第1話 存在価値(序)3

 ある日、隕石が落ちてきて全てを壊してくれたらいいのに。

 街も、人も、苦しみも全てを壊して、壊して、壊して、壊してくれたら、私もきっと幸せになれるのかもしれない。

 この青い星空を赤く染め上げる暴力があったなら、きっと……。


 網帝マンション。

 観光都市として発展したこの潟森市の西側に聳え立つ廃マンション。

 その昔、古い配管が壊れ、ガス爆発が起きるという事故があって以来、ホームレスも立ち寄らなくなった廃墟だ。

 何かと事件の多いこの街の中でも人死にが多いこの場所を、人は人食いマンションと呼んだ。

 死ぬにはいい場所だ。

 崩壊したといっても外階段から屋上に上がれる。登りきるのは少し骨の折れることだがどうせ死ぬ身だ。今更、気に掛ける些事ではない。

 乾いた金属の音が静かな夜に木霊する。転落防止用の鉄格子の付いた外階段はまるで牢獄のようにも見えるが、これは天国への階段だ。

 そう思うとなんとも心地がいい。いや、自殺したものは地獄に堕ちるものだったか。

 まあ、どちらでもいい。行った先が地獄でも、こことそう大差はないだろう。

 煌びやかに光る夜景。この一つ一つが社会の歯車によって作られた幻想だと気付いたのはいつの頃だったか。

「こんな街、壊れればいいのに……」

 そんなことを何度も夢想した。

 でも、現実はいつも変わってはくれない。

 変わってほしいのに、変えてほしいのに、この世界は私の味方になんてなってくれない。

 どれほどの呪詛を垂れ流しても、世界は変わってはくれない。

 あと少しでそんな絶望とお別れができる。

 引きちぎられた進入禁止のテープの張られた鉄扉(当然鍵も壊されている)を開けて屋上に立つ。

 冷たい風が吹き荒み、私の髪を煽る。

 随分と傷んだ髪だ。昔は綺麗な髪だと褒められたものだが、今となっては手入れもロクにできておらず、艶の無い枝毛だらけの髪になってしまった。

 さて、後はこの鉄柵を越えたら私の物語は終わりだ。

「……ほんと、ロクデナシ」

 遺言なんてものはない。

 遺すべき意思なんてものがあるのなら、それは生者への謝罪だ。

 私が死ぬことを誰に謝罪しろというのか。少なくとも私が死ぬことで心を痛める人がいるというのなら、そもそも私は死など選んではいない。

「おい、あんた死ぬつもりか?」

 どこからか声がした。

 強い風が吹いているというのに、その声ははっきりと聴こえた。

 振り向くとそこには肩に猫を乗せた青年がいた。

 ボサボサの髪。眠たげな眼でこちらを見る痩身の男は随分とガサツそうな男だった。

 ダメージジーンズにノースリーブのパーカーを着た男はサワークリームのポテトチップスの袋を片手に興味もなさそうにこちらを見ていた。

 こんなところに人がいることに私は驚いた。

 目を丸くしている私に男はこちらへと近づいてくる。

 男は私の首元に顔を寄せると臭いを嗅ぎ始めた。

「ちょ……!」

 私は男の顔を押しのけて男から距離を取る。

 戸惑っている私を他所に男は楽し気に笑い始めた。

「なんだよ、まだ死なないなら何しに来たんだ?」

 的外れなことを言い出す男に、私は顔が熱くなるのを感じた。

「な、私は……」

 死にに来たんだ。

 その言葉が出なかった。

 ”死ぬことはない、君はまだ己を知らぬだけなのだから”

 占い師の言葉が私の心の奥から聴こえた気がした。

「死ぬ奴は、もっと臭いんだ。アンタはいい匂いがする」

 私は首に手を当てる。今更恥ずかしくなった私は小さくなりたくて、その場に縮こまった。

 男の足の先が見える。それがこちらに近づいてくると男の影がすごく大きくなった。

 男の影を見ていると猫が彼の肩から降り、私の方へと近づいてきた。

 黒くて小さい猫。左耳には青いピアスがされている。猫は私の足元で寝転がると丸くなった。

「シストラムもアンタを気に入ったようだ」

 私は猫の背に触れた。随分と人懐っこい猫だ。

 こんなに生き物が暖かいことを私は知らなかった。

 猫を撫でていると男もしゃがみ込み、私の顔を覗き込んだ。

「ようやく笑ったな」

 この男はデリカシーという言葉を知らないようだ。

 私は膝の中に顔を隠した。

「あなた、不躾ってよく言われない?」

「ああ俺、親ってよくわかんないから、確かに躾はされてないな」

 そういう意味ではないのだが、この男には通じていないようだ。

 少し、可笑しく思えたが、死にに来たというのに何を笑っているのだろうか。

 さっさと死のう。このままではこの男に絆されてしまう。私は立ち上がると鉄柵の方に歩き始める。

 男はそんな私の腕を掴んだ。

「やめとけよ、アンタは死ねない。ただ痛みを知って苦しむだけだ」

 何を馬鹿なことを言っているのだろう。こんな高さから落ちて死なない人間がいるものか。

「あなたには関係ない。痛い方がマシなことだってあるの」

 一生、寝たきりなら、そっちの方がいい。病院ならばあの父親も私には手を出せないだろう。

 一生、動けなくなってもいい。今よりも酷い地獄が待っていたとしても、私はこの地獄に耐えられるほど強くない。

「……放して」

 今更、引き留められたくない。

 逃げようとしたら、その道すらも塞ぐなんて許せない。

「放してよ」

 今更、優しくなんてしてほしくない。

 誰も私を助けてなどくれないのに、命だけを救おうとするなんてズルいことが許せるはずがない。

「放してよ!」

 私の叫びが夜空に木霊する。

 男の手はそれでも私の腕を強く握っている。

 鈍い痛み。私はそれを受け入れたくなかった。

「放さねえよ」

 なんで、今更……。

 私の視界が滲んでいく。

 イヤ。こんな涙、流したくない……。

 私は彼の腕を振り払い、その場から逃げ出した。

「死ねなかった……」

 この日、どうやって帰ったか覚えていない。

 ただ一つ、私は生き延びてしまったことを後悔した。

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