第4話 それぞれの願い事
「ベッドで眠りたいわ! お風呂に入りたいわ! お腹が空いたわ!」
「暴れないでくださいよ姫様」
ティーナは胡坐をかくジョックスの膝の上で身体をばたつかせた。
「はぁ。まぁ、腹は減りましたねぇ。今何時なんすかね。たぶん、朝は迎えてると思うんですが……」
「知らないわ!」
ぷん、とティーナは頬を膨らませた。
不思議な会合を果たし、牢に戻ってから随分と時間が経ったように思う。蝋燭の橙色の光しかないので朝なのか昼なのか、それとも夜なのかは分からないが、日付は変わったはずだった。
二人は牢の中で目を閉じ、開ける度に適当な話をして、また眠ることを繰り返していた。それに飽いた頃、ティーナが暴れだしたのであった。
「お砂糖たっぷりのケーキが食べたいわ! お野菜たっぷりのスープが飲みたいわ! バターをたっぷり使ったパンが食べたいわ!」
ティーナはぺちぺちとジョックスの頬を叩く。ジョックスは首を伸ばして回避しようとするが、ティーナが足に乗っているので逃げられない。
「だー! 姫様! 暴れないでくださいって! しょうがねぇですよこっから出れねぇんだから! 我慢してください!」
堪らずジョックスは立ち上がり、子どもをあやすように身体を揺らし始めた。
「ほーらほら姫様ー。落ち着いてくださーい」
ゆりかごのように腕を右に左に動かすジョックス。
「わたくしは子どもじゃないわ!」
ティーナは頬を膨らませたままだ。
「じゃ、これはどうっすか。高速回転!」
ジョックスはその場でぐるぐると回りだした。最初は遅かったが、遠心力でどんどん加速していく。
「きゃー!! すごいわジョックス! 面白いわ!」
どうやらお気に召したらしく、ティーナはきゃっきゃと笑ってジョックスの首に腕を回した。気をよくしたジョックスがさらに加速する。
「これはどうっすか! 高速回転&上下運動!」
素早く回りながら手を上げ下げする。ティーナは振り落とされないようにしっかり捕まり、すごいすごいとしきりにジョックスを褒めた。まるで子どもと親のようである。
「楽しそうな声が聞こえると思ったら、随分面白そうなことをしていますね」
ふいにレリアンの声が聞こえ、ジョックスは瞬時に止まった。
あれだけ回ったのに足元がふらついていない。一方ティーナは目が回っており、くったりとジョックスの胸に頭を預けていた。牢の前に立ったレリアンの姿さえも見ることが出来ない。
「お邪魔してしまってすみません。お食事をお持ちいたしましたので召し上がりませんか?」
白い布をかぶせたワゴンにパンとポタージュが乗っていた。ポタージュはまだ湯気が立っている。
レリアンはそれぞれを盆に乗せた状態で床に置いた。床には数センチの空間があり、そこから手を伸ばして器を取ることが出来る。
ジョックスは無言で近づいて器を取り、レリアンを見ながら口をつけた。温かい液体が身体の中を流れていく。
「美味しい?」
「不味いっすね」
「じゃぁいらないわ」
眉を寄せたジョックスに、ティーナは軽く返した。
「お口に合いませんでしたか……」
レリアンはしょんぼりした様子で眉を下げた。その様子にカッとなったジョックスはレリアンを睨みつけた。
「こんな家畜も食わねぇもん出しやがって! てめぇらは姫様を何だと思ってんだ!」
鉄格子がビリリと震えるほど大きな声を出し、ジョックスは器をレリアンに向かって投げつけた。カン、という音を立てて器が鉄格子にぶつかり、中身が上等な服にかかる。しかしレリアンは困ったように笑うだけで怒りはしなかった。代わりに怒ったのは
「あらジョックス! 食べ物を粗末にしてはいけないのよ!」
ティーナだった。ティーナは彼女なりの怒った顔でジョックスを睨んでいる。ジョックスはぎゅっと唇を閉じてから脱力した。
