第12話 白磁の小瓶

「んなっ!? 何て格好をしているんだ! 恥を知れ!!」


 岩の牢でベルの声が反響した。


「今日はなんだか着替えたくないの。そんな日もあって良いでしょう?」


 ティーナは気怠そうな声で答えた。


 白いシーツのベッドの上でティーナがうつ伏せになっている。着ているものは細い手足が丸見えの白いシルクの寝巻だ。ティーナは胸に枕を抱いて足を投げ出し、寝転がっているのである。もう少しずれたら尻も見えてしまいそうだった。鍵のかかった牢の中とはいえ、無防備にもほどがある。


「怠けたことを言うな! ちゃんとした服を着ろ!」


 ベルは真っ赤な顔をして怒鳴っている。


 そろそろ尋問の時間かと思って来てみたらティーナが寝巻姿でごろごろしていたので、緊張感のないその態度への怒りと、女性のそんな姿を見てしまったという恥ずかしさが混ざってベルの頭の中はこんがらがっていた。


「わたくしが着替える前にベルが来たんじゃない。そんなに気になるなら目隠しになるものを入れたら良いんじゃないかしら。それとも、見に来たの?」


 ティーナが挑発的な目をしてベッドに腕をつき、上体を起こした。衣擦れの音がして、寝巻がなめらかな肌の上で滑る。前のめりになるとティーナのふくよかな胸が強調され、大きく開いた襟から谷間が見えた。


 ドッと、ベルの心臓が波打った。


「ままままだ着替えていない方がおかしい! はしたない! どうして君はそんな身体っ!?!? どうしてそんなに怠惰なんだっ! 今すぐ着替えろ!! 俺は君が着替えるまでここを離れる!!」


 途中言い直しながらもなんとか言い切ったベルはすぐに踵を返して小走りに牢を出ていった。


「あら、つまらないわね」


 ティーナは耳まで真っ赤にして逃げるように去ったベルを見送ってから寝そべった。


「あいつには姫様のその姿は刺激が強すぎたみたいっすね」


 ジョックスの声にはため息が交っていた。ただ、ジョックスはベルに同情もしていた。ジョックスも思春期の時に散々遊ばれたのである。発育の良かったティーナはそれを武器にジョックスを右に左に振り回していた。おかげでジョックスはティーナの蠱惑的な態度や姿に慣れている。今でも時々ドキッとさせられるが、脱兎のごとく逃げ出すほどではない。


「ベルは可愛らしいわね」


 目を閉じながら微笑むティーナ。


「着替えます?」


 そのまま寝てしまいそうなティーナに問いかけると、ティーナはううんと声を出した。


「もう少し、このままで……」


 ふぅ、と息を吐き、ティーナの言葉は空気に溶けた。


 一方牢を飛び出したベルは熱い顔を手の甲で押さえながら階段を登っていた。ルフェールのところへ向かっているのだ。こういうことが何度もあっては困るので、ティーナの言った通り目隠しになるものを入れてもらおうと思ったのである。


 三階分の階段を登り、廊下をずんずん進んでいく。今日はバラの部屋にいるとレリアンから聞いていた。バラの部屋は端の方にある。この建物にある部屋の中でも行きつくのに距離のある部屋だった。


 この建物には百を超える部屋がある。それはどれもルフェールのもので、ルフェールは日替わりで部屋を使っている。部屋には花の名前の他、月の部屋や銀の部屋といったような名前もついている。しかし扉も間取りも全て同じになっているのでどの部屋がどれなのか見分けるのは苦労する。ベルは片手で数えられる程度も覚えられていない。それはどうやらセロやガーウィンも同じらしい。そのため、彼らは必ず最初にレリアンと共にルフェールを訪ねる。レリアンは部屋の名前と位置を全て把握し、ルフェールがどこにいるのかも把握しているのだ。ただ、彼もルフェールがどこにいるのか知らない状態で朝を迎えるらしく、毎日鍵のかかった扉を叩いて彼がどこにいるのか探すらしい。


