第5話 存在価値(急)

 男の笑い声が木霊する。

 男の眼前に立つ青年は先ほど死の淵に追い込んだばかりのもの。

 死に体を引き摺り、ここまでやってきた人の子が兄のいう秘密兵器だという。そんなバカげた状況、笑わずにはいられまい。

「誰かと思えば、神の領域に立った者ならいざ知らず、悪猫に魅入られただけの男が私の敵だと。盲目したか兄上?」

 しかし、時空を司る神たる少年の顔色から余裕が消えることはない。

 本気で言っている。黒き神はそれを実感した。

 舐められているのか。否、兄がそれほど自分を過小評価しているとは考えづらい。

 では、真にこの男が秘密兵器足りえるのか。否、たとえ猫神であろうと自らを止めるに値しない。

 相手の力量を考察する。

 現に見た力の一端は切ったはずの腕が付いていたことくらいだ。幻覚か超再生の類か、恐らく前者だろうと黒き神は考察した。

「何故、邪魔をする。あの娘に惚れたか?」

 不用意に戦闘を行うべきではないだろう。手の内を探れる内は相手の全容を掴むことに努める。

「惚れた? なわけねえだろ、約束しただけだよ。一緒に世界を救うってな」

 下らない戯言だ。だが、その意思は間違いなく英傑たるものの意思に似ている。

 相手が英傑を気取るならば、その意思は打ち砕いて然るべきだろう。

 歩鷹の後ろに黒い靄が立ち込め始める。それはあの橋で立ち込めたものと同じ狩人を呼び立てる門だ。

「世界を救うか、異能に触れただけの人の子が英雄気取りも甚だしい。貴様に世界を救う力があるとでも?」

 安い挑発だ、と男自身思った。

 この手の男がどう応えるかなどわかりきったこと。

「あるさ」

 本当に安い男だ。

 忌まわしき狩人がその首を跳ねようと鋭い爪でもって襲い掛かった。

 その爪は滑らかに滑り、歩鷹の首が飛ぶ。

 赤い鮮血をスプリンクラーのように巻き散らしながら歩鷹の身体はゆっくりと地面に倒れた。

「どうだ兄上、あの男では舞台に上がる価値もない。やはり現世うつしよを離れられたゆえに盲目されたか」

 男はその身を翻す。

 が、背の方から音が聞こえた。

 急いで振り返るとそこには先ほど首を跳ねた男が立っている。その左手には忌まわしき狩人の頭が握られていた。

 困惑と動揺が頭を揺らす。

 確かに黒き神はあの男を侮っていた。歩鷹の力はシストラムという猫に授かったものに過ぎぬと。

「どうやらアンタのペットはシストラムの能力の対象らしいな」

 歩鷹は狩人の頭を雑に放り投げる。狩人の遺体はそのまま空中で霧散し消えてしまった。

 炎を纏う姿から悪霊悪鬼の類を想定していたが、シストラムという名と今の彼の発言、そしてヨグ=ソトースが切り札として彼を差し向けたことからとある神の名前が思い浮かんだ。

「なるほど、ペル=パストの猫か」

 バステト神。エジプト神話に登場する獅子の頭を持つ殺戮と豊穣を司る女神。その手にはシストラム・・・・・という柄の付いたタンバリンを持っている。

 そして、男がかつて敗北したことのある数少ない神の一柱だ。

「考えを改めよう。貴様を殺すのは全力を持って当たらなくてはならぬらしい」

 電灯が明滅する。

 男を照らす闇。その貌は虚空に呑まれ、その孔がグルグルと影のように広がっている。まるで溶けるように広がる彼の影はその体を覆い尽くし、その体は黒い山のように見え始める。黒い靄を吐きながら広がるそれは生物を冒涜するような形をしている。

 軟体動物のような滑らかな肌を持つ円錐にして、流動的な体を持つ貌のない獣が姿を現した。その腹(?)には五つの口があり、背からは枯れ柳のような仔山羊の角のようなものを生えている。

