こどもたちのたそがれ、おとなたちのかはたれ

磯崎愛

前――こどもたちのたそがれ

 この国にコドモタチがやってきたのは夕暮れ時のことだった。まっすぐな黒髪につぶらな瞳のコドモタチは温柔な笑みを湛えて関東ローム層の赤土のうえにおりたった。水掻きのある足裏が初めて踏んだのは、政府の用意した立川防災基地の一角であるとも高尾山の頂であるとも言われている。また、その数は十とも百とも伝えられている。ところが今に至るまで政府や東京都、各地の市町村の公式文書には日付とおおよその時刻しか記されていない。公文書改竄のあったこの国のことだ。さもありなんと納得するものもいた。

 ただし、民間によく広まった噂によればコドモタチはアスファルトやビル屋上のコンクリートなどでなく、土や岩のうえにおりたったとされている。言葉数のすくないコドモタチ自身からそう聞いたと話すものも多くいた。

 コドモタチは政府によって保護され、ひとりずつ各家庭に届けられた。それがコドモタチの願いであったと政府広報は告げていた。さらには、安全について充分であると高らかに喧伝されもした。

 まずは東京二十三区内の比較的裕福な家が選ばれた。つづいて都内の一般家庭、特に問題がないとわかると首都圏各地にもらわれていった。コドモタチの行き先は次第に増えて、全国津々浦々に広がっていった。そのうち貧困世帯と呼ばれるところにもコドモタチは行きわたり、独居世帯にも居場所を設けるよう指示があった。コドモタチを引き取ると「特別扶養」という名目で大幅に減税された。

 地域の絆だとか家族の繋がりだなどという言葉が声高に叫ばれて久しいころのことだ。そのころには百万にものぼるコドモタチがいたという。

 コドモタチはその愛らしい姿によって、瞬く間に受け入れられた。文字通り家族の鎹となった例もある。その容姿はこの国が世界に広めたKawaiiの見本のようだった。潤んだ大きな瞳が特徴的な顔は艶やかな黒髪に取り巻かれ、唇はぷっくりとして果実のように瑞々しかった。一見して違うのは、手足の指の股に水掻きがあるくらいのものだった。

 事実、一週間も経つとひととおりの言葉はおぼえ、個体差はあるもののその姿と似て、小学五六年生くらいの読み書きはできるようになった。誰にでもわかる簡単な単語をつかい、ひとのはなしを聞くのが得意のようだった。しかも、小賢しく口答えすることもなかった。いつもにこにこと微笑んでいた。大人たちの言いつけに背くこともなかった。コドモタチ同士の会話はいつまでたっても記録されることはなかったし、どうやってお互いにコミュニケーションをとっているのかはよくわからないままだった。それでも各々固有の名称は記録されたし名乗りもした。

 睡眠は充分に摂らなければならなかったが、食事はほとんど必要なかった。コップ一杯の牛乳と、少しの焼き菓子などあれば事足りた。十二時間ほど眠り、飴玉をひとつふたつ、くちのなかで転がしていればよかった。一週間くらいなら水も飲まずに暮らしていけた。あまり汗をかかず、人間のような排泄もなく、そのからだは乳臭いようなにおいがした。当時はコドモタチ専用の菓子開発で株価をあげた会社もあった。パッケージと売り方を変えただけの戦略だが、アイドルグループのヒット曲とともに当たったのだ。

 コドモタチは重いものを持ったり複雑な物事を任せたりするには力も知恵も足らないと判断されていた。政府がそう知らせてあったのに、そのうちひとびとはそれを忘れたようなふりをした。なにしろ賃金の支払われない〈影の仕事〉はいくらでもあった。しかも、介護支援型ロボットよりよほど安く、手に入りやすかったのだ。

 とはいえ、コドモタチに会社勤めをさせるわけにはいかなかったので、あいかわらず大人たちは通勤をつづけた。コドモタチは学校へはいかなかった。政府の用意した端末で勉強をすればよかった。この国とこの星の歴史を知りたいと望んでいた。コドモタチは博物館や美術館に無料で入れた。だから、その当初はあちこちでたくさんのコドモタチを見かけたのだ。図書館の本は保護者の許しがあれば借りることができた。