 ようやくバラの部屋と呼ばれている部屋の前まで来た。今日はこれで二回目だ。一回目はこの建物に来てすぐ済ませている。


 いつも、扉を叩くのには緊張する。ベルはこの部屋の主が誰だか知っているのだ。


コンコン


「ベルです」


 鍵が開く音がした。いつもと同じ。ルフェールはいつも、部屋に鍵をかけて閉じこもっている。


「失礼いたします」


 しばらくしてから扉を開け、部屋に入った。


 ルフェールがソファに座っていた。壁にかけられたランプの光をそのまま反射しているので、橙色に光っているように見える。


 光を吸収することのない白い姿。もう慣れたが、初めの頃はこの姿に驚いたものだった。


「もう、彼女の尋問は終わったのかい?」


 赤い瞳がベルを見る。瞳は確かな色を持って強くベルを見つめているのに、声や態度には覇気がない。不思議な気分になる。まるで、そこにあるようで何もない、幽霊に会っているかのようだ。


「……まだです。……ティーナはまだ着替えていなかったので時を改めました」


 ルフェールが座っている向かいのソファの左側に立ち、ベルは言った。


「そう」


 一言。ベルはこれだけで終わると思っていた。


「今日はとてもゆっくりしているようだ。食事も少量、時間をかけて食べたそうだよ」


 いつもは一言だけで終わる会話が続く。ここ最近、ベルはルフェールと会話らしい会話をしていた。何事にも関心のなさそうだったルフェールが、ティーナのことになると少しだけお喋りになるのだ。


「そのようですね。レリアンから聞きました。……レリアンは、ティーナに食事を作ることを楽しみにしているようですね」


 今日出会った時のレリアンを思い出す。


 厨房にいたレリアンは、ララと共にうきうきした様子でティーナが食べ終わった食器を洗っていた。呆れて声をかけると、「いつも褒めてくれるんですよ! だから私も嬉しくて嬉しくて。夜はティーナ様ご要望の鴨のコンフィです~」などと言ってにこにこ笑った。ベルはこんな風に笑う男だったかと内心首を傾げた。ティーナが来る前からよく笑う男だったが、困ったように笑うだけでにこにこはしていなかった。


「そのようだね。いつも彼自身が報告してくれるよ。他にも、本がどうとか」


「みんなでデヴォンを読んでいるらしいですね。感想や意見を交換し合っているのだとか。……セロさんが持ち込んだ本ですよね?」


 デヴォンというのは有名な推理小説作家である。セロがデヴォンの短編集を持ち込んだのがきっかけで、この建物内ではデヴォンブームが起きている。


 セロはほぼ毎日ここへ通ってティーナに本を届け、感想を言い合う意見交換までしている。ベルも居合わせたことがある。その時の意見交換会にはセロとティーナはもちろん、レリアン、ララ、それからジョックスまでもが参加していた。


「うん。私にも勧めてくれた。私もたまに意見交換会に参加するよ」


「えっ!? ルフェール様もですか!?」


 それは初耳だった。


「そう。セロに誘われてね。ほとんど皆の話を聞いているだけだけれど、退屈ではないよ」


 引きこもりが珍しい、とベルは思った。


 そもそもセロがルフェールを部屋の外に呼ぶということ自体今までなかった。それにルフェールが応じることも意外と言えば意外である。ベルはルフェールが部屋から外に出ている姿を片手で数えるほどしか見たことがなかった。てっきりルフェールは外界に興味がなく、人と関わることを嫌い、閉じこもっているものとばかり思っていた。


「……そうですか。楽しそうで、何よりです」


 ぽろっと零すとルフェールは視線を落とし、少しの間固まった。よく見ていないと分からない変化だった。


「……そうか、私は楽しいのか」


 ぼそり、声が落ちる。ベルは首を傾げたが、せっかくなので話を続けることにした。


「楽しそう、と言えば。ガーウィンさんから様々な作法を教えてもらっているそうですね。この間セロさんが楽しそうに言っていました。なかなか面白い、と」


「面白くなんかないよ」


 ルフェールの返事は早かった。


「ウィン、すぐに怒るんだ。……ティーナみたいに。怒鳴りはしないけれど、すぐ眉間にしわが寄って説教する。私は悪いことを一つもしていないのに。セロはそれを見て笑っているんだよ」