「そりゃそうですけど姫様ぁ」
「どんな理由があっても、わたくしたちは食べ物を粗末にしてはいけないわ。例え食べ物を作った人が粗末に扱っていたとしても、与えられる側のわたくしたちがそうして良い理由にはならないわ」
そうなんですけどねぇ、とジョックスは肩を落とした。ティーナの言いたいことは分かるが、納得できないといった様子であった。
「こちらも下げますね……。今度は美味しいものを持ってこられるようにします」
レリアンはパンの乗った盆を持ち上げ、ワゴンに置いた。そのまま去っていこうとする彼を、ティーナが「ねぇ」と呼び止めた。レリアンは首だけを回して振り向いた。
「ねぇレリアン。お食事はもう良いから、お風呂に入らせてくれないかしら。良いでしょう? お願いよ」
ティーナは顔の横で手を揃えてみせた。分かりやすく可愛らしいポーズだ。童顔のためよく似合っている。
レリアンはうーんと唸ってから「聞いてみます」と言って続けた。
「もう少し待っていてくださいね。あの方の昼夜は逆転しているので、まだ起きていないんですよ」
それでは、とレリアンはワゴンを押して去っていった。
「一応あいつはあの男の指示待ちなんすね」
ジョックスはレリアンの去っていった方を見ている。まだワゴンを押すゴロゴロという音が鳴っているので、ジョックスの声はレリアンに届いたかもしれなかった。
睡眠の合間で、ティーナは一人でルフェールと会っていた時間のことをある程度ジョックスと共有している。とはいっても、ジョックスはあの部屋にいた人物がルフェールという名の白い男であることくらいしか理解できていないが。
「そうみたいね。ルフェールはこのお城の主なんでしょう」
ティーナは自分の爪を見ながら話した。まるで興味がなさそうな態度である。
「そんなことより、わたくしはお風呂に入りたいわ」
この始末。ティーナは男たちがどうこうよりも、自分のことが大事なようであった。
一に自分、二に自分。三四がなくて五に自分。
ティーナのワガママな性格は何があっても直りそうにないな、とジョックスは漠然と思った。
それからティーナは歌を歌ったり、物語を語ったりして過ごした。ジョックスはティーナの歌や物語に耳を傾け、感想を呟き、ティーナがそれに飽きると彼女の要望に応えてぐるぐる回ったり、高く持ち上げたり子どもをあやすようなことをして遊んだ。何もない牢の中ではそれくらいしかやることがなかった。
そんなことをして時間を潰していると、誰かが牢の外からこちらに向かってくる足音がした。今度は足音が聞こえたので、二人は黙ってじっとその人物がやってくるのを待った。
柔らかく笑ったレリアンが牢の前に立った。
「お待たせいたしました。大浴場を使って良いということですので、ご案内します」
「やった! 嬉しいわ!」
牢の鍵が開いた。
「良かったですね姫様」
ジョックスは身を屈めて牢の外に出た。もう三回目になるので必要以上に警戒したり、戸惑ったりすることもない。妙な感覚だった。
「こちらです」
先導して歩き始めたレリアンについて円形の場所に出る。レリアンはところどころ橙色の蝋燭の灯る広場を突っ切り、ほとんど反対側まで歩いた。そこには岩肌をくり抜いた出入り口があり、道が続いていた。昨日通った迷路のような狭い道よりは広く、歩きやすいが、暗いのは相変わらずだった。
「ここが大浴場です」
レリアンは大きな両開きの木の扉の前で止まり、金属の取っ手を押した。
壁も床も岩でできた部屋に比較的多くのランプが灯されている。扉の直線上には岩をくり抜いたアーチ状の出入り口があり、そこから湿っぽい熱気が流れてきていた。
「すでに湯は溜めてあるのですぐに使えますよ。お召し物もこちらでご用意いたしました。どうぞ、使ってください。私はここで待っていますね」
