第19話 岩の城は砂の城

 馬車は深い森を抜け、土の剥き出しになった道に停まっている。数十メートルも走れば舗装された道に出るのだが、馬車がそこに停まってから一時間は経つ。


 もうすぐ夜明けだ。暗い夜の帳を降ろし、明るい太陽が顔を見せるはずだった。


「本当にお身体は大丈夫ですか?」


 淡い黄色や桃色、淡い青色など様々な色を組み合わせたパステルカラーのドレスに身を包んだティーナは頬杖を突いて馬車の中から外を見ていたが、視線だけを向かいに向けた。今にも泣きそうな顔でララが行儀よく手を揃えて座っている。


「そんな顔をしないで、ララ。……極力レリアンを手伝い、彼に気づかれないよう食事に毒を多く入れてほしいと頼んだのはわたくしよ。ちゃんと遂行してくれたララのおかげで彼らの心を大きく揺さぶり、信頼を得ることが出来たわ。貴方が責任を負う必要は全くないのよ」


「しかしっ」


 ティーナは優しく微笑んで唇に人差し指をつけた。それ以上は何も言うなということである。ララは喉から出かかった言葉を何とか飲み込み、唇を噛んだ。それを確認したティーナは口の端を上げて笑い、再び窓の外へ視線を投げた。


 しばらく馬車の中には沈黙が降りた。その沈黙を破ったのはララだった。


「……今頃あの中では決着がついているのではありませんか?」


 探るように緑色の瞳を向ける。


「何かしらの区切りにはなるでしょうね。けれど、これはそんなに甘い話ではないと思うのよ」


 ティーナの物言いにララは眉をひそめた。


「今回の作戦であのけだもの男を殺そうとした人物が分かりますよね? そして、ティーナ様はけだもの男の影武者を殺した人物を知っていらっしゃる。それで解決するのではないですか?」


「さぁどうかしらね。そんなに簡単に全てが終わるなら、あの人はずっとあんなところに閉じ込められていないとわたくしは思うわ。……あの方は、あそこを出なければ安全なのよ。いつか崩れる砂の城でも、城は城なの。お互いを信頼していないぶん、お互いにけん制し合ってあの城の中では誰も殺せない。だからこそ、彼はずっと生きてこられたのよ」


 目を上げる。


 ティーナの目には森の木々の中から突き出している山が映っている。黒い岩でできた岩山である。二時間ほど前にティーナはあの岩山から出て来た。


 ルフェールの隠れていたところは建物ではなく、山を切り抜いて作られた空間であった。それも、かつて大戦があった時代に捕虜や囚人の収容場所として作られたものだった。


 ティーナは目を細めた。空の裾の色が変わり始め、岩山の輪郭が浮かび上がって来た。


 もうすぐ朝陽が差すだろう。そうすればこの真っ暗闇の岩山にも多少なりとも光が入るはずだった。


 岩山の中は暗く、沈黙している。全ての灯りは消され、ほとんど真っ暗闇の中、衣擦れの音がしなければ何かが軋む音もしない。全てが岩で出来ているのだから当たり前である。


 ルフェールは物心つく頃からこの暗く冷たい城の中で過ごした。


 理由は知らない。悪魔のような容姿で生まれてきた彼を蔑んだ母親や、人々の目から隠すためだったのか、それともただ守るためだったのかは先代国王だった人に聞かねば分からない。


 ルフェールには何の感情もなかった。ルフェールはどうしてこんなところに、とは思わなかったのである。ただここに入れられることを素直に享受し、ここで一人過ごすことを享受した。何が楽しいことで何がつまらないことなのか理解する前にこうなったからかもしれず、また、こんなところにいても望めば何でも手に入ることも、彼の性格形成に大きく関わっているのかもしれなかった。


 食べ物も服も召使いも、何もしなくても上等なものを手に入れられた。それだからか、ルフェールは誰かに何かの恨みを抱くことなくただ生きてきた。いや、生きてきたというのは語弊があるかもしれない。ルフェールはただ、息をして、息をして、息をして……時を過ごしただけにすぎなかった。


