第16話 胸躍る贈り物

 昼下がり。だいぶ元通りの生活になってきたティーナは、食事を終えると本を読んでいた。セロが持ってきてくれたデヴォンの長編小説である。一度読み始めると没頭してしまうティーナだったが、今回ばかりは違っていた。


「……ねぇ。そんなに睨まれると気になるのだけれど。わたくしに用があるのかしら? ベル」


 扉の横でベルが壁にもたれかかってティーナを睨んでいる。


 ベルはもう二時間以上もそうしている。昼食が始まった頃にやってきて扉の横に立ち、食器を片付けたララが出ていくのを見送って、今はティーナが本を読むのを見つめている。部屋に入る前も入ってからもベルは一度も口を開いていなかった。さすがのティーナも無言で睨まれれば気になった。


「なあに? 用はないの? ないならどうしてここにいるの?」


 ティーナはむっとした顔をした。するとベルはつかつかと足音を立ててベッド脇に立った。


「どうしてそんなに平気そうなんだ。……ティーナは毒を盛られたんだぞ? 食事をするのを躊躇ったり嫌がったりしないのか」


 ティーナは本を閉じた。


「毒が入っているものも平気で食べたのだから、今更怖がることなんてないわ」


 ぐ、とベルは唇を結んだ。


「じゃぁ、ここにいたくないとは思わないのか?」

「ここに来た時からずっと思っているわ。それは初めから何も変わっていないわ」

「……夜、目を閉じるのが怖くなったりしないのか。またあの苦しみが襲ってくるかもしれないと思うことはないのか。目を閉じたら、開けられなくなるのではないかと思わないのか」

「思わないわ。目を閉じて、開けられたことに感謝することはあっても閉じることを躊躇したことはないわ。これから起こることを嘆くより、わたくしは今こうしていられることを喜びたいのよ」


 ベルは目を細めた。


「どうして……君はそんなに強いんだ、ティーナ」


 何故かベルが泣きそうな顔をしていた。ティーナは肩の力を抜き、ベッドの端を叩いてベルに座るよう促した。ベルは少し戸惑ったが、結局ティーナに背を向けて腰かけた。


「わたくしは弱いわよベル。重いものは持てないわ。長く歩くこともできないの。そしてすぐに疲れてしまうのよ」


 こんなに弱い人間他に見たことないわ、とティーナは笑った。


「そういうことじゃない」


 しかしきっぱりと否定されてしまい、ティーナは息を吐いた。


「どういうことなの?」

「……俺の言っていることは精神的な話だ。どうしてティーナがそんなにも気丈に振る舞えるのか分からない。……あのララという女もそうだ。ジョックスという男だって。どうして君たちはそんなにも強いんだ。人はみんな弱いはずだ。大きな力には逆らえないし、死の危険があったら逃げるはずなんだ」


 ベルの頭は下がっていて、大きなピアスが揺らめいている。背を向けていて見えないけれど、組んだ手を見ているのだろうなとティーナは予想をつけた。


「ベル。貴方、誰かに信じてもらったことはある?」

「……ない」

「誰かの目標となったことは?」


 ベルは首を振った。


「期待されたことは?」


 ベルはもう一度首を振る。


「そう。自覚していないと、わたくしのことを理解するのは難しいかもしれないわ」


 言ってからティーナは居住まいを直した。


「わたくしはね、ベル。信じてもらえて、目標とされて、期待されているの。まず、ララやジョックスがわたくしのことを信じてくれているわ。ララはわたくしを目標とさえしてくれているのよ。お祖父様やお兄様はわたくしに期待してくれているわ。それにね、わたくし、領主メレズディ家の娘なのよ。村のみんながわたくしを慕ってくれて、信じてくれて、期待してくれているの。そんなところで生活できるなんて、環境に恵まれたわ。わたくし、運だけはいいの。でも、時々そんな目が怖い時もあるわ。そんな時はお母様とお父様が励ましてくださるのよ」