 しゅんとした様子だった。これもまた珍しい。


「例えばどういう時に怒られるのですか?」


 興味が湧いて聞いてみると、ルフェールは少しだけ考える素振りを見せてから口を開いた。


「……もしティーナがお風呂に入ろうとしていたらどうするかと聞かれたから、一緒に入ると答えたら怒られた」


「なっ! それはそうでしょう!?」


 思わず声が大きくなってしまった。ルフェールは何でもないことのように言ったが、ベルには女性と入浴を共にするなど考えられないことだった。


「そうなのかい? 何が悪いのか私には分からないよ」


「他人の嫌がることをするのはだめですよ。無防備な姿を晒すのは誰だって嫌がります。さすがのティーナも嫌がりますよ」


「そうか。人というものは私が思っているより繊細なんだね。ティーナが怒っていたのは彼女が繊細だからか……」


「いえ。彼女は繊細とは違うような気がしますが……。怒っていた、とは、何かあったのですか?」


「彼女が入っているお風呂に入ったら怒られた」


「な!?」


「どうして怒るのかよく分からなかったけれど、ベルのおかげで分かった気がするよ。彼女は私が思っているより繊細なんだ」


 ベルは開いた口が塞がらなかった。


 相手が繊細どうこうという話ではない。そんなに親しくもない異性が裸でいるところに自分も裸で入って行くなど考えられない。しかもルフェールはそんなことをしておいて全く悪びれる様子もないのだ。


 あまりにも相手への配慮が足りない。いや、あまりにも他人に無関心なのかもしれなかった。とにかくこのままでは男性としても人としてもまずい。ガ―ウィンがルフェールに作法を教えるということを聞いたときはどうしてそんなことを、と驚いたのだが、確かに必要だとベルは納得した。作法以前の問題な気もするが。


「ガ―ウィンさんが説教するのも分かります……」


 ため息交じりに呟いた。


 するとルフェールの赤い目がベルを見て、そのまま横に滑った。扉を見ているらしい。ベルもルフェールの視線に誘われるようにして扉を振り返った。


コンコン


「レリアンです!」


バンッ


「!」


 ルフェールが答える前に扉が乱暴に開いた。


 立っているのはレリアンではなかった。あの、ララというティーナの従者であった。ここまで走って来たのか髪を乱し、肩で息をしている。


 ララは息も整えず、何の断りもなく部屋に入って来た。


「おい! 無礼だぞ!」


 指摘したが聞こえていないのか、ララはベルには見向きもせずに真っ直ぐルフェールのところまできた。ルフェールが赤い瞳をララに這わせる。ベルは訝しげな顔をした。


 一瞬、うるっと緑色の目が震えたかと思うと、ララは勢いよく頭を下げた。


「どうか、どうかティーナ様をお救いください。お願いです。ティーナ様が死んでしまったら、私も死ぬ他ありません。お願いです。ティーナ様をお救いください」


 深く頭を下げて懇願するララ。声が震えている。鼻をすする音もする。ベルは彼女の足元にぱたぱたと涙が落ちていることに気がついた。ララが泣いている理由が分からず、ベルは片眉を上げた。


「ルフェール様……」


 部屋の外ではレリアンが今にも泣きそうな顔をしていた。いつも笑っているのに珍しい、とベルは思った。


「……ティーナをここへ。レリアンはあれを持ってきて」


「ありがとうございます!」


「かしこまりました!」


 ルフェールが答えるとララはすぐさま顔を上げて走って部屋を出ていった。開けっ放しの扉を閉めることなく、レリアンがその後を追いかけていく。


 ベルは二人を見送った後、頭の中にいくつも疑問符を浮かべた。一体何だったのだろう。ベルには分からない。しかしルフェールは分かっているらしい。


 ルフェールはおもむろに立ち上がると、大きなベッドの隣に置いてあるランプに火を入れた。部屋がもう一つ明るくなる。どうしてそんなことをするのかは分からない。


「……何だったんでしょうか」


「人は、繊細だということだよ」


 ルフェールは視線を下げたままぼそりと呟いた。先ほどの話の続きなのだろうか。意味が分からず首を傾げると、ルフェールは「今に分かるよ」とだけ答えて口を閉じてしまった。そう言われてしまっては返す言葉がなく、ベルも口を閉じた。


