第14話 月の神殿

子供たちがいたずらをしていた。

宙を舞い、体が透けていて、しかも指先ほどしかないものを子供と呼んでいいものか。そして彼らがいたずらをしている先が小鬼ゴブリンの尖った鼻先(にとっては岩山だ!!)である、といった事実を度外視するのであれば、それはまさしくいたずらと言えた。こちょこちょととくすぐったり、鼻毛を力任せに引き抜こうとして逆に吸い込まれたり。鼻水まみれになって転がり出てくる者もいる。

当の被害者ゴブリンは気付きもしない。彼はいわゆる霊感を備えていなかったからである。何やら鼻が詰まって気持ち悪いな。程度に考えているに違いなかった。

やがて強烈なくしゃみに、―――その姿を備えた小さな霊たちは吹っ飛ばされていく。ころころと、楽しそうに。

小鬼ゴブリンは、最後まで気が付かなかった。己がいたずらされていたことも。下手人が見えざる霊であったことも。

鼻のむず痒さに注意が集中していた彼の背後を、人間の娘が小走りに去っていったことも。


  ◇


心の臓が止まるかと思った。

指輪の娘は、胸を撫で下ろした。さもなくば小鬼ゴブリンどもと一戦交えねばならなかったところだ。あの小さな闇の種族は弓矢と棍棒で武装し、残忍さと知恵を備え、そして集団で行動する。一匹を始末できたとしても、仲間を呼ばれてしまえば勝ち目はなかった。

幸い、草むらに潜むちいさな霊たちに頼んで注意をそらすことができたから事なきを得たが。

幻惑と呼ばれる魔法。いわゆる幻術に類するものであったが、娘にその自覚はない。

慎重に、周囲を見回す。

なだらかな高原である。見事な青空の下、小鬼ゴブリンどもが跋扈しているなどとはほとんどのものは気付くまい。そうして通りかかる迂闊な旅行者を、奴らは餌食とするのだ。蟲の霊が教えてくれなければ娘も危なかった。旅人が絶えた現在、奴らは何を獲物としているのだろう。

娘は、その場を足早に立ち去った。


  ◇


高原に、緩やかな参道が延びていた。

彼方に見えるいただきへと通じる小路は、敷き詰められた自然石がすり減っている。神域と外界を隔てる木造の門と、そこに絡められた縄。幾つもの立派な石碑からは栄えていたのであろうことが伺えた。

されどそれも過去の話である。半神を象った像は砕かれ、木々に吊るされているのは朽ち果てた屍。手入れをする者がいなくなった大地は草が生い茂り、自然に飲み込まれようとしている。

そして最も異様な物。

恐怖の表情を張り付けた石像。醜悪なる小鬼ゴブリンども。三メートルもの巨体が這いずり、逃げようとしたがごとき姿。砕け散り、もはや原型をとどめぬ石片。

神域を冒した者どもの成れの果てであった。人間と闇の種族との戦が始まったとき、この地へも軍勢は押し入ったのである。祀られていた月神は、光と闇。どちらの陣営にも味方していなかったにも関わらず。この地を守る神官たちの長は死に際して呪いの言葉ラストワードを残したのだった。神域を侵した者どもへの、神罰を。

あるものは石と化して朽ち果てるまでその姿を晒すこととなり、あるものは無力な獣となりて月神の召し使いたちに食い殺される、という罰が課せられた。月神は野の獣たちの女主人であるから。

沈み行く太陽に照らされる小路を指輪の娘は往く。神官たちの亡霊が今ださ迷っているやも知れぬが、しかし闇の種族も畏れて近寄らぬに違いない。故に、仲間たちとはぐれた時の集合地点としてここが選ばれた。緩やかな斜面を登り、尾根を伝った先。やがて見えてきた山頂に築かれていたのは石垣。

自然石を積んだのであろうそれは防風壁の役割も果たしているに違いない。時代と共に拡張されていった構造の奥には、屋根が覗いていた。焼け落ちた建物の姿も。ようやく今宵の目的地が見えた娘は微かに微笑む。やっと休める屋根の下にたどり着いたのだから。それがたとえ、亡霊と枕を共にすることになっても野宿よりはよい。

娘は、最後の行程を進んだ。


  ◇


月光が、窓の外から差し込んだ。

神殿の一角。そこに身を落ち着けた指輪の娘は顔を上げた。

幸いと言っていいのか建物の損傷はさほどでもない。裏手に薪が積みあがっていたし、天水を集めた貯水槽も無事だった。野宿することを思えば恵まれていると言えよう。いまだ野ざらしとなっている、犠牲者たちの屍と共に夜を明かすことを度外視するのであれば。

荷物を降ろす。樹皮で作った物入れ。荒縄で縒った投石紐スリング。先を尖らせた掘り棒。裂いた枝で作った籠の内側を松脂で目張りした水筒。

小枝を並べる。薪を円錐ティピー型に立てかける。火縄を取り出す。

種火は、やがて激しく燃え上がった。

それを見つめながら、娘は食料を取り出した。生かしたまま運んできた何匹もの地虫を枝で串刺しにし、火にかけたのである。こやつらは栄養豊富な上に捕獲も容易だ。身一つの旅ではもっとも頼りになる活力源であった。

ぼおっと炎を見つめる娘。一息はついたが、先行きは暗い。国を失い、頼りとした聖域も攻め込まれ、仲間を失ってこうして独りぼっち。無事に合流できればよいのだが、あの状況では最悪、生き残ったのが自分ひとりということも考えられる。

どうして、こうなってしまったのだろう。

うとうととした娘は、やがて深い眠りに就いた。

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