第6話 侵入
大地が揺れていた。
聖域の奥深くにある妖精騎士の館。そこにまで届く地響きとそして鬨の声。悲鳴。絶叫。戦闘音の数々に、指輪の娘は身をすくませた。
もはや疑う余地はない。闇の種族は、ここにまで押し寄せてきたのだ。もはや己に安住の地などないのだということを娘は知った。
遥か向こう、地平線の先から上がっている異様な光は、炎なのだろうか。
「お支度を」
振り返れば、戸口にいたのは紅の髪を持つ妖精騎士だった。
「私のせいなのでしょうか?私が、ここに逃げ込んだから」
「いいえ。奴らはもとより我らの敵。遅かれ早かれいずれこうなっていました。気に病まれぬよう。
さ。お早く。主が待っております故に」
娘はもう一回だけ戦の光景を振り返った。
わずかな間それを見ていた彼女は、妖精騎士の手をとり、共に部屋を去った。
◇
無人となった館。されど、留守を守る者たちはいる。
そのうちのひとりである
気配を消した茶妖精は、こっそりと部屋の中を覗き込む。彼が悲鳴を飲み込めたのは、奇跡と言っていいだろう。
そこに
―――なんだ!?なぜあんなものがいるのだ!?どうやって入ったのだ!
分からない。分からなかったが、陰はどうやら部屋を検分しているらしい。となれば先程までここにいた客人を探しているのやも知れぬ。
気付かれぬよう、
いや。逃げ出そうとして、無様に転倒。生きた樹木である床の窪みに、足が引っ掛かっていたのである。
目が合った。
こちらを凝視していたのは、陰。
茶妖精は絶叫した。
◇
大樹とは、それ自体が地形である。城塞にも匹敵しようという偉容は、見るものを圧倒してきた。遥か遠方。聖域のどこからでも、山のごとくそそりたつ姿は目にすることが出来るのだ。近付くことが許される者はごく少数に限られていたが。
だから、此度もそうだった。数少ない例外である指輪の娘は、上古の時代よりこの地に在ったという神木に心奪われていたのである。
「よくぞ参った。我が古き友の末よ」
神話の存在がそこにいた。
女に似ている。影を持たず、光輝くその姿。伝承が正しいのであれば、その薄絹は朝露の滴より紡がれた糸から織られているはずである。そして額の花冠は、彼女が世界樹に代わってこの世の草木を支配することを許された、三十二柱の半神のうちの一であることも示していた。
大樹の精霊。
本来であれば、人間風情が前に立つことなど許されようはずもない。
言葉を失っている娘へ、精霊は歩み寄った。
「許しておくれ。そなたらが滅びを迎えようというときに手を差し伸べる事の出来なかった、不甲斐のない私を」
不思議な香り。落ち着きのある、それでいて気品ある匂いが場を包んだ。いや、己が精霊に抱き締められたのだ、と、一拍遅れて娘は知った。
「ああ。ああ。偉大なる精霊よ。お心を痛めませぬよう。あなたさまのせいではございませぬ。敵が強く、我らが武運に恵まれなかった故のこと」
娘は、己が神話の半神と言葉を交わしている事実に驚いた。それ以上に彼女が覚たのは不思議な懐かしさ。古き血の為せることかもしれぬ。
やがて、精霊は娘より手を離した。
「そなたはここに来るまでに、引き裂かれるような思いを幾つもしてきたであろう。
されど、私はそんなそなたに告げねばならぬ。残酷な事実を」
「構いませぬ。これ以上、何を恐れることがありましょうか?」
指輪の娘の気丈さに、精霊も頷く。
変事がやって来たのは、彼女が次に口を開こうとしたときのこと。
「大変でございます!」
神聖なる空間へと飛び込んできたのは
居合わせた者たちのひとり。妖精騎士は、そやつに見覚えがあった。館で働く下男ではないか。なぜここへ?
「何事だ!」
主の
「敵でございます。中に入り込まれました」
「なんだと?どこだ!」
次の返答には、僅かな間があった。
「―――ここにございます」
切断音。
衛兵たちの首が刎ねられたのだ、と知れたときにはすでに、変貌は終わっていた。
下男の姿は既にない。その矮駆はたちまちのうちに膨れ上がり、紅の肌と角を備えた巨体へと変じていたからである。
凄まじい妖気。
魔法に長けていた者たちは、何が起きたのかを理解していた。哀れな茶妖精は敵に憑依されたのである。
彼を依り代として顕現した敵手の正体を、大樹の精霊は知っていた。
「よくぞここまでたどり着いた。身ひとつで乗り込んできた蛮勇は褒めてつかわす。
生きて帰れるとは思うでないぞ、妖魔の長よ!」
妖魔は、邪悪なる笑みを浮かべた。
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