 それからいくらもしないうちに誰かが部屋の中に駆け込んできた。


 黒髪の大男、ジョックスである。ジョックスは両腕に小さな白いものを抱えていた。


 ジョックスが抱えているものが分からなかったので、ベルはソファを回り込んで立ち位置を変えた。そうして驚いた。ジョックスの抱えていたものはティーナだった。あまりにも小さくて動かないのでただの布かと思っていた。


「今すぐどうにかしろ!」


 ジョックスはガラスがビィンと音を立てるくらいの怒号を響かせた。眉を吊り上げ、今にも人を殺しそうな目をしてルフェールを睨みつけている。あまりの気迫に、自分に向けられたものでもないのにベルの身体が震えた。


「ベッドへ」


 対するルフェールはいつもと変わらない様子だった。表情を変えず、淡々とした声色で誘導する。


 ジョックスは何も言わず、ルフェールに従ってティーナをベッドに寝かせた。


 ティーナは変わり果てた姿になっていた。


 荒い息。額に滲んだ汗で髪がくっついていて、顔は青白く、身体はぐったりと脱力している。生きているはずなのに、ほとんど動いているところがない。


「……ティーナ?」


 ぞっとした。これがあの、先ほどまで元気に人をからかって笑っていたティーナなのかとベルは目を疑った。それから訳が分からなくて動揺した。


 一体何が起こっているんだ? どうして彼女が倒れているんだ?


「ルフェール様! 持ってきました!」


 レリアンが手に白磁の小瓶を持って現れた。走って来たらしく、息が少し荒い。その後ろからララが部屋に飛び込んできて男たちをかいくぐり、ベッドの横まで来た。こちらも息が荒く、また顔色も悪く、今にも倒れてしまいそうに見えた。


 レリアンがルフェールに小瓶を渡すと、ルフェールはララとジョックスの立つベッド脇とは反対側に立った。


「解毒薬だよ」


 二人の目の前に小瓶を差し出すルフェール。ジョックスが引っ手繰るように受け取り、ララに手渡した。ララは小瓶の中身を少しだけジョックスの手の甲に出す。ジョックスはそれを舐めた。


「毒ではないみたいだ」


「……随分あっさりとくださるのですね」


 ララはベッドに腰かけ、片手をティーナの後頭部に添えて上体を起こした。「ティーナ様、お薬です」と優しく言いながら小瓶を唇に傾ける。


「これ以上貴方たちから欲しいものがないだけだよ」


 ルフェールは弱り切ったティーナを見ながら言った。ララがちらと視線をルフェールに向ける。


「ごほっごほっ」


 ティーナが咳き込んで薬を吐いてしまった。ララは小瓶を唇から離し、指で口の周りについた液体を拭った。


「……ティーナ様、頑張ってください。嫌でしょうけど、頑張って」


 落ち着いてから再び小瓶を傾けたが、また咳き込んで吐いてしまう。


「ちっ。姫様は苦いもんが嫌いだから喉を通らねぇんだ……」


 ジョックスが眉間にしわを寄せる。


「それは困ったね」


 他人事のように返すルフェール。ついにジョックスの頭の中で何かがぶちっと切れる音がした。


「何が困っただ!! てめぇの所為だろうが! てめぇが姫様に毒盛ったんだろ! 毎日飯に混ぜさせてたのはてめぇだろ!」


 乱暴にルフェールの胸ぐらを掴んで引っ張り上げる。服のボタンがいくつか千切れ、踵が浮いて額がジョックスの額にぶつかりそうになった。咄嗟にレリアンが止めようとジョックスの腕にしがみついたがビクともしない。それでもルフェールは涼しい顔でジョックスを見つめ返していた。