「……良いご両親だな」

「えぇ。もう、この世にはいないけれど」


 ベルは目を大きくして振り返った。ティーナは悲しそうな顔で微笑んでいた。


「写真の中から、二人が励ましてくれるの」

「そう、だったのか……。ごめん……俺は、ティーナに酷いことを言ってしまった……」


 尋問の時に親のことを持ち出したことを思い出し、ベルは眉を下げた。ティーナのことが見られなくて、視線を下げてベッドを見る。


「いいのよ。知らなかったのだから仕方ないわ」


 ベルは小さく口を開いたけれど閉じてしまった。ティーナはしばらくベルが何かを言うのを待ったが、時間が過ぎるだけでベルは話そうとしなかった。ティーナはそっと、ベルの腕に手を添えた。


「……ベルは信じてもらったことや目標とされたこと、期待されたことがないそうだけれど、わたくしはそうは思わないわよ」


 視線が遠慮がちに上がった。


「ルフェールからわたくしの尋問をお願いされたでしょう? それはベルのことを信じているからよ。ここでルフェールのために働いているのも、期待されているからだわ」

「そんなことはない。あの方は他人に興味がない。信じる信じないもないんだ。あの方には俺たちに頼むという選択肢しかなかっただけだ。俺がここにいるのも、指示されたから来ているだけで……誰かの期待を背負ったわけではない」


 ティーナは目を細めた。


「そう思うのなら、それは正しいのかもしれないわ」


 ベルの身体が強張ったのが掌から伝わってきた。唇もぎゅっと固く結ばれる。


「でも、自信というものは、強さというものは、自分が自分を肯定し、他人に肯定されなければ形にならないのだとわたくしは思うの。自信や強さが欲しいのならまず自分を肯定することよ。何だっていいの。今日は早く起きられたとか、思ったよりも本を読むのが早かったとかそういうことでいいのよ」


 なんだそれは、とベルは呆れたように笑った。ティーナも口の端に笑みを浮かべ、話を続けた。


「簡単なことでも自分を褒めるのよ。誰にでも出来ることってこの世には何一つとしてないの。みんな努力したり才能があったりするから出来るだけなのよ。ジョックスはお祖父様に半ば拷問のような形で教育を受けたけれど、覚えられないみたいでほとんど文字が読めないのよ。読めても単語だけよ。でも逃げ回っていたからか走るのはとっても速いのよ。ララは何でも卒なく出来ると見せかけて裏で努力していて、最初の頃は手を傷だらけにしてお料理を作ってくれたわ。何と戦ってきたのって、わたくし思わず聞いてしまったのよ」


 懐かしそうに話すティーナ。


 ベルは想像した。ティーナの祖父から逃げ回る幼いジョックスや、傷だらけの手をした幼いララを。はっきりと幼い二人を描くことは出来なかったが、ずいぶんと微笑ましくて楽しそうだなとベルは思った。


「だから些細なことでも自分を褒めてあげて。それから自分を褒めてくれる人に認めてもらえるよう努力するのよ。わたくしたちで言うところの、お祖父様のような方ね。お祖父様は厳しい方だけれど、褒めて信じて期待してくださる方なの。絶対にできると信じ、成長した姿に期待して、課題を与えるのよ。できたことは褒めてくださるわ。……無理難題を言い渡されることが多いけれど、ジョックスもララもよくやっているわ。二人の成長がわたくしには嬉しい。二人がわたくしの傍にいてくれることが、わたくしは嬉しい」


 べったりなのはあまり好きではないのだけれど、とティーナは困ったように笑った。


 ベルは何となく分かったような気がした。


 ジョックスとララがティーナのことを慕う理由が、嬉しいと言って笑うティーナの姿にあるのだろう。ティーナが信じ、期待しているからこそ、二人はティーナの傍でその期待に応えるべく努力するのだろう。一人で頑張れる人間は少ない。他人に応援されて、支持されて、初めて力を発揮できる人間ばかりだ。ティーナとジョックス、それからララは三人でお互いに支え合い、お互いを必要としているからこそ信頼関係を築けるのだ。


