第18話 指輪の封印

「ああ……億劫だな」

妖魔の女王は、天を見上げていた。

暗雲が立ち込め、降り注ぐ雨滴は天地を洗い流していくかのよう。雨宿りしたいところだが、お気に入りの場所は失われてしまった。世界が二つに割れる争いが起きた日に。

それにしても気だるい。力が失われていく。体内に蓄えた血とともに。

妖魔の女王は、己を貫く無数の槍に目をやった。地中深くより伸びた、大樹の根や枝葉へと。こうして串刺しにされるのは幾度目だろうか。自分は勝てた試しがない。今は敵同士の関係である、かつての友に。

視線を前方へ向ける。

佇んでいたのは大樹の精霊であった。彼女の器である大樹とはたった一本の木を指すのではない。途方もなく巨大な森林、自らの意思を持ち、動き回る生態系そのものなのだ。女王と言えどもまともに戦えば圧倒的な質量に押しつぶされる。勝てる道理はなかった。

「―――」

敵手は無言。彼女には勝てた試しはないが、しかし負けたこともない。女王は不死だったから。この肉体が滅んでも生まれ変わればよいだけのこと。

この戦いはいつまで続くのか。母なる女神は、他の神々同様に去った。世界樹も幽界かくりょの奥深くへと消えた。残された者たちばかりがこうして殺しあっている。自分たちを王に戴く、より小さきものたち。定命の者共が抱く憎悪の連鎖に押し立てられて。

続いて周囲に目をやる。

そこは屍山血河の頂だった。

小鬼ゴブリン。人間。妖精族。巨人ども。多種多様な種族が倒れ伏す戦場の中心である。彼らは容易く死んでしまう。生まれ変わっても何も覚えてはいない。女王や精霊と同じ時を生きることは叶わぬのだ。ただ、世代を重ねて憎悪を募らせていくのみ。

正直、羨ましかった。何もかも忘れて死ぬことの出来る彼らが。

だから。

「頼みが…ある」

女王の言葉に、精霊は怪訝な顔をした。

「もう疲れた。甦りたくない。眠りたいんだ。ずっと。ずっと、醒めることのない微睡みの中で」

「そなた…」

「君にしか頼めない。

私がいなくなれば、一族のものたちも君に挑むことは出来なくなる。この不毛な争いを終わらせられるだろう」

「……古き友よ。それがそなたの望みなら」

精霊は、周囲に延びる枝のひとつを手折った。かと思えば、懐より取り出した石の刃でそれを切り刻み始めたのである。

やがて削り出されたのはひとつの指輪。

「そなたはすべてを忘れるであろう。何の力もない人間の娘として生まれ変わるのだ。幾度繰り返そうとも。

もう、休め」

精霊は、やさしく指輪を女王の指に嵌める。

「私は壁を築こう。我が身をもって、何者も通ることの叶わぬ茨の長城を。二つの種族を隔てるため。いずれこの戦いを、伝説の彼方に追いやるために」

「いい…考えだ……」

まぶたが重くなる。

友に看取られながら、妖魔の女王は今生を終えた。


  ◇


娘が目覚めた時、そこは建物の中だった。窓から差し込む朝日が目に突き刺さる。

身を起こす。体にかけられていたのは分厚いマントである。

周囲を見回せば、壁にもたれかかった人物の姿。妖精騎士だった。

「―――目が覚めましたか。あなたは、まだあなたのままですか?」

「あ———」

思い出す。昨夜の出来事を。敵に襲われたこと。妖精騎士に救われたこと。―――竜を、自らの手で切り刻んだことも。

手を確認する。身に着けた、大切な呪物を。

指輪の姿は無残なものであった。半ば炭化し、いつ崩れてもおかしくないほど。竜の吐息ドラゴンブレスを受けたのだ。無理もない。

そして、先ほどまで見ていた夢の内容に思い至った。

この指輪が妖魔の女王の封印のためのものであるならば。その力が弱ったことで、女王が目を醒ましたのだとすれば。昨夜の異様な力も、復活しつつある女王がその源泉なのだろう。ならば、指輪が失われたその時に女王は復活するのやもしれぬ。

だが、この指輪は真に力ある魔法の品である。このまま朽ち果てるはずもなかった。新芽が伸び、自らを癒そうとしていたのだ。

指輪の霊力が勝つのか。それとも、妖魔の女王が復活するのか。娘には判断がつかなかった。

「大丈夫。すべて覚えています。私は、まだ私です」

「そうですか……ご無事でよかった」

安心した様子の妖精騎士へ笑みを浮かべると、娘は指輪を優しく撫でる。

妖魔の女王が復活すれば、己はどうなってしまうのだろう。分からない。分からなかったが、しかし怖れはかつてほどのものではない。彼女の記憶を夢で垣間見たからかもしれぬ。女王のような強大な半神であっても、友と交わり、宿命に苦悩するのだと知って親近感すら抱いていた。

懸念を胸に仕舞った娘は、違う質問を口にした。

「他の皆は?」

対する妖精騎士は、無言で首を振る。他の仲間たちはここにたどり着けなかったのだ。黙祷を捧げる娘。

これより先は二人きり。

旅の終わりは、近い。

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