「放してくれるかい? 私に手を出しても貴方の主人はどうにもならないよ」


「てめぇ!」


 さらにジョックスの腕に力が入った。憤怒で青い瞳が燃え上がる。「ルフェール様!」とレリアンが焦燥に駆られた様子でルフェールを窘める。


「……言い方を変えよう。放してくれ。手を尽くそうにもこのままでは何も出来ない」


「知恵を貸してくださるのですか?」


 ララの反応は早かった。ルフェールは赤い瞳をララに向けて「そう」とだけ答えた。


「放してくださいジョックス」


「ちっ」


 ララが指示すると放るように手を離した。


 自由になったルフェールは真っ白な手をララに伸ばした。そうして攫うように小瓶を抜き取り、サイドテーブルに置いてあったランプの隣に小瓶を置いた。


「何をするつもりだ?」


 ジョックスが眉を寄せて問いかける。


「うまくいくかは分からないけれど、何もせずに見ているよりはましだろう」


 それだけ答えてルフェールはランプの中に火を入れ、口のところに銀の器を置いた。それから器の中に小瓶の中身を傾けた。


「……火をかければ空気に溶ける。飲めなくても、吸うことは出来るはずだ」


 空になった小瓶を置く音が大きく響いて聞こえた。


 誰も答えなかった。今までそんな方法で薬を与えたことはない。考えたこともなかった。ルフェールの言う通り、上手くいくか分からない方法だ。


「皆は部屋を出た方が良いだろう。薬も毒だ。空気に溶ける薬が濃くなったら、身体に影響が出るかもしれない」


 ララとジョックスは顔を見合わせた。数秒無言で会話をした後、ベッドに腰かけていたララが立ち上がった。


「それでは私は部屋の外に」


「俺は残る。毒には耐性があるからな」


 ルフェールを睨みながら腕を組むジョックス。


「……私も、ルフェール様を残していくわけにはいきませんので」


 レリアンも隣に並んだ。ジョックスが「大丈夫なのか?」と問いかけると、レリアンは「貴方と同じようなものですから」と困ったように笑った。ルフェールは何も答えなかった。


「ティーナ様、早く可愛らしい笑顔をララに見せてくださいね」


 ララは優しくティーナの髪を整えてあげてからジョックスの脇を通り過ぎ、扉の前に立った。そうして部屋の中を一通り見渡し、緑色の瞳を茫然としたまま動かないベルに固定した。


「貴方も出ていった方が良いと思いますよ」


 緑色の目を細めるララ。


 ベルはハッと気がついて、一礼して外に出たララの後を追うようにして部屋を出た。


 扉を閉めると無機質な静寂が訪れた。扉を開くと、あの焦燥と緊張の入り混じった空気が胸を焼くのだろう。世界が分断されたような気さえする。


 どくん、と心臓が震えた。怒涛のような展開から切り離され、今になって状況が理解でき、焦りと緊張が遅れてやってきた。


「ティーナは大丈夫なのか?」


「分かりません」


 隣のララに話しかけてみたが、ララはじっと扉を見つめたまま顔も向けなかった。


「何か、俺に出来ることがあれば……」


「何もありません。私たちはティーナ様に何もしてあげられないのです」


「……もどかしいな」


 呟いて、ベルは口を閉じた。


 それから一、二時間は経っただろうか。それだけ経ってもララは扉の前で姿勢よく立ったまま動こうとしなかった。ベルもティーナの様子が気になって離れることが出来ず、二人並んで扉を見つめていた。


 この一、二時間で焦りと緊張は落ち着き、ベルは冷静に考えられるようになっていた。


「毒はどうやってティーナの身体に入ったんだ?」


 まず気になったのはそれだった。


 静寂を破ったベルにララは一瞥をくれるとすぐ扉に向き直ったが、答えてくれた。


「ティーナ様の毎日のお食事に毒が混ざっていたのですよ」


「あの食事に!?」


「即効性のある毒ではなく、また微量だったのでしょう。そのため今日になるまで具合が悪くなることはありませんでした。……今日になって、ようやく、効果が現れるだけの量になったのでしょう……」


