第8話 監獄の花風呂

 セロが来た日の夜。


 ティーナは扉の向こうにジョックス、レリアン、セロを置いて湯に浸かっていた。毎日使うことを許された、あの大浴場である。ちなみにセロはいつもの三人で大浴場に向かっている途中で出会い、勝手についてきた。


 湯には様々な花が浮かんでおり、水面の半分を隠している。全面灰色の岩のため華やかさが足りないというティーナの不満に応え、レリアンが用意してくれたのだった。


「素敵な香……」


 ティーナは花を掬い取り、顔に近づけて香をかいだ。いろいろな花があるおかげで複雑な香がするが、良い香だった。香料の強い、ティーナが好んで香水として使っている青紫色の花も交じっている。湯加減も調度良く、ティーナが心を安らげることの出来る、貴重な時間であった。


「花畑のようだ」


ばしゃん


 突然聞こえた声に驚いたティーナは水面を叩いた。


「なっ! 貴方っどこから入って来たのよ!?」


 いつの間にか目の前にルフェールがいた。目の前と言っても大きな湯船の反対側にいるので何メートルか離れているのだが、突然現れたことに変わりはない。それもどうやら裸で普通に入浴を楽しんでいるようである。


 橙色の光に彼の白い肌がぬらりと光って見える。見た目も存在も幽霊のような男だ。


「ここは私の城だから、私しか知らない隠し通路や隠し扉が至る所にあるんだ」


 ルフェールはさも当たり前のように答えた。それにしても乙女が入浴しているにも関わらず断りもなく入ってくるのはどうかと思ったティーナだったが、なんとなく言っても無駄な気がして代わりにため息を吐いた。


「そう。それで、こんなところまでわざわざやって来て何の用なの?」


 ティーナは胸を押さえながら近くに浮いていた花をかき集めた。


「どれくらいレリアンやベル、ウィン……セロと仲良くなれたか聞いておこうと思って。四人は報告しに来てくれるけれど、貴方は私が会う機会を作らなければ会えないだろう?」


 ティーナは目を細めた。


「まずまずと言ったところね。初めはこのくらいではないかしら。これから少しずつ仲良くなっていく予定よ」

「期待しているよ」


 それだけ言ってルフェールは黙った。ティーナは膝を立てて足を抱き、それだけを聞きにこんなところにまで来たのかと少々憤慨した。兄と風呂に入ったことはあるが幼い頃の話だ。赤の他人の男と風呂に入ったことは一度もない。今までティーナの周りにはそんな無粋な男はいなかった。ジョックスでさえ、遠慮したのである。


 ティーナは少々の憤りを込めてじいっとルフェールを観察した。ルフェールは水面に浮かぶ花を珍しそうに見ている。ゆらゆら離れたり近づいたりする花を目で追いかけているようだ。こうして見ている限りでは全く無害そうである。


 赤い瞳が上がった。


 目が合った。するとルフェールがゆっくりと近づいてきた。ティーナはぎょっとして胸を押さえながら縁を移動し始めた。


「どうしてこっちに来るのよ!」

「貴方が見つめているから何か用があるのかと思ったのだけれど」

「用なんてないわ!」

「どうしてまた逃げるのかな?」

「逃げてないわ! 距離を取っているのよ!」


 二度目の会話である。


 ティーナは湯船の縁を伝うようにゆっくりと移動している。本当はもっと急ぎたいところなのだが、お湯がそうさせないのだった。ルフェールはそんなティーナの後ろから水面を揺蕩うように追っている。長い白髪をそのままにしているので、髪が尾のようにすううと移動しているのでそう見えるのである。


「どうして距離を取るのかな?」


 ルフェールはまるで分かっていない様子だ。


「ルフェールが近づいてくるからよ!」

「どうして? 貴方はあの時は近づいてくれると言ったのに、どうして今は近づいてくれないの?」

「あの時はあの時よ! 状況がまるで違うわ! いいからこっちに来ないで!」


ばしゃん


 ティーナは手でお湯を払った。ティーナの払ったお湯は後ろにいたルフェールに被り、ルフェールは目をぱちくりさせて固まってしまった。いくつか頭に乗った花がするすると髪を滑って降りていく。


「またお湯をかけられたくなかったら近……わぷっ」


ばしゃん


 今度はティーナが頭からお湯を被った。ふわふわの栗色の髪はぺちゃんこになり、頭の上には花が乗っている。


「けほっ。なんで。こほっ。かけるのよっ。けほこほ」


 話している途中でお湯を被ったため、少しお湯を飲んでしまったティーナはむせた。


「貴方がお湯をかけるから……」


 目には目を歯には歯をということである。


「ルフェールが近づいてくるからでしょう!?」


ばしゃん


 再びティーナがルフェールにお湯をかけた。


ばしゃん


 するとまたルフェールがティーナにお湯をかけ返した。


「もうっ! お返しよ!」

「……」


ばしゃん ばしゃん ばしゃん ばしゃん


 二人はお湯を両腕で掬ってはかけ掬ってはかけを繰り返した。戯れのお湯のかけ合いとはわけが違う。これは確実に相手を倒すための戦いだった。


 何度かそれを繰り返し、疲れてきたティーナは手を止めた。するとルフェールも手を止めたので、一時休戦ということになった。


「やるわねルフェール……」


 ふぅ、と息を吐き、ティーナは顔に貼りついていた髪の毛を手で退けた。するとルフェールの上半身が視界に入った。色は白いが意外としっかりした筋肉がついていて逞しく、ペンダントを下げていることに気づいた。赤い宝石のペンダントである。