にっこり、優しく笑うレリアン。ジョックスは部屋の中に入り、奥の湯の張った部屋も見て一通り危険がないか確かめてからティーナを降ろした。
「それじゃぁわたくしはお風呂に入るわ。ジョックスはレリアンと一緒に扉の前で待っていてちょうだい」
「分かりました。何かあったらすぐに呼んでくださいね」
「えぇ」
いつも行動を共にしているとはいえ、さすがに風呂を共にすることはできない。ジョックスとしては何かあるかもしれないので誰かと一緒に入ってもらいたいのだが、ここにいるのはジョックスとレリアンの男二人だけだ。女性の入浴に男性がついていくのは憚られる。そもそもティーナも拒否するはずだった。いつもはジョックスではなく、ララが付き添っている。
ララがいてくれれば……。ジョックスは頭の中にララの姿を思い浮かべた。この時ほど、ララにいてもらいたかったと思ったことはなかった。
バタン
扉が閉まる。深呼吸し、扉に背中を向けて仁王立ちしたジョックスの左隣にレリアンが並んだ。
無言。
沈黙。
二人とも自ら話そうとしない。
居心地が悪い。なんとなく苛々する。ジョックスは踵を小刻みに揺らした。
「貴方は、良家の生まれではないようですね」
視線を下げるとモノクル越しにレリアンの目と合った。
「見りゃ分かるだろ」
素っ気なく答えるジョックス。レリアンは「そうですね」と困ったように笑った。
容姿は悪くないが、言葉遣い、態度、素行、どれをとってもジョックスは平均以下だ。これでもし良家の生まれであるならば、何をどう間違えたのかと問われるところである。
「貴方のような人が、どんな縁があってメレズディ家に仕えているんですか?」
ジョックスが眉を寄せて睨みつけると、レリアンは困ったように笑った。
「すみません。メレズディ家は貴族としての歴史は浅いですが、領主としては長いでしょう。そんな良家に仕えるにはあまりにも蛮行が過ぎると思いまして。気になったんです」
言い方は柔らかいが、言葉は辛辣だった。それでもジョッスは怒らなかった。よく言われるということもあるが、自分でよく分かっているからであった。
レリアンの問いに答えるつもりはなく、ジョックスは口を噤んでいた。しかし、気まずい空気がそうしたのか何なのか、結局ジョックスは小さくため息を吐いて口を開いた。
「……拾われたんだよ。よくある話だろ。貴族様が何の気の迷いか、その辺の孤児を拾って育てるってのは。俺もその一人だっただけだ」
「聞いたことはあります。ですが、目にするのは初めてなんですよね」
珍しそうにレリアンは下から上にジョックスを見た。好奇の目には慣れているが、レリアンのような純粋な興味の目には慣れておらず、ジョックスはむず痒い気持ちになった。口がへの字に曲がる。
「本当にそんなことってあるんですね。どうして貴方を拾ったのか、ラルク様に聞いてみたいものです」
「ラルク様に聞かなくても俺が知ってる」
「聞いたんですか? そういうのって繊細なことですよね……。よく、聞く勇気がありましたね」
感心したように頷きながら言うのでジョックスはため息を吐いた。
「俺は繊細ってタマじゃねぇよ」
「見れば分かりますね」
ジョックスがレリアンを見る。レリアンはにこっと笑った。視線を正面に戻しながら「まーな」とジョックス。
「どうして貴方は拾われたんですか?」
「くだらねー理由だよ」
「知りたいんですよ。そのくだらない理由とやらを。ほとんど友人と言える存在のいない先代国王が唯一友人と呼ぶラルク様が、どうしてくだらない理由で貴方を拾ったのか興味があるんです」
ジョックスは数秒沈黙した。隠したかったわけではない。ただ、本当にくだらない理由のため、言うのが躊躇われただけだった。
「……姫様の誕生日プレゼントだそーだ」
