第15話 紅い月

風が炎を吹き消して行った。

うとうととしていた指輪の娘は顔を上げる。強烈な悪寒。背筋がゾクゾクする。周囲を伺った彼女は、視界の隅を横切る何かを目撃した。

窓に駆け寄ると、外を一瞥。

―――いない?

見間違いだったのだろうか?日のあるうちに、神殿の敷地内は一通り見て回ったのだが。

振り返った娘は、今度こそ仰天した。月光が差し込む先。建物の奥に白い塊がうずくまっていたからである。

思わず身構える娘。警戒する彼女の予想に反して、塊は何も動きを見せない。

目を凝らしてみれば、それは人の形をしていた。驚くほどに気配が希薄で、いまにも消えてしまいそうなほどにうすぼんやりとした姿。耳を澄ませて見れば、聞こえてくるのは微かな啜り泣きであろうか。

娘は、これが死者の霊魂であることを悟った。弔われることなく放置された犠牲者たちの悲しみが、月神の力によって照らし出されたのである。

月神とは、生と死の境界線上に座する神でもあるから。

ぞわり。

異様な気配を感じた娘。扉から飛び出した彼女は、見た。音もなく殺到してくる闇の種族と、追い詰められ、惨殺されていく神官たちの姿を。

「―――!?」

彼らは娘の方へと殺到し、、そして虚空へと消えていく。

思わず身をすくめていた娘はしばし呆然。やがて彼女は、今の光景が現実ではないことを悟った。

かつてあったであろうその情景が、朧げな月光の作り出す幻として再演されたのである。

山頂を仰いだ娘は、見た。その先にかかる、紅い月の姿を。

欠けたるその姿はまるで、血の涙を流す瞳のよう。

そして、その下に佇むのもまた、血塗られた死霊であった。

そいつは、ゆっくりと振り返る。

吸い込まれるような瞳。いや、ような、ではない。実際に吸い取られている。魂が。娘の持つ生命力そのものが引き寄せられ、吸い尽くされようとしていたのである。

指輪の加護がなければ、実際にそうなっていただろう。呪詛が破れた。清冽なる霊気が膨れ上がり、そして死霊が大きくのけぞる。

我に返った娘は、無意識のうちに声を上げていた。万物に宿る諸霊たちへと援助を求めたのである。

幾つもの霊がそれに応え、物質界へと顕現した。紫電が降り注ぎ幾つもの球雷を形成する。それはまるで娘を守るかのような布陣。

一拍の間をおいてそれらは、死霊へと襲い掛かった。幾つもの攻撃が敵の姿をかき消していく。

全てを、指輪の娘は茫然と見ていた。

やがて攻撃が止んだ時。死霊は粉々に砕け散り、そしてその内から漏れ出た小さな小さな魂が漂い出す。

娘は無意識にそれを受け止める。無念。死。絶望。それらの感情が流れ込んできた。

「―――あぁ……っ」

指輪の娘の内に広がったのは、悲しみ。

それら全てを、月は優しく見守っていた。


  ◇


月が随分と傾くほどの時がたった後。

正気に返った娘は、自らがへたりこんでいるのに気が付いた。力が入らない。随分と苦労をしてようやく立ち上がる。どうやら、先ほど霊に語りかけた時に力を使い果たしたらしい。これが魔法を行使する、と言うことなのだろう。まだ実感が湧かないが。

周囲の空気は一変していた。清浄で冷俐な大気。紫電が祓ったのは死霊だけではなかった。神域を覆っていた死の気配が浄化されていたのである。

寝床に戻らねば。今宵は死者の霊魂に悩まされる心配はないだろう。安らかに眠れるはず。

そこまで思考した娘は背後から聞こえる羽ばたきの音に振り返り、そして予想が裏切られた事を知った。何故ならば、死霊が佇んでいた場所よりも先。山頂の更に向こう側から上昇してきたのが、新たなる敵だったからである。

それは、竜だった。鱗に覆われ、翼を持ち、ねじくれた角は大きく、口の奥より見えるのは焔。巨大な翼を羽ばたかせるそいつの姿は神殿の建物をも凌駕する。

それよりも目を引いたのは、怪物の背に跨がるフードで顔を隠した魔法使いの姿。強烈な邪気を放つそいつに、指輪の娘は気圧された。

「ようやく見つけたぞ、娘よ。我が主もお喜びになるであろう」

逃れる術は、ない。

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