ふわり春風

丹風 雅

ふわり春風

 ベッドの上でぼんやりと窓を眺める少年の眼は、晴れた空を映して青かった。春風が吹いて髪を柔らかく揺らした。扉が開く。入ってきた少女の服は、四月を流れる風のような淡い緑と白だった。それを見て、少年は悲しそうに笑った。


「外を見てご覧。あれがすべて散ったとき、僕は君とお別れだ」


 儚げな目を外へ送ると、大島桜が大きく立っていた。花は散って、緑の頭がそよいでいる。命の力強さをこれでもかと誇っているようだった。


「……せめて花だったら絵になったんだけど」

「まだまだ元気そうですね」

「こんな気持ちじゃないと思うんだよなあ」


 不満げにふくらませた頬を、少女が冷ややかに見ていた。

 不治の病の女の話。少年が書こうとしているのは病気の心だった。彼は一度も大病の経験がないから女の心が分からない。こうしてベッドに寝て過ごすことさえ稀だった。


「もっと書きやすい話でもいいんですよ」

「いやあ、見ちゃったからね」


 あの日は桜の薄白が散り始めていた。少年が花を見上げたときに、病院の窓と目があった。瞳は黒々としていた。そして彼の中に物語が注がれたのだ。


 人の物語を読み取ること、その力が彼にペンを握らせている。今まではそれを写し取るだけで十分だった。

 この物語は、最後まで書いても納得できなかった。事実を並べて女が死ぬとも生きるとも、それが宙に浮いた飾りのように感じられた。心が足りないと思った。


「死ぬって、どんな気持ちかな」


 寝る前に、このまま目が覚めなかったらどうしようと考えたことがある。その時は漠然とした不安が土埃の舞うようだったが、しかし女の心は違うと彼は思った。もっと湿って重いものに違いなかった。

 素朴な口調で少女が言った。


「気持ちって、言葉にできるんですかね。私が悲しいって言うのと、その病気の人が悲しいって言うのと、同じ気持ちでしょうか」

「それは……違うだろうね」

「死ぬことって悲しいんでしょうか。だとしたら、何が悲しいんですか」

「自分がいなくなるのが悲しいのかな。やりたい事をやれないままになるから」

「やりたくても出来なかった経験、したことありますか」

「いっぱいあるさ。一番は……失恋」


 少女との問答は掃除のようだった。頭に溜まった乱雑をより分けて、綺麗に積み直していくのは良い気持ちだった。


 自分の失恋が死の心だとは思わなかったが、同じものがあると思った。二人は問答を重ねた。気持ちの言葉が積まれていった。


 ――扉が開く。女はベッドに身体を横たえて、少年が入るのを伏し目がちに見た。彼は封筒を渡して、読んでほしいと頼んだ。誰かの手紙を代わりに運んできたのだと思って、女は了承した。


 封筒の物語では、女は死ななかった。しかし病気が治ってもいなかった。女の心を代弁するのでなく、彼は自分の心を自分の言葉で連ねた。それが女を共感させた。


 物語を読み終えたとき、病室に少年の姿はなかった。女は今の自分の心を手紙に書いた。窓を見て、黒の深い瞳に空の色が光った。


 桜が散って緑が鮮やかになると、少年は毎年悲しくなる。春の風は暖かくて、少しだけ湿っていた。

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ふわり春風 丹風 雅 @tomosige

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