「俺は、ティーナがいるから彼らはやれるのだと思う。ティーナが彼らを信じ、期待しているからこそ、彼らは君を信じてついていくんだろうな」


 穏やかな表情で言うとティーナは「そうかしら?」と小首を傾げた。


 彼女にとっては当たり前なのかもしれないが、決して当たり前ではない。ベルはさっき、彼女自身から誰にでも出来ることはこの世にないのだと教えてもらった。従者を信じるということは当たり前のようで特別なことなのだろうとベルは思った。


「何にせよ、ベルもわたくしたちのお祖父様たちのような、自分を信じてくれる人や期待してくれる人を探した方が良いわ。身近にいるものよ。いないと思うなら、人のためになる自分の要素が足りないのよ。他人のために何かをしてあげられれば、それだけの信頼が得られるものよ」


 ティーナのように。


「そう、だな。いつもティーナは賛成できないことばかり言うけれど、それについては同意する」


 ベルがそう返せば、ティーナはなあにそれ、と言って笑った。そんな笑顔が可愛いな、とふと思ってしまい、ベルは軽く頭を振った。


「そうだ、ティーナ」


 いつまでも頭に残り続けるティーナの笑顔を上から塗り潰そうと口を開く。


「何かしてほしいことはないか? 俺は、その、ティーナが運ばれてきた時に何もしてやれなかったから……。かわりと言っては何だが、君の望むことをしたい」


 ティーナは自分が倒れた日にベルがずっと部屋の前で心配してくれていたことを知っている。ララが話してくれたのだ。


 毒に倒れた者に対して出来ることは誰にだってないとは思うものの、ベルが真剣な表情で言うので、ティーナはそうね、と言って少しだけ考えた。


「お日様の下でお茶会がしたいわ」

「分かった」


 ベルは頷き立ち上がるとすぐさま部屋を出ていってしまった。一人残されたティーナはきょとんとした顔でベルの出ていった扉を見つめた。


 それから二時間くらい過ぎたティータイムの時間にベルは再びやってきた。


「ティーナの望み通りのものを用意した。行くぞ」


 ベッド脇で手を差し出すベル。しかしティーナは小首を傾げてその手を見つめた。


「行くってどこへ行くの?」

「茶会の場所にだ」

「どこなの?」

「下だ」

「下って……階段を降りるの?」

「そうだ」

「わたくし、長い階段は降りられないわよ」

「っ! だったら俺が連れて行ってやる! ほら! 来い!」


 ベルは頬を赤らめてティーナに両腕を伸ばした。ティーナは数回目を瞬いたが、すぐににっこり笑って腕をベルの首に回した。ベルはティーナの背と膝の裏に手を添え、軽々と身体を抱き上げた。そのまま踵を返し、開けっ放しになっていた扉から部屋を出る。扉の外に控えていたジョックスは少しだけ驚いた顔をしてから後をついてきた。


「ベルって力持ちなのね」

「女一人くらい持ち上げられるよう鍛えている」


 ティーナが下からベルの顎を見つめながら言うと、ベルはぶっきらぼうに言った。ティーナはそうなの、と答えてベルの胸に耳をくっつけた。


 心臓の音がドキドキ煩い。それを聞いていると自分までドキドキしてきて、ティーナはくすくす笑った。


「何がおかしいんだ」


 不満そうな空色の目が見つめている。


「楽しいと思っただけよ」

「まだ茶会も始まっていないのにか?」


 ベルは片眉を上げて不思議そうな顔をした。ティーナはそうよ、とだけ答えて鼻歌を歌い始めた。ベルにはよく分からなかったが、とりあえずティーナが楽しいならそれでいいと、考えるのをやめた。