 ララの声は小さくなっていった。これ以上話す気はないということなのかもしれない。ベルは誰に聞くでもなく、ぼそりと呟いた。


「誰がそんなことを……」


 ほとんど呟きのような声がララに火を点けてしまった。


「あの方に、貴方たちの主人に決まっているでしょう! その他の誰に毒が入れられるのですか! その他の誰がティーナ様に毒を与えようとするのですか!」


 潤んだ緑色の目でベルを睨み、ララは叫んだ。


 ベルは面食らって言葉が出なかった。ガーウィンに連れてこられ、尋問されてもララは気丈な態度を崩さなかった。今だってずっと黙って立っていたのだ。そのララがこんなにも取り乱すなんて思わなかったのである。


 ララはぽろりと零れた涙を掌で拭い、鼻を一度だけすすって扉を見た。


「ティーナ様は誰からも愛されるお方です。そんなティーナ様に毒を盛るなんて悪魔のすることです」


 悪魔。ベルは頭の中でその単語を反芻した。


 ルフェールは髪も肌もまつげでさえも真っ白だ。それこそ人ではない、悪魔のような姿と言われても納得できる。しかしベルは『悪魔のような人物か』と問われればそれは違うと言える印象を持っていた。誰に対しても平等で深入りすることのない、どちらかと言うと天使のような印象なのである。悪く言えば何にも興味のない冷たい人間だとも考えられるが、相対する者に絶望を感じさせるほどの苛烈な印象はない。だからこそ、ベルには不思議だった。


「……なぜ、ルフェール様はティーナに毒を盛ったんだろう……」


 ベルがぽつりと漏らせば、ララは「知りません」と吐き捨てた。


 ルフェールは何を考えてティーナに毒を盛ったのか。自分やガーウィン、セロに尋問することを指示しておきながら殺すようなことをしたのか。そんなことをしておきながら何故、助けるのか。


 二人は再び黙った。その静寂の中に、刺激的な匂いが混ざる。どうやら扉の隙間から薬の匂いが染み出してきているようだ。目がピリピリと痛くなり、喉にも違和感がある。ベルなんかは何度か咳き込んだ。部屋の中は目も開けられない状態かもしれない。


 そう思っていると、ギィ、と音を立てて扉が開いた。


 目と鼻、それから喉を刺激する匂いがあふれてきた。見えずともむっとした空気が目と鼻の先で滞留しているのが分かる。


「どうしたのですか?」


 扉を開けた主、ジョックスにララが近づいた。


 ジョックスはごほごほと咳き込み、今にも倒れそうな様子で部屋から出ると、そのまま壁に背をつけて座り込んでしまった。


「……だめだ。俺でも、あれは耐えられねぇ。あんな中で平然としてられるなんて、あいつ、人じゃねぇかもしれねぇ」


 ぐしぐしと涙を流し、鼻を押さえながらジョックスは言った。


「大丈夫ですか?」


 続いてレリアンも出てきて扉を閉めた。こちらも鼻をすすってはいるが、ジョックスほどひどくはなさそうだった。ジョックスは手をひらひらさせて答える。喉が痛くて話せないのだった。