ぼそり。ジョックスは言った。
レリアンを見ると、彼は目を大きくして瞬かせていた。
「誕生日……プレゼントですか?」
信じられない、という様子である。しかしこれは紛れもない事実だった。
「そーだ。俺は誕生日プレゼント。ラルク様が姫様に何か欲しいものはないか聞いたんだと。そしたら、馬車の外を見て一言。『アレがほしい』それが俺だったってだけの、くだらねぇ話だよ」
ジョックスは当時のことを思い出す。
ある町で、目の前を通り過ぎる馬車を見ていた。
親はおらず、育ててくれる大人も頼れる大人もいない孤児だった。食うのに困り、寝るのに困り、着るものもなく、ぼろぼろのぼろを着て、道の隅で寝て、食い物を盗んで一日一日を過ごしていた。
いつ死ぬかも分からない。
生きている心地などまるでない。
ただ必死に、一日が過ぎるのを待つ日々。
その日はうまく食い物にもありつけず、いつも以上に苛々して、目の前を通り過ぎる人々や馬車を睨みつけていた。するとある一台の馬車が目の前で停まり、こちらにおいでと、上等な服を着た初老の男が手を差し伸べて来たのであった。それがラルク・メレズディだった。
「俺は犬でも拾うみてぇに拾われて、犬でも与えるみてぇに姫様に与えられたのさ」
レリアンはジョックスの横顔を注意深く観察した。言葉は自嘲気味だが、ジョックスの言い方や表情には己を卑下しているような様子は見られない。
「貴方はそのことに対してどう思っているんですか?」
あんた、すごく聞いてくるけど何なんだ。そうジョックスが眉を寄せると、レリアンは貴方に興味があるからですよ、と返した。
「まぁ別に隠すことでもねぇから話すが。暇つぶしになるしな」
ジョックスは話を続けた。
「拾われた時はそりゃいろいろ思ったし、足りねぇ頭でずいぶん考えたが、理由を知ったら拍子抜けしたよ。あまりにもおかしくて。だって有り得ねぇだろ。誕生日プレゼントに俺みたいな孤児を欲しがって、しかもそれを与えるなんて。貴族って変な奴だと思ったよ。そんでどーでもよくなっちまった。それまでの悩みとか、不安……とか、消えて、ただ、ここで生きていこうって思ったんだ」
言ってからジョックスは「俺は何を言っているんだ」と一人で突っ込み、恥ずかしそうに口元を大きな手で覆った。
「……感謝しているんですか?」
レリアンはじっとジョックスを見ている。ジョックスは何を言っているんだという顔をした。
「当たり前だろ。俺は拾ってくれたラルク様に感謝してる。それから姫様にも。姫様のワガママが無かったら、俺は拾われてねぇからな」
「そうですか……」
嘘偽りのない真っ直ぐなジョックスの目を見て、レリアンは視線を下げた。それっきり、レリアンは口を噤んでしまった。
再び訪れた沈黙。
ジョックスは突然黙りこくってしまったレリアンのつむじを見つめた。興味を失ったというよりは、何かを考えているのではないかとジョックスは思った。
「なぁ」
呼びかけると、レリアンは「はい」と言って頭を動かした。紫色のモノクルの下の、黒っぽくなった瞳と左の青い目がジョックスを見上げる。
「てめぇはどうなんだよ。その、今、お前の主に仕えてる理由は何だ? 俺にだけ言わせててめぇは言わねぇなんてつまんねぇことはしねぇよな?」
少々威圧すると、レリアンは困ったように笑った。それでも口を閉じなかったのは、何でも素直に話してくれたジョックスに応えようとしてくれたからなのかもしれなかった。
「気づいたらあの方の召使いになっていました。物心つく前から、いや、生まれた時から、私はあの方の付属品だったんでしょう」
大げさな言い方にジョックスは眉を寄せた。
「子どもの時から……生まれた時からずっと仕えてるってことかよ?」
「そうですね。そうなります」