 階段を下まで降りたベルは円形の広場を突っ切って迷路に入った。右、左、右、右、左、真っ直ぐと進んでいき、やはり行きついたのはあの庭であった。


 明るい陽光が差し込んでいるのが見える。久しぶりに見た太陽の光が眩しくて、ティーナは少しの間目を瞑っていた。瞼に刺すような光を感じる。


 そろそろ慣れたかというところで目を開けた。


「素敵!」


 ティーナは思わず歓喜の声を漏らした。


 陽光のさす庭は生き生きとしていた。風に揺れる白いテーブルクロスが美しく、草花に零れ落ちた太陽の光が煌めいている。身体を包み込む暖かい空気に、晴れた日の匂い。外で陽の光に当たることがこんなにも素晴らしいなんて、とティーナは目を細めた。


「ティーナの席はここだ」


 ベルは手前の椅子を引いてティーナを座らせ、自分はティーナの向かいに座った。

 すかさず庭で待っていたレリアンとララがそれぞれお茶を淹れて二人の前に出した。ティーナはララの淹れたお茶を飲み、ベルはティーナの様子を伺いながらレリアンの淹れたお茶を飲んだ。


「美味しいわ」


 ほっと息を吐き、ティーナは笑みを綻ばせた。ティーナの笑顔を見て、ベルもカップに隠れた口の端を少しだけ上げた。


「甘い物も用意させた。甘い物が好きなんだろう? たくさん食べろ」


 テーブルの真ん中に大きなバスケットが用意される。バスケットにはマドレーヌやパウンドケーキが山盛りにされていた。


「美味しそうね。二人で作ったの?」


 取り分けてくれているララとレリアンに聞く。二人はそれぞれに「そうです」と言った。


 ティーナはララが取り分けてくれたパウンドケーキに手を伸ばし、一口食べた。口の中に優しい甘さとベリーの甘酸っぱい味が広がる。


 あっという間にパウンドケーキを食べ終え、次はマドレーヌに手をつけた。バターと砂糖が上手く調和したまったりとした甘さに頬がとろける。


「二人ともありがとう。とっても美味しいわ」


 また笑顔になって言うと、二人は嬉しそうに笑った。


 それからティーナは次々とパウンドケーキとマドレーヌを食べていき、ベルを驚かせた。バスケットの中身がみるみるうちに減っていく。半分くらい食べたところでようやく満足したティーナは、一息ついてお茶を飲み干した。


「意外と食べるんだな」


 思わずといった様子でベルが感想を漏らす。


「あら。たくさん食べる女の子は嫌い?」

「いや。嫌いじゃない。けれど食べ過ぎるのはよくないぞ。元気になったばかりなんだから気をつけろ」


 真面目に答えるベル。ティーナはふふっと笑い、ララに注いでもらったお茶をもう一口飲んだ。


「そうするわ。ありがとうベル。私のことを心配してくれて。それから、このお茶会を用意してくれて。とっても気持ちがいいわ」


 庭に視線を向けるティーナ。ふわふわの栗色の髪が風にそよいだ。


「ルフェールやセロやガーウィンもいれば……あの夜のお茶会をやり直せれば良いのに」


 呟いたティーナの声は風が攫った。


 ドクン、とベルの心臓が大きく波打った。


 ティーナの横顔はどこか憂いを帯びており、細められた目は遠くを見据えていて、口元に浮かんだ笑みはずいぶんと大人びて見えた。いつもは、そう、可愛らしい顔つきや態度が歳の割に幼い印象しか与えないのに。


 二度三度と瞬きすれば彼女はもう、にっこりいつもの幼い顔で笑っていた。


 ガーウィンとセロの言っていた言葉がベルの頭をよぎる。


「君は……俺が誰なのか……」


 知っているのか。


 聞こうと思って、やめた。


「なあに?」


 ティーナは小首を傾げる。


「いや、何でもない」


 言ってベルはティーカップを口に運んだ。


 今はまだ、何も知らないままでいたい。純粋無垢なままで。ベルはそう思いながら、「気になるじゃない」と言って口を尖らせたティーナに笑みを向けた。

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