「貴方は大丈夫なんですか?」


 ララは鼻と口を押えながらレリアンに問いかけた。二人の身体から薬のきつい匂いがするので咳き込んでしまいそうだったからだ。


「ご心配ありがとうございます。私は大丈夫です。……私、毒や薬の類は効きにくいんですよ。これはもう、体質ですね」


 困ったように笑い、レリアンは「牛乳を持ってきます」と言って場を離れた。


「中にはティーナ様とあの男だけですよね? ジョックス、もっと粘れなかったのですか? 貴方はその身体の頑丈さと腕っぷしの強さがウリでしょう」


 レリアンを見送ってから、ララは不満を漏らした。自身を睨む緑色の目を見上げてジョックスは肩を落とした。


「すまん。回復したらまた入るから、そんな怒んなよ」


 ララの目にぎゅっと力が入る。


「こうしている間に、ティーナ様があの男にっ殺されてしまったらどうするんですかっ! ティーナ様がっティーナ様が死んでしまったらどうするんですかっ!」


 ぽろぽろっと涙が零れた。それが不本意だったのか、ララは驚いた表情をしてすぐに涙を拭った。


「落ち着け。姫様は死なねぇよ。大丈夫だ。……前に『貴方たちを残して死ぬことはない』って言ってただろ? 姫様を信じろ。姫様はいつだって俺たちに答えてくれる。大丈夫だ」


 ゆっくり立ち上がり、ジョックスはララの頭に手を添えて抱き寄せた。ララはジョックスの胸に顔を埋め、奥歯を噛みしめて泣いた。ジョックスは微笑み、もう片方の手で優しく背を撫でてやった。


 ちら、と、青い瞳が、扉に向く。


 部屋の中には湿り気を帯びた熱い空気が充満していた。小さな窓はあるが、空気が重いのかほとんど出ていかずに留まっている。


 ルフェールは橙色の光の中で佇んでいた。


 一時間もしないうちに銀の器に入っていた薬はなくなった。ランプの火を消して何時間か経つ。もう、銀の器は冷え切っているだろう。


 ティーナは穏やかな息をしていた。けれどもそれは回復というよりは弱っているように見えた。


 白い手がティーナの頬に当てられた。


 燃えるように熱かった。


「……聞こえるかい?」


 問いかけてみたが、答えなかった。


「……」


 頬に添えられたルフェールの手が滑り、首に当てられた。顎に添えた親指と人差し指に力を入れる。


「……まだ……とおい……かしら?」


 か細い声が唇の隙間から漏れた。


「わたくしは……あなたを……しんじる……だから……あなたも……」


 目は閉じている。呼吸は小さく、顔色は青い。生と死の狭間を彷徨いながら、ティーナは己ではない誰かを案じている。


「……」


 ルフェールは手を引っ込め、ランプの上に乗っていた銀の器をテーブルの上に置いた。それからチェストの引き出しを開けて小さな壺を取り出し、銀の器の隣に並べた。


 赤い瞳をティーナにやる。ティーナは微動だにせず、横たわっている。


 視線を戻し、ルフェールは懐から小瓶を取り出した。レリアンが持ってきた小瓶と同じ、白磁の小瓶だった。ルフェールは小瓶の中身を再び銀の器の中に注ぎ入れた。それから小壺に小指を入れて中身を少しだけ舐めて確認し、薬を入れた銀の器に傾けた。


 とろりとした液体が銀の器の中に入る。薬と同じくらいの量を入れ、指でかき混ぜて完全に均してから指についた液体を舐めた。


 十分甘い。


 ルフェールはベッドに腰かけ、ララがやってみせたようにティーナの頭の後ろに手を入れて上体を起こし、銀の器を唇に持っていった。


 銀の器を傾ける。


 しかし液体は唇から零れ、顎から首にかけて流れていき、鎖骨に溜まった。


 ルフェールはじっと液体の筋を眺めた。そうしておもむろに顔を近づけ、真っ赤な舌をティーナの舌に押し付けた。それから絡めるように舌を動かして唾液で液体を溶かし、顎を上げさせてティーナの首を伸ばした。


 こくり、と喉が動いた。


 ルフェールは唇を離し、銀の器の中身を口に含んで再びティーナに口づけた。先ほどと同じようにゆっくりと液体を溶かし、喉を通させる。それを何度も繰り返し、ルフェールは銀の器の中身を全てティーナに飲ませた。


 全て飲ませ終わるころには燃えるように熱かったティーナの唇は冷め、頬にも少し色が戻ったように見えた。


 ルフェールはティーナを寝かせ、こめかみから栗色の髪を掻き上げた。


「信じるよ。私にも、貴方の笑顔を見せてほしい……ティーナ」

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