「ふぅん。王都の貴族ともなれば召使いも子どもの時から専属なのか?」
「えぇ。決まった人がつきますよ。大抵は大人ですが、同世代の子どもがいたら、その人に仕えさせるためだけの教育をさせられることもあります」
「すげぇな。生まれた時から持つ者と持たざる者ってやつになるのか」
「はは。そういうことですね。……私は、生まれた時から持たざる者だったんですよ」
レリアンは笑っている。すっきりした笑顔にも、どこか寂し気にも見える笑顔だった。
ジョックスは肩の力を抜いた。
「いーんじゃねぇの。泥水飲んで這いつくばってなんとか一日を乗り越えてたガキの頃の俺より、よっぽど運がいいと思うぜ、あんた。まぁ俺も運が良いみたいだけどな」
「運、ですか?」
ぱちぱちと瞬くレリアン。
「そーだ。姫様が言ってたんだ。どんな能力があるのか、どんな環境に生まれるのか、努力した結果どうなれるのかは結局運だってな」
「救いのない話ですね」
肩を落としたレリアンにジョックスは頷いた。
「まぁな。能力なんて生まれた時に決まっちまう。生まれる前に環境なんて選べねぇ。努力したって実るかどうかは分からねぇ。この世は理不尽のカタマリだ。運がなけりゃどうしようもねぇ」
だが姫様は言ったよ、とジョックス。
「世の中、能力のあるやつだけが好きなことをやれてるわけじゃねぇ。時間を潰す場所を変えたり付き合う人間を変えたりすれば環境なんていくらでも変えられる。結果は裏切るが努力は裏切らねぇってな。どこで何が好転するか分かんねぇ世の中だから、嘆いてる時間があったら頭と身体を動かせって。いつでも楽しそうにしてりゃいつか運もついてくる。結局続けられる人間が成功するそうだ」
「さすが一代で富を築いたラルク様のお孫様だ。心の強い人ですね。しかし、世の中にはそれが出来ない人が大半なんですよ。先の見えない未来に怯え、行動できない人。先の見えない未来を見ることをやめ、今だけを生きる人。みんな破滅するのが怖くて何も出来ないんです」
「そうだな。俺が元いたところもそんな奴らばかりだった。そもそも余裕がなくて先のことなんか考えてられねぇっていうやつだから、少し違うかもしれねぇけどな。でも、怯えてたのは同じだ。みんな未来に怯えてた。俺もその一人だった」
レリアンが顔を上げた。
「だった?」
「あぁ。だった。過去のことだ。今の俺は怯えてなんてねぇよ。……姫様がいるからだ。姫様が俺を必要としてくれるから俺はがんばれる。姫様は食いもんも着るもんも寝るとこもくれるしな。ワガママにつき合わされるのは大変だが、それも悪くねぇ。おかげで退屈したことがねぇからな。満足だよ。姫様さえ、姫様の傍にさえいられたら満足なんだ。姫様はそれじゃ勿体ねぇって言うけど、俺はそれでいいんだ。自分のためにがんばれねぇなら、自分を見捨てねぇ人のためにがんばったっていいだろ。俺には姫様って主がそれだった。そもそも主ってもんはそういう存在だろ?」
ジョックスの青い目がレリアンを見下ろした。真っ直ぐで、澄んだ目だった。心の底からティーナのことを想い、けれども彼女からの見返りは求めないという無償の愛が感じられる。
レリアンは寂しそうな笑みを浮かべて壁を見つめた。
「私の場合は……違います。貴方にとってのティーナ様……主は、世界の中心なのでしょう。しかし、私にとっての主は、世界の中心というよりは、その方しか見えないと言った方が適切です」
「中心とは違うのか?」
「えぇ。違う……と思います」
曖昧な返事にジョックスは眉を寄せる。
「私にはその方しか見えないのですよ。この、色の無い灰色の世界で、その方だけが、景色とは全く違う色をして見えるのです。それだけ、なんです。それだけなんですけど、私にとってそれは衝撃的なことでした。だから、私はこの位置に甘んじて