第17話 色鮮やかな世界

 この日もまた早朝だった。


 ティーナは身体の違和感で目を覚ました。身体を軽く拘束されているような感覚がする。案の定、頭を上げると胸の上に白くて丸いものが乗っていた。


「……貴方は何をしているのよ」


「柔らかくて気持ちが良いから寝ているんだ」


バシッ


「痛い」


 ティーナは渾身の力で白い頭を叩いてやった。ルフェールがゆっくりと顔を上げる。


「そんなことのためだけに来たのなら人を呼ぶわよ」


「呼んでも来ないよ」


「大声で暴れれば別よ。誰かが飛んで来てくれるわ」


「打ち合わせ済みなのかい?」


「そういうことよ」


 ルフェールはそう、と小さく呟いてティーナから離れてベッドに座った。その素直な態度に何か用があって来たのだと察したティーナも身体を起こした。


「何の用なの?」


「ティーナは皆の信頼を得られたようだね。連日彼らがティーナを訪ねていることは知っているよ。それぞれ贈り物もしているようだ。ティーナはどれが一番好み?」


 ルフェールは花で溢れかえった部屋の中を一瞥した。ティーナは小さく口を開いたが何も言わずに閉じた。


「それともティーナには一番なんてないのかな? 貴方の一番欲しいものがあげられれば、貴方は私のものになる?」


「貴方のものになんてならないわ」


 きっぱり言うと、ルフェールはふっと笑った。


「そう。貴方は真っ直ぐな目と同じように心も固いね」


 それからルフェールは「話を変えよう」と言って続けた。


「もう一つのお願いの話しだよ。ここではすぐに彼らが戻ってくるだろうから、場所を変えようか。私についてきてくれるかい?」


 ティーナはこくりと頷いた。部屋の中には明かりがついておらず、朝の柔らかな光が漏れて入ってきているだけだが、ルフェールには見えていると思ったからだった。


 予想通り、彼には見えたのだろう。ルフェールはゆっくりと立ち上がり、扉の方へ歩いて行った。ティーナもベッドから降りて後ろにつき、二人は部屋を出た。


 ルフェールは真っ暗な廊下を滑るように移動し、つきあたりで立ち止まった。慎重に歩いてきたティーナが隣に並ぶ。ルフェールは後方を振り返り、誰もいないことを確認してから岩の壁に掌をつけた。


 ルフェールが力を込めると岩の壁が下がった。ティーナが驚いている間にルフェールは壁を横に滑らせた。すると二メートル四方の小さな空間が現れた。


 先に行くよう促され、ティーナは隙間に身体を滑り込ませて空間の中に入った。そして次の一歩が踏み出せないことに気づく。暗くて分からなかったのだが、床はほんの五十センチほどしかなく、あとは穴になっていた。覗き込んでみても底が見えない。見上げてみても何も見えない。そもそも灯りがひとつもないのでどこから穴になっているのかさえ分からないくらいだった。


 ルフェールが岩の壁を元に戻してしまうとティーナの目には何も見えなくなった。上も下も右も左も真っ暗闇だ。不安で鳥肌が立った。


「私しか知らない秘密の通路だ」


 ルフェールの声が岩肌に反響している。後ろからするような、前からするような……不思議な感覚がする。


「穴の壁にはおうとつがある。足をかければ登ったり降りたりできるよ」


「こんなところ、わたくしには無理よ。登るのも降りるのも出来ないわ。他の行き方はないの?」


「ないよ。ここからしか行けないところなんだ。だから登ってもらわないといけない。……私の背に掴まるかい?」


「そうさせてもらうわ」


 ティーナは手を動かしてルフェールを探した。するとルフェールは「ここだよ」と言ってティーナの手を掴み、腕を腰に回させた。腕の中でルフェールが腰を落とす。ティーナは顔に当たったルフェールの髪を避けてから首に腕を回してぶら下がった。


 冷たい夜の匂いがした。ルフェールの匂いだ。


「では、登っていくよ」


 ルフェールはそう言って壁をするすると登り始めた。故意か偶然か壁に出来ている小さなおうとつに指と足先を引っ掛け、慣れた様子で上がっていく。小柄とはいえティーナが背中にくっついているのに身軽だ。


 そういえば結構筋肉質な身体をしていた、と風呂で会った時のことを思い出しながら、ティーナは足にも力を入れて落ちないようにした。


「ねぇ、ルフェール。貴方、いつもこんな道を行き来しているの?」


「そう。皆が使う道はあまり使わない」


 どうりで夜目がきくはずだとティーナは思った。灯り一つないこんな暗いところを行き来していたら嫌でも目が慣れる。


「見えないとどこにいるのか分からないんじゃない?」


「慣れればなんとなく見えるようになるよ。それから歩幅でどれくらい移動したか分かる。隠し通路はどこも一直線だから迷うことはない」


「そうなの」


 歩幅を揃えて静かに歩く癖がついているから幽霊のように見えるのかもしれない。気配が限りなく薄いのも、誰にも知られていない道を密かに移動しているからなのかもしれなかった。