「……なあに?」


 ルフェールも無言でティーナをじっと見ていた。自分もまじまじと見ていたことを棚に上げ、ティーナは小首を傾げてなんとなく、視線を下げた。


 水面が下がっている。二人して豪快にお湯をかけあった所為だろう。胸の上まであった水面が今は胸の下までに減っていた。


「!?!?!?!?」


 ティーナは顔がぼっと熱くなるのを感じた。


「……柔らかそう」


 ぼそり、と呟いたルフェールの声が無駄に大きく感じられた。


 ティーナは胸を隠し、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。


「きゃぁぁぁぁ! ジョックスー!!!」


バンッ ドダダダダダダ……


「どうしたんすか姫様!!」


 甲高い声が響いたのとほぼ同時。扉が乱暴に開いた音と大きな足音がしたと思ったらジョックスが現れた。この時間、わずか一、二秒。


「なっ!? てめぇなんでここに!」


 湯船につかるルフェールとジョックスの目が合った。ルフェールはきょとんとした顔で、たった今ジョックスがした質問に答えようと口を開いた。


「不審者よジョックス! 殴って!! 骨を五、六本折るのよ! わたくしの裸を見た罪は重いわ!!」


 しかしそれをティーナの叫び声が制した。


「姫様の裸を見たのかこの野郎!」


 ジョックスは青筋を立て、迷うことなく湯船の中に飛び込んでルフェールを捕まえようとした。大きな水飛沫が上がる。


「ちょ、ちょっと待ってくださいジョックス! 何がどうなってるんですかこれ! わっ!?」


べしゃっ


 遅れてやってきたレリアンがジョックスを止めようとしたが、ものの見事に滑って転んだ。どうやら濡れた岩の上に散らばっていた花を踏んだらしい。ティーナとジョックスは思わず気を取られる。その隙にルフェールは素早い動きでジョックスを交わし、あろうことかティーナの後ろに隠れた。拳を作った腕を振り上げ、殴ろうとしたジョックスは思いとどまった。


「きゃぁっ触らないでっ! あっちに行きなさい!」


 肩を掴むルフェールをはがそうとティーナは暴れた。片手で胸を押さえながらもう片方の手をばたつかせる。水飛沫が上がるので目は閉じていた。


「暴れると危ないよ……!」


 ルフェールはなんとかティーナの攻撃を避けていたが、避けきれず側頭部にティーナの腕が当たった。


「わっ!」

「きゃっ!」


ばしゃーん!


 ふらついたルフェールはティーナを巻き込み、お湯の中に沈んだ。


「ぷはっ!」


 一旦沈んだルフェールはすぐさま自力で顔を上げた。もとより湯船は深くない。すぐに上がって来られる深さだ。しかし小柄なティーナには難しかったらしく、ティーナはルフェールよりも長く潜っていた。


 背中から沈んだということや、泳げないということも原因だったかもしれない。とにかくティーナは突然お湯の中に頭から沈んでしまったことに対して軽くパニック状態になっていた。


 無我夢中で近くにあるものに縋ってようやく水面から顔を出す。


「はぁっ!! げほごほっ! ふぇぇっこわかっ!?!?!?」


 ティーナは誰かの胸に抱き着いていた。腰回りは細い割にちゃんと引き締まった筋肉がついている。


 はっとして顔を上げてみると、真っ赤な目を大きく見開いたルフェールの顔があった。


「……柔らかい」


 ぼそりとルフェールが感想を漏らす。


「きゃぁぁぁ!」


ばちーん!


「痛い」


 ティーナは渾身の力でルフェールの頬をぶち、すぐさま距離を取って身体を隠した。


「てめぇ触ったな!?」

「触りましたね!?」

「全身の骨を折って!!!」

「ティーナが抱き着いてきたのに……」


 それぞれが思い思いの言葉を叫ぶ。ジョックスはルフェールを殴ろうと拳を振り回し、ルフェールは危機を察して逃げ、レリアンは湯船に入って後ろからジョックスを羽交い絞めにした。混沌とした状態であった。大惨事である。


「いやこれは酷い有様だ。悲劇も喜劇もビックリだね」


 そこへ登場したのがセロであった。


「君たち、無礼にもほどがあるよ。一番に考えてあげるべきは、彼女のことだ」


 言ってセロは手にしていた布でティーナをくるみ、身体を丸ごと包み込むようにして抱き上げた。あまりの驚きと混乱でひんひんと泣いていたティーナの涙は引っ込み、大きな薄い茶色の目からほろりと残りの涙が零れた。


「セロ……」


 すん、と鼻をすすり、ティーナはセロに腕を回して顔を首元に埋めた。それを見たジョックスは少なからずショックを受けてその場で止まり、自動的にレリアンも止まることになった。追いかけられることのなくなったルフェールも立ち止まり、じいっとセロとティーナを見上げた。


「全員不合格」


 セロはにっこりと笑って言った。けれどもその顔は全く笑っていないように見えた。

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