そう」

 曲が終わりそうになると、僕はパソコンの前で曲を探して入れた。バラードで、『遥かなる影』。

「いいわね」

「もっと踊れる方がいい?」

「うーん」

 レディ・ガガの“The Cure”をかけてみた。それでもバラードだ。

「優しいのね」

 彼女は椅子から立った。

「もっと激しい曲でも良い?」

「もちろん」

 僕は曲をかけるしかない。彼女は踊るしかない。僕はひたすら曲をかけた。思いつく限りの曲を、彼女が踊りやすい曲を、彼女が好きそうな曲を一度も切らさずにかけ続けた。

 彼女は結局三曲たっぷり踊り、あとは適当に足をリズムに合わせて上下させた。踊り終わったあとで彼女は僕のことを褒めた。


「いい選曲」

「踊れないけどね」

「みんながみんな踊れるわけじゃないけど、みんながみんないい曲をかけるとも限らないわ」

 その通りだった。僕は彼女が踊り終わっても小さく音楽をかけていた。ガガの“Telephone”。やっとアップテンポだ。


「何か好きな曲はないの?」と僕は聞いた。


「踊れれば何でも」

「そう」

「貴方も踊りましょう」と彼女は言った。

「それしかないし、今は」

「踊る?」

 僕は面食らった。


「君みたいにまともに踊ったことなんてない、いつも適当だよ」

「何だっていいのよ」

 僕は彼女のステップを、見よう見まねで踏んでみる。足を動かし、指を鳴らし、腰をそらせる。


 彼女は一向に踊りをやめる気配はなかった。僕は夢中で曲をかけ続けた。“Born This Way”、“Art Pop”、“You and I”、それに“Just Dance”。


 僕たちは外に出た。曲はもうかかっていなかったが、僕たちの頭の中ではかかっていた。僕たちは深夜の公園で踊り狂った。


 僕はもう踊り疲れてへろへろになった。やっと彼女がステップをやめた時、もう十二時近くになっていた。

「いいわね」

 彼女は息を上がらせながら言った。心地いい風が吹いた。


 僕たちは汗だくのまま公園を後にし、自動販売機で炭酸を買った。飲み始めしか味のしない炭酸だと思っていたが、弾けるようなうまさだった。頭は空になり、体はほてっていた。


 彼女は額にかかる汗をぬぐって言った。

「もう日付超えるわ」

「帰りましょうか」

「そうね」

 風が沁みた。


 その後、我々は何もなく別れた。本当ならば彼女を夕食にでも誘うべきだったのかもしれない。ただ僕が彼女の内面に踏み込んで傷つけるよりかは、彼女が笑顔のまま別れる方が良い気がしたのだ。そんなわけで、僕は帰ってコンビニ弁当を食べて歯を磨いて寝た。



 その翌日、僕たちは特に何もなかったように顔を合わせ、簡単で判を押したような挨拶を交わした。そこには何の感情もなかったし、彼女の方も何かしらのサイン、意味ありげな微笑みだとか照れて赤くなるだとか、或いは複雑な顔をしてくるとか、そういうものは一切見せなかった。ただ単に我々は少しの間、二人でいただけなのだ。何も変わらない。 今まで通り、めまぐるしい日々がただ続いていくだけだ。慣性の法則。


 彼女が踊れることを知っていたのは、僕だけだったのかもしれない。彼女はそんな素振りを一切見せなかった。彼女熱心なイラストレーターで、僕は一介のシステムエンジニアだった。僕たちは同じ箱の中でそれから一年半過ごした。季節だけが巡っていった。


 一年半後、彼女は週に三回しか会社に顔を出さなくなった。他の会社のイラストを描く機会の方が増えたのだ。初めこそ申し訳ないような顔をしていたが、次第にそれは週二回になり、やがてそれは週一回になった。


 その更に一年半後、彼女は自身の仕事の都合で退社した。それまでには幾つかの衝突や話合いがあったのかもしれない。僕にはわからない。僕は送別会で判を押したような別れの挨拶を言い、彼女とはそれっきりになった。僕は役職が一つ上がった。


 彼女がいない社内は何となく殺伐とした。ゴミは置きっ放しになり書類は放置され、仕事はほんの少しだがペースダウンした。社内のエントロピーは目に見えて増大していた。


 そのようにして僕たちの六年は過ぎた。



 

 僕の惑星軌道を一瞬なりとも(それは本当に一瞬だったと思う)、遅らせたのは彼女からの手紙だった。それは僕宛ではなく会社に宛てた手紙だった。ありきたりで、一目で何を伝えたいのかが分かる内容だ。彼女と知らない男が白い服を着て笑っている写真が大きく載っていた。よくある手紙だ。しかしそのよくある手紙が、僕の中の何かを動かしたのは紛れもない事実だった。


 一瞬しか見なかったが、確かに彼女は綺麗だった。きっとプロのカメラマンがいて、彼女が笑った美しい瞬間を美しく切り取ってくれたのだろう。穏やかな笑顔だった。その手紙の写真が載っている面を裏返しゴミ箱に捨てたが、やっぱりもう一度取り出し、隣の奴のデスクに置いた。


 あの夜にかけた音楽を、僕はいまだに覚えている。無我夢中で、彼女が笑ってほしい一心だけでかけた音楽たちを。順番も、曲の繋ぎも、彼女が踊ったステップも、段々と変わる彼女の表情も、彼女の台詞も、僕は逐一覚えている。僕たちが本当の意味で解放できたのは、あの夜だけだったのだ。僕はそれに気付くまで六年もかかってしまった。


 もう一度、曲をかけてみようと思う。


 踊り続けるしかないの、と彼女は言った。


上手く踊ろうとする人、楽しく踊ろうとする人、途中で踊らない人、まあいろいろあるわね。かかっている曲もその時々で全然違うし、気に入らない曲もたくさんあると思うわけ。でも踊るしかないのよ、私には分かるの。踊るしかないのよ。


 僕は彼女に習ったステップを久しぶりに刻んでみる。彼女が愛したクラブミュージックをかけて。彼女がこれから踊る相手は、もう僕ではない。僕は一人で踊り続ける。一人でも構わない。今は頭を空にしたい。もう何もかも忘れて。 


 彼女は今も踊っているのだろうか。少なくとも誰よりも楽しく踊れていれば良いと思う。僕が今思うのはそれだけだ。あとは音楽に任せる。


 歌詞は終わった。メロディはまだ鳴っている。

 もうすぐ曲が変わる。新しい曲に。

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ステップ・イン・ザ・ナイト 阿部 梅吉 @abeumekichi

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