 それから十分くらい登ったところでルフェールは床に足をつけてティーナを降ろした。


「着いたよ。……私の、唯一のお気に入りの場所だ」


 言いながらルフェールは目の前の岩の壁を横に滑らせた。


 瞬間、閃光が暗闇に走った。ティーナは思わず目を閉じ、手を顔の前に出して顔を背けた。


 温かい陽の光を感じる。これは陽光だろうか。


 思いながらティーナはゆっくりと目を開けた。


「わぁ!」


 鮮やかな色が目に飛び込んできた。真っ青な空に白い雲。緑の葉の中に山吹色や躑躅色の花が斑に色づいており、優しい風に揺れている。


 花畑だった。それも随分と空が近い。


「とっても素敵! 綺麗だわ!」


 ティーナは駆け出した。


 花畑は広くなかった。少し走ればすぐ崖に行きついて、眼下に深い緑色の木々が茂っているのが見えた。遠くの方に町も見える。


 ティーナはめいっぱい深呼吸して空気を吸い込んだ。朝の香のする、意識が冴えるすがすがしい空気。空は高く、取り囲むものは何もない。こんなにも開放的な気分になるのは久しぶりだった。村にいたときでさえあまりない。身体が軽くなった気もする。


「気に入った?」


 振り向くとルフェールが立っていた。ティーナの心臓がドキリと震えた。


 ルフェールは言葉を失うほど美しかった。


 朝陽を反射した白い長髪を風がさらい、キラキラ輝いてみえる。光が色の白い肌を透かしていて、溶けて消えてしまいそうなくらい儚げだ。けれども真っ赤な瞳だけが強くティーナを見つめている。一枚の絵画を見ているようだった。


「……貴方、太陽の下にいる方が似合うわね」


 呟くとルフェールはそうかな、と首を傾げた。ティーナはそうよと言ってルフェールの傍まで来ると地面に座った。ルフェールもその場に腰を下ろした。


「このお花畑はルフェールのものなの?」


 ティーナは周りの花を摘んでいく。


「そう。ここを用意してくれた人が、これもくれた」


 ルフェールはティーナの手元を見ながら答えた。


「貴方のお祖父さんね」


「うん。あの人は私に何でも与えてくれて、何でもしてくれる。……でも、嬉しかったのはこれだけだ。これをくれたのが、唯一嬉しかった。今なら、それが分かる」


「今までは分からなかったの?」


 ティーナが顔を上げると、ルフェールはこくりと頷いた。


「分からなかった。ここに初めて来た時、何かを感じたけれどその時の私にはその感情に名をつけることが出来なかった。それから、ここに来た時に湧く感情にも。……誰も教えてくれなかったから。けれどティーナに会って、それが嬉しいという気持ちだと分かったんだ」


 ルフェールは花畑に視線を移した。


 冷気をはらんだ優しい風が草花を揺らしている。明るく、空気は澄んでいて、鮮やかで、周りを囲むものは何もない。


 岩に囲まれた暗い世界とは大違いだ。


 目を閉じるのが勿体なくて、瞬きさえも惜しみ、この美しい世界をずっと見つめていたくなる。けれども闇に慣れたルフェールの目は長く明るいものを見ていられない。もう、目が痺れるくらいに痛い。


 ルフェールはそっと目を閉じた。目を閉じても匂いが教えてくれる。頬を撫でる風が教えてくれる。それから、


「気持ちがいいわね、ルフェール」


 今日はティーナがいる。ティーナのころころとした笑い声が聞こえる。


 ルフェールは目を閉じたまま顔をティーナのいる方へ向けて目を開いた。


「出来たわ」


 にっこりと、ティーナが花のような笑顔で笑っていた。輝いて見えるのは太陽に照らされているからだろうか。


「ティーナは太陽が似合うね」


「当然よ」


 ティーナは膝立ちになって手に持っていたものをルフェールの頭の上に乗せた。ルフェールは頭に乗っている物を見上げ、手で確認した。


「これは何?」


「花冠よ。幼い頃にお母様が編んでくれたのを覚えていたの。……結構似合うじゃないの」


 白い頭の上に色とりどりの花で作られた花冠が乗っている。ルフェールの人間離れした容姿もあいまって、随分美しい仕上がりとなった。


「冠か……。私に、似合うのだろうか」


「えぇ。似合うわよ」


「ティーナが言うのなら、似合うのかもしれないね」


 ルフェールは躑躅色の花を摘んだ。


「……皆は私をどうしたいのだろう。私はどうあるべきなのだろうか」


 花を手の中で弄びながらルフェールは呟いた。ティーナへの問いではない。それが分かっていたから、ティーナは問いに問いで返した。


「ルフェールはどうしたいの?」


「どうも。私は何もしない代わりに何も望まない。皆が私に望めば私はそれを返さなければならないけれど、このまま一人でいるのなら皆が私に望むことは何一つとしてないだろう。……私はこの世に存在していないものだからね」