 それはなんてつまらないことだったんだろう。


 今ならそう思える。ティーナと過ごした短い時間があまりにも楽しくて、それまでの人生が意味のないものだったことを知ってしまった。


 受け入れるだけの人生はつまらない。自ら何かをしなければ、この世界はただの風景として、自分は何も得られないまま終わってしまう。


 もしティーナに会えず、一生をこの閉じられた世界で無気力に生きていたら、死ぬ時になって思うのだろう。


 自分はこの世界で生きて何をしたんだろう。


 自分はこの世界で生きて何がしたかったんだろう。


 と。もしかしたらそれさえも思わず、ただ息をしなくなるだけなのかもしれなかった。


カン、カラララ……


 岩肌で何かが跳ねて転がってきた。


 松明だった。煌々と燃える松明が暗い世界を明るく照らしていた。


 ルフェールはベッドに寝そべらせていた身体を起こし、立てかけてあった剣を持って牢の扉を開けて出て来た。


 眩しくて思わず目を細めた。円形の広場の壁にある全てのランプに火が入っている。そしてその中心には男が立っていた。黒い長い髪をして、黒い衣装に身を包み、右手に剣を持った男である。影が四方に伸び、光が彼に集まっているように見える。


 ルフェールは戸惑うことなくいつもより明るい広場に出た。眩しくて目がチカチカするけれど、しっかり開いて男の前に立った。


「来ると思ったよ。必ずやってくると思って、待っていたんだ」


 笑ってみせる。黒い男は冷たい表情だった。


「貴様と話をするつもりはない」


「どうして?」


 首を傾げてみせる。黒い男は赤い瞳をギラリと光らせ、ルフェールを睨んだ。


「貴様はここで俺に殺され、死ぬからだ。貴様は死人と同じよ。私には死人と交わす言葉などない」


 黒い男は床を蹴り、斬りかかってきた。ルフェールは一撃を剣ではじき、斬り返しも防ぎ、三撃目を胸の前で真横に構えた剣で受けきった。


 キリキリキリ……という、力の拮抗する音がする。


「君に殺されるつもりはないよ。今も昔もね」


 男がほんの少しだけ眉を上げた。


「昔は死にたい理由が無かっただけだったけれど、今は生きたい理由があるんだ」


 キン、という音を立てて黒い男が下がった。男は何も言わずにもう一度剣を構え、機会をうかがった。


 ルフェールも剣を構えた。足を擦るように動かし、反時計回りに移動する。すると黒い男も同じように動いた。


じりじりじりじり……ざりっ


 再び黒い男が飛びついてきた。先ほどよりも強く刃と刃がぶつかり合う音がしてルフェールの身体が押され、男の身体が少しだけ跳ね返った。それでも男はひるまず二撃目を与えた。


ビッ


 切っ先がルフェールの服を裂く。ルフェールは床を後ろに蹴って距離を取ろうとしたが、男に詰められた。


 振り上げられた剣がルフェールの身体に振り下ろされる。


ギィンッ


「!」


 男が振り下ろした刃に何かが当たり、軌道が大きく逸れた。ルフェールの左肩から右脇腹を裂こうとしていた刃は彼の左腕を軽く傷つけただけだった。


 男は咄嗟に己の剣を邪魔したものを目で追った。


 床に包丁が転がっていた。


「……!」


 睨んでいると気配を感じ、男は床を蹴って後ろに逃げた。すると男が今まで立っていた場所に包丁が突き刺さった。岩肌に突き刺さったのである。

だんっ


「わ!」


 今度は上から男が降って来た。


 ルフェールはよろめいて尻餅をついた。そのルフェールの前で、大柄な男が右手に肉切り包丁を構えて黒い男を睨みつけていた。


 黒髪で、青い目の男。ジョックスであった。


「どーも。姫様の命令で助太刀に来ましたよー」


 ジョックスは口の端を上げてにやりと笑った。笑っているが気を抜いているわけではない。これは獲物を前にした時の舌なめずりのようなものであった。


 男は眼光を鋭くし、体勢を整えて剣を構え直した。ジョックスはハッと全ての空気を吐き出すように笑った。


「てめぇ、あん時のやつじゃねぇか。こいつを殺すの失敗したからまた来たのか?」


 頭の先から足先まで真っ黒な男のことをジョックスは知っていた。舞踏会の夜に捕まえられなかった、あの怪しい男だ。


「あん時は逃げられたが……今度は逃がさねぇ!」


 ジョックスは右手に持った包丁を横に薙ぎ払った。


ビュンッ


 風を裂く物凄い音がした。


 男は半歩下がってそれを避け、ジョックスが上から斬り返してきた包丁を構えた剣で受けた。


「っ!」


 腕がびぃんと震えた。凄まじい力だ。常人が片手で出せる力を越えている。両手でだってこんなにも強く叩けない。


 男は思わずツーステップで横に逃げ、右手を剣から離してしびれをとろうと振った。しかしそこへすかさずジョックスが踏み込んで来て刃を振り下ろしたので、急いで構えて受けた。