 悍ましくも畏れ多い神格の姿に歩鷹は息を呑む。

 人が何故、神を崇拝するのか。それはソレが尊い存在であるからではない。

 怖ろしく、敬服することでしかその者から逃れられぬからこそ、人は心の底からそれを尊び、畏怖の念を込めて崇め奉るのだ。

 神とは死であり、災害である。

 その息は山をも消し飛ばし、その手はいとも容易く大地を割るだろう。あるいは、世界であろうと瞬きをするだけで壊すことができるかもしれぬ。

 神とは絶対であり、ルールを強制するものを指す言葉である。

「世界を救うと言っていたか、その前に娘の一人くらい救って見せろ」

 くぐもった声で神は叫ぶ。

 空中の黒い靄から触手が伸び、歩鷹を襲う。

 一つ一つが意思を持ったかのような波状攻撃。充のものとは違い、逃げ道を塞ぐように面で攻撃してくるその触手は回避することも困難だ。

 まるで荒れ狂う波がごとく、四方八方から押し寄せる攻撃を何とか避け続けるが、こんなものをいつまでも避けられるはずもない。

 一つは歩鷹自身を襲い、彼が逃げやすい方向を作るために複数の触手でそれ以外の進路を塞ぐ。そして、そちらに逃げた歩鷹を別の触手で襲う。

 シンプルではあるが圧倒的物量と距離を駆使したこの戦術に抗うのは至難の技である。

 現に歩鷹も避けきれずに何度も触手の攻撃を受けている。

 その度に骨は折れ、内臓は潰れ、拉げた骨が肉を突き破っている。

 その感覚は触手を通して黒き神にも伝わっていた。

 確かな感覚はある。だが、歩鷹は次の瞬間には立ち上がり、何事もなかったかのような動きで攻撃を回避している。その動きは徐々に早くなり、次第に触手をいなし始める。

 それならばと黒き神は攻撃に緩急を取り入れ始めた。

 フェイントと視覚外からの攻撃で先ほどよりも歩鷹を捉えることが多くなる。

 だが、それでも彼は立ち上がり続けた。

 まるで悪夢だ。死んでいてもおかしくない攻撃を喰らった瞬間には立ち上がり牙を剥いてくる。

「幻覚ではなく、超再生の類か、ならば……」

 触手の一本が歩鷹の腕に絡みつく。

 そして、その腕を無理やり引き抜いた。

「……ぇ?」

 切断されるよりも激しい激痛。抜けきらなかった上腕の骨がぶらりと垂れ下がり、傷口からはぼたぼたと大量の血液が溢れ出した。

 歩鷹の悲鳴が木霊する。

 訳の分からぬ痛みに転げ回りながら、絶叫する歩鷹。

 引き抜いた腕を口へと運び、咀嚼する黒き神の口は笑っているようにも見えた。

 歩鷹が痛みに苦しんでいると、骨がくっつき、筋繊維が生えてるように徐々に伸びていく。

 ものの数秒で復活した腕。しかし、痛みは残っているのか、歩鷹は生えたばかりの腕を抑えながら目には涙を浮かべている。

 絶え絶えの息。こちらを睨むその表情はまるで威嚇する子猫のようにも見える。

「耐えろよ英雄。世界を救うのだろう?」

 人の心は痛みにいつまで耐えられるのだろう。

 少なくとも欠損を伴う痛みなど、そう耐えられるものではない。

 熱を帯び、困惑する脳内に発せられる危険信号。死を伴うその感覚は想像を絶するものだろう。

 腕を失い、足を失い、首を食われ、腹の中を掻きまわされる。そんな目に遭えば、誰しも死を選ぶだろう。

 シストラムとの融合を解き、人の姿へと戻れば、彼はいつでもその道を選ぶことができる。

「悲鳴がないと暇だな。よし、首は残してやろう」

 既に意識が飛びかけている歩鷹の身体を引きちぎり続ける。咀嚼し消化した細胞には流石に再生機能はない。ならば恐らく一瞬で体を消し飛ばすか、マグマだまりのような場所に落としさえすればいつでも彼を殺すことはできるだろう。

「どうだ、兄上。自らが選んだ人間が弄ばれる気持ちは?」

 最早、悲鳴さえも吐けぬガラクタのような彼の腕を掴んで宙づりにし、兄へと見せつける。

 自らを止めようという傲慢さ。この程度の人材で計画を邪魔しようと企んだ愚かさを嘲笑うかのように高笑いをする。

 ヨグ=ソトースは奥歯を噛み締める。

「何をしているんだ、早く目を覚ませ。殺されるぞ!」

 焦るように叫ぶヨグ=ソトース。その姿を黒き神は愉快そうに笑っていた。

「ハハハハ、最早、万策尽きたようだな、兄上よ!!」

 これ以上、この玩具に構う必要もないだろう。彼にとって、この程度の存在に時間をかける必要性はない。

 黒き神は門を通るために、その姿を変化させて人の形へと成っていく。

 歩鷹の身体が地面へと落ちた。

「……何?」

 黒き神は触手を放したわけではない。

 脱出した? 否、そんな体力が彼に残っているはずがない。

 ヨグ=ソトースが手を貸した? 否、観測者はあらゆる干渉を行うことができない。

 思考。困惑と言うべきか。

 黒き神の胸を大きな巨木のような触手が貫いた。

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