 花を持った手にティーナの手が添えられた。


「そんなことないわ。貴方は一人でもちゃんと生きているじゃないのルフェール。貴方は無関心で無気力でどうしようもなく世間知らずだけれど、まだ遅くないわ。これからやりたいことを見つければいいのよ。……どうしてもと言うなら、わたくしだって手伝ってあげなくもないわ」


 白い指先がティーナの手を取った。


「言ったね。私の傍にいてくれるんだね、ティーナ」


 ティーナは一度目を大きくしてからじっとりとルフェールを睨み、口を尖らせた。


「騙したの? わたくしは手伝ってあげなくもないと言っただけよ。手伝うなんて言っていないし、傍にいるなんて一言も言っていないわ」


「私が唯一望むとしたら貴方だよティーナ。私はティーナさえ手に入ればそれでいい」


 穏やかに笑うルフェール。ルフェールの手に乗せられたティーナの薬指にはいつの間にか花輪が通されていた。ティーナは無言で自分の左手の薬指に咲く花を見つめてから、ルフェールに視線を移した。


「……ここにわたくしを連れてきたのは、最後のお願いをするためでしょう?」


 ルフェールは微笑んだ。


「……そうだよ」


 それから一拍置いて続けた。


「一つ目のお願いを叶えてくれたから、もう一つのお願いをするよ。三日後、彼らに私が寝ている場所を教えてあげてほしい。セロにはダリアの部屋、ガ―ウィンには銀の部屋、ベルには青の部屋にいると伝えて」


「陽動作戦ということね。分かったわ。それだけで大丈夫なの? ちゃんと動くかしら」


「動かざるを得ない状況にする。その他のことも私が上手くやるよ。貴方には危険が及ばないようにする。もう私が貴女を傷つけることはないから安心してほしい」


「ありがとう。……幸運を祈るわ」


「そうして」


「それじゃぁわたくしのお願いを言うわね」


 それまですぐに返事をしていたルフェールが口を閉じた。


「聞かなきゃだめ?」


 首を傾げるルフェール。ティーナは「そういう約束でしょう?」と口を尖らせた。


「わたくしのお願いは一つだけよ。役目が終わったらここから出して無事に帰らせてちょうだい。もちろん、ジョックスやララも」


 形の良い唇は沈黙している。ティーナはむっとした顔をした。


「すねないで。外でも会ってあげるわよ。お友だちとしてね」


「友だちは嫌だ」


「貴方しつこいわね」


 ティーナは呆れた声を出して肩の力を抜いた。


「わたくしにはっ」


 突然ティーナの唇をルフェールの唇が塞いだ。ティーナは目を大きくして静かになった。


 ルフェールは赤い目を終始開けたまま長く重ねていた唇を離した。


「聞きたくない」


ベチンッ


「痛い」


 ティーナの手が頬をひっぱたいた。ルフェールの真白だった頬が赤くなる。


「手が早い人は大っ嫌いよ!!!」


 ティーナも真っ赤な顔をして叫んだ。ルフェールはきょとんとした顔で立ち上がって自分を見下ろすティーナを見上げた。


「唇を合わせることならティーナが……」


 途中で言葉を切って口を閉じるルフェール。これ以上言うとまたティーナが怒りそうな予感がしたからだ。ガーウィンの指導が初めて役に立った瞬間である。


「わたくしが何よ!?」


 しかしティーナは聞き逃さなかった。怒った顔をして上からルフェールを睨みつけている。ルフェールは迷った結果、やはり言わないことにした。


「秘密」


「何よ! 言いなさいよ!」


「絶対言わない」


 ルフェールはティーナに抱き着いてそのまま花畑の上にティーナと共に倒れ込んだ。


「もうっ! 驚いたじゃないのっ! 放してっ!」


 今度はしっかり頭と身体を抱えたのでティーナがどこかに頭をぶつけることはなかった。ただティーナの怒りは最高潮に達したらしく、腕の中で暴れまわった。ぽかぽか肩を叩き、腰を蹴り。そうしてティーナが暴れまわった所為でルフェールの長い髪が絡まり、二人は拘束されることになってしまったのだった。


「貴方の髪ってどうなっているの!? どうしてこんな時に限って絡まるの!? いつもはさらさらで絡まらないじゃないの!! 独りでに動くのこの髪!?」


 座り直したルフェールの足の間にちょこんと座り、身体に絡まった白い長髪を丁寧に解きほぐしながらティーナは不満をもらした。


「髪は勝手に動かないよ」


「知っているわよ!!」


 振り返ってきっとルフェールを睨みつけた。するとルフェールはまるで幼子のようなあどけない顔で笑ったのだった。


「楽しい」


「楽しくなんかないわ!!」

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