 指に嫌な感覚がした。


「ちっ」


 男は舌打ちし、体勢を立て直すつもりで距離を取ろうとした。しかしジョックスが許さない。怒涛のように右から左から刃を突き立て、その隙を与えない。


「! くっ!」


 武器は肉切り包丁で型も技術もへったくれもなく、常軌を逸脱しているが、まるで反撃する隙が無い。男はどんどん壁際に追い詰められていった。


「姫様にゃ殺さなきゃ良いって言われてんだ。その腕、足の一本くらいもらっても良いよなぁ!」


 ギラッと獣のような青い目が光った。男が構えた刃を避けて切っ先が腕を裂き、胸を裂く。致命傷には至らない傷だが、みるみるうちに男は傷だらけになっていく。


「この野獣め!」


「おらぁっ!」


 ジョックスが大きく包丁を振った瞬間、男が身を低くした。


ガギンッ


「おっ!?」


 剛力の所為で刃が岩の壁に埋まった。猛襲が止まる。機を狙っていた男はここぞとばかりにジョックスの左脇腹に刃を突き立てた。


ガッ


 しかし男の刃は別の物に防がれてしまった。ジョックスが咄嗟に腰から抜いた果物ナイフで防いだのである。


 ハッとして目を上げると、にやりと笑った顔が見えた。


「おらよ!」


 壁に刺さった包丁を捨て、ジョックスもう一本の果物ナイフを抜いて男の太ももを真横に切りつけた。裂かれた皮膚から血が噴き出し、男は上体を下げてその場に倒れ込むように転がった。


 床に膝と手を突いて燃えるような赤い瞳でジョックスを睨み上げる。


 ジョックスは両手に持った果物ナイフを構え、冷たい表情で威嚇してみせた。


 男は舌打ちし、立ち上がりざまにルフェールを睨んで通路に駆け込んでいった。通路の先はあの迷路だ。


 ジョックスは無言で男を見送った。ティーナには追うなと言われている。第一に優先すべきことはルフェールの命で、彼から離れるなという指示を受けているのであった。


 果物ナイフを腰に戻し、あの男が置いていった剣を拾ったジョックスはルフェールの前に立った。ルフェールは赤い瞳でジョックスを見上げる。


「あいつが誰か知ってるか?」


「知っているよ。私自身……いや、亡霊、だろうか。この場合、私の方が亡霊なのだけれど」


 ルフェールはよく分からないことを言ったのでジョックスは眉を寄せて聞き流すことにした。こういう訳の分からないことを言うところが少しティーナに似ている気がする。


「ふぅん。ま、生きてて良かったな。てめぇにゃいろいろ物申したいことがあるが、姫様が水に流せって言ったからとりあえず忘れてやる。大丈夫か?」


 手を伸ばし、尻餅をついたままだったルフェールの腕を掴んで引っ張ってやる。ルフェールは立ち上がったが、ジョックスの腕を持って体重を預けていた。


「ティーナの指示なのかい?」


 ジョックスは頷いた。


「あぁ。てめぇを助けろって。たぶん姫様が使ってた牢にいるだろうから、助けに行って来いってな」


「そう。……こういう時にお礼を言うべきなんだろうね。ありがとう」


 ジョックスは「姫様に言っとく」と穏やかな表情をしたが、ルフェールの「ついでにもう一つ頼まれてくれるかい?」という言葉で表情を引き締めた。


「上まで行くのに手を貸して欲しい。先ほど貴方が降りてきた時に足をひねってしまってね。一人で歩けそうもないんだ」


 にこりと笑って見せるルフェールに、ジョックスは全ての気が抜けた気分で大きくため息を吐いた。


「お前、よく生きてたなぁ」


 それからジョックスはルフェールの身体を半分支えながら歩いた。広場の壁にかかっていたランプを取り、先を照らして階段を登っていった。そして一つ目の脇道に入って右に進んで五番目の扉の前で止まった。全てルフェールの指示である。


「この部屋は?」


「ダリアの部屋だよ」


 その部屋の名に聞き覚えがあったが、いまいち思い出せなかったのでジョックスは黙った。


「開けてくれ」


 言われてジョックスはノブをひねった。扉が開く。鍵はかかっていなかった。


 ゆっくりと扉を引っ張る。真っ暗な部屋の中を、持っていたランプで照らした。


「なっ!? なんだこれ!?」


 ジョックスは思わず驚いた声を出した。


 部屋の中には目立たない黒い服を着た人間が何人かが転がっていた。見たこともない人間たちだ。そいつらは皆、動かず、床に突っ伏して、沈黙している。ジョックスには全員死んでいることが分かった。


「こいつらは、一体……」


「入らない方が良い」


 踏み入れようとしたジョックスをルフェールが止める。ジョックスが眉を寄せて訝しげな顔をルフェールに見せた。


「無臭の毒を部屋の中に充満させてある。いくら貴方でも入ったら死んでしまうよ。眠るように死にたいのなら、入ると良い」


 ジョックスは表情を強張らせた。


「お前……綺麗な顔してえげつねぇことするな」


「顔は関係あるのかい?」


「ねぇけど」


 そんな妙に緊張感のない会話をしてから、ルフェールは「次のところへ行こう」と踵を返した。ジョックスは扉を閉じ、ルフェールを支えながら再び階段を登って彼の言う通りの部屋までやってきた。


 銀の部屋だと、ルフェールは言った。


 そこにも死体は転がっていた。先ほどと同じように、無臭の毒にやられた人間たちの死体が横たわっていたのである。


 最後の部屋は青の部屋だった。やはりその部屋にも死体は転がっていた。どの部屋の死体も似たような格好をしていたが、完全に同じではないことにジョックスは気づいていた。


 三つの部屋で黒装束の人物たちが死んでいた。


 これがどういうことなのかはジョックスにも分かる。あまりにも恐ろしい事実に、ジョックスは声を出せなかった。


「うん。そんな気がしていたから驚くことはないけれど、かえって問題が増えた気がする」


 声を出せないジョックスとは違って、ルフェールは淡々と呟くのだった。


「ここまででいい。後は自分で何とかするよ」


 ルフェールはジョックスから身体を離し、自分で立った。片足だが、随分バランス良く立っている。先ほどの剣捌きも悪くなかったのでそれなりに運動神経は良いようだった。


「じゃ、俺は姫様に合流する。それじゃーな」


 ジョックスはひらと手を振り、大きく一歩を踏み出した。


「あ」


 しかし何かを思い出して止まり、ルフェールを振り返った。ルフェールは小首を傾げてジョックスを見上げている。


「姫様からの伝言、忘れるとこだった。姫様そのままの言葉で言うぞ。『おめでとうルフェール。砂のお城が崩れて良かったわね。今度はちゃんと岩のお城に住めるよう頑張りなさい。貴方のお城が完成したら、是非お茶会に招待してね。お友だちとして出席するわ。あぁそうそう、銀の剣は捨てない方が良いわよ』だそうで」


 ジョックスはティーナが託した言葉の半分も理解していない。とりあえずティーナが覚えろと言ったから長い文章を覚え、ルフェールに伝えるよう言われたので伝えただけである。それでもルフェールは何か分かったらしく、わざとらしく作った笑みではない本物の笑顔で笑ったのだった。


「そう。ティーナは全てお見通しなんだね。やっぱり嫌だなぁ。ティーナが欲しい。ずっと傍にいて欲しい。ティーナに彼女の一番欲しいものをあげようとしたのだけれど、あげられないな。手を打っておいて良かった」


 ジョックスは眉を寄せた。


 ティーナの一番欲しいもの? ジョックスにもティーナの一番欲しいものが分からないのに、ルフェールはそれをあげようとしたのか? それに手を打ったとはどういうことだ?


 ジョックスの中にいくつも疑問符が浮かび上がるが、いくら考えても答えは出そうになかった。


「ねぇ、えっと……貴方の名前は何だっけ」


「ジョックスだ」


「そう、ジョックス。ティーナに伝言を頼めるかい?」


「手短にな」


 それからルフェールが話したことはジョックスには理解できなかった。

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