 政府の用意した端末の学習用アプリケーションソフトの歴史認識についてはだいぶ問題があるという抗議もあった。しかしながら事が急を要するため、はたまた日本国民の学校教育とは直接関わりのない事実とを取り上げて、政府はそれらを有耶無耶にした。癒着の疑いや他国からの抗議といったものもあるにはあった。後にこのことが教育基本法改定への足掛かりとなってしまったと指摘する識者もいた。

 こうした拙速極まる経緯から、コドモタチには試験も卒業もなかった。なんらかの資格取得もありえなかった。よって、そのうち勉強の時間はきちんと用意されなくなった。遊びの時間はもちろんいっとう最初にないものとされた。そうした杜撰な政府のやり方を批判する人権団体やフェミニストたちもたくさんいた。過去にも国連人権理事会の勧告を拒絶してきた政府なのだから、なんの不思議もない。じっさい、コドモタチが人間存在と同等であるのかどうか、科学者や哲学者といったひとびとはその始めからずっと討議を重ねつづけた。ともかくも、法律の上では「未成年」と同等の扱いをするよう決められていた。

 重ねて言うが、コドモタチを表立って働かせるのは法律に違反することだった。そのいっぽう、報酬を受け取ることのない家事労働といったものを請け負うのは当たり前とされた。

 コドモタチは当然のことながら車の免許がとれなかった。電車やバスやタクシーに乗ることはできても、運賃をじぶんで稼ぐか大人にもらわないといけなかった。遠くまで歩くにはからだがちいさかった。

 どうしてか理由は言わないものの、外国へ行くのをいやがった。無理やり連れていくとしゃべらなくなってしまった。人間でいうところの抑うつ状態に陥ると判明し、政府はコドモタチの渡航には厳重注意が必要な旨を言い渡した。

 そのせいか、迷子や置き去りになるコドモタチの報告が相次いだ。運よく警察に保護されたコドモタチはみな似通った姿をしていたせいで、引き取られる際に間違われることも多かった。そんなときでも、コドモタチは曖昧に微笑んで、間違えた相手を責めたりしなかった。

 コドモタチは文字通り成長しなかった。オトコでもオンナでもなかった。生殖能力のない、従順で、おとなしく、力の弱い、とてもかわいらしいものたちだった。

 きっと、コドモタチの「来日」前からペドフィリアという言葉が盛んに取り沙汰されていたはずだった。社会学者を自称するひとびとのあいだでは、援助交際やブルセラ、はては地下アイドルといった言葉と同じ文脈のなかでコドモタチが語られもした。

 そうやってコドモタチがひそかに売り買いされるようになったころ、生まれついた名前を呼ばれなくなった。コドモタチの名前を忘れずに呼び続けたのは、同じ子供たちだけだった。

 コドモタチと子供たちの交流はテレビドラマや映画にもなった。SNSで人気のあったコドモタチの写真つき記事が出版されてベストセラーになり、映像化されたのだ。ところが、記事をアップしていた無職の引き篭もり青年――ナリソコナイというHNだった――は自殺した。お涙頂戴のヤラセだの、コドモタチの売買に関わっていただのと噂されていた。また、コドモタチの「秘密」を知ってしまったから政府に暗殺されたとまくしたてるひともいた。事実として、出版や映像化の際に何らかの報酬トラブルがあって裁判になっていた。遺族が勝利したと伝える報道は少なかった。

 

 コドモタチがこの国にやってきて七年たった。

 二年前にはコドモタチを引き渡すよう幾つかの国がもちかけてきたのを断って、危うく戦争になるかとおもわれた。大人たちの一部はそれをしてコドモタチをもといた場所に返すべきだと大規模なデモを行った。とはいえコドモタチ自身が、生まれる前にどうしていたか覚えているもののいないように、何処から来たのかわからないと語った。でなければ、じっと空を眺めたり指をさしたりするものもいた。

 それに、大人たちはもう、コドモタチのいない暮らしが想像できなかった。「お手伝い法」というけったいな名前の法律ができて、コドモタチに数時間の賃労働が許されたのもそのころのことだった。

 コドモタチの手足には薔薇色の、うっすらと透ける水掻きがあった。過剰労働や睡眠不足になるとそこが切れやすくなり、水っぽいぬるぬるした液体を流していた。自然に治癒すると、複雑な模様の薔薇色のレースが幾重にも折り畳まれたようになった。それを切り取って集める変質者があらわれて町中が騒然となったこともある。両手両足の水掻き全部をあわせてもマスク程の大きさにもならないものなのに、それは高値で取引されたそうだ。一年くらいだっただろうか、お守りだのラッキーアイテムだのとうたわれてテレビ等で宣伝されたのは。コドモタチを気色悪いと遠巻きにしたひとびとの反撥もあって、すぐに廃れた。

 恐らくは、ちょうどそのころに起きた猟奇的なカルト事件のせいもあったに違いない。コドモタチをインスマウスと称し、古代都市ルルイエを解放するために遣わされたものだという狂信集団があらわれた。サブカルチャーを真に受けた変質者たちによって何人ものコドモタチが連れ去られたのだ。

 その事件で知れ渡ったことだが、コドモタチはばらばらに切り刻まれても、ある程度まで元の姿を回復した。そうなると、たいていは動けなくなったり読み書きができなくなってしまったりもした。それでも消滅することがなかった。そういう状態でも、コドモタチ同士では意思の疎通がとれるようだった。街のあちこちに寝ころんだままのコドモタチが増えたのは三年たったころだっただろうか。

 空き家や町の一角に身動きができなくなったコドモタチの集会所のようなものができはじめ、それを支援する大人たちもあらわれた。コドモタチは物乞いをすることはあっても盗みはしなかった。およそ暴力的な物事を好まなかった。置かれている状況に対して大きな声をあげることもなく、じっとつぶらな瞳で大人たちを見つめた。青みを帯びた白目が透き通るようなその眼で見あげられると、たいていの大人は懐から幾ばくかの金銭を取り出した。引き取られたものもいたが、しばらくするとまた同じ場所で物乞いをしていた。

 病院にはかかれなかった。ちがう星のものなのだから当然だ。保険などありはしないので、こころある大人たちや子供たちの願いで連れてこられたものは、かすかな微笑みを浮かべてそれに感謝した。言葉を話せないくらい弱ってしまっても、助けてくれたものたちの顔はいつまでも忘れないようだった。犬のように足音でもわかるらしく、恩人が彼らの前を通りすがると這ってでも顔を見たがった。

 棲む場所を失ったコドモタチはお金や食べ物や服をくれた相手へ御礼に水掻きを切り取って渡すことはよくあった。いつも乾いた手がそのときばかりは濡れていた。半透明でねばついた液体は甘酸っぱいような、そうでなければ潮のにおいがした。乾くと黄色っぽくなるそれを飲むと長生きできると信じる頭のおかしいひともいた。むろん科学的にはそんなことは証明されなかった。害はないということだけは政府から報告があった。

 

 それはちょうどコドモタチがこの国におりたって七年と一週間経った夕昏のことだ。

 コドモタチは、子供たちと手を取り合って元いた星に去っていった。遠くへ歩いていくこともできないくらいか弱かったコドモタチがどうやって重力に逆らって旅立てたのかはわからない。そもそもおりてくるのだって大変だったはずだ。だからあれは、政府が用意した人造人間だという与太話もあった。むろん、今のこの国に切り刻んでも死なない知性ある生き物を創造できるだけの科学技術はない。それに、コドモタチの「一部」すら、この地上には残されることはなかった。どこかの大学の研究室に保管されていたコドモタチについての資料もなくなっていた。ただその「水掻き」だけは贈り物として消えなかった。

 とにもかくにも、コドモタチはもうこの国にいない。しかも貴重な子供たちをたくさん連れて行ってしまった。人手不足の深刻化は進み、この国の衰退はいっそうあらわになった。若年層の自死よりも高年齢層のそれが上回ったのは、この国の構造的歪みのせいもあった。さらにはコドモタチがいなくなってすぐに、最大三十万人にも上る死者が予想される南海トラフ地震警戒情報が更新された。

 逃げ出せるものは逃げたらいい。

 沈みいくこの国で、それでも生きていかなければならないものたちもいる。

 だからこれは、かつて子供だったわたしが置いていかれた物語だ。

 あれから何年も経ってわたしはあの子の名前を忘れてしまったけれど、べつのひととどうにかこうにか暮らしている。

 子供はいない。

 欲しくもない。

 あの子をうちに連れ帰ることすらできなかったわたしには手に余る。

 それなのに、綺麗な模様の花びらみたいな薄紅の膜だけが、くるりと巻いた絆創膏のように薬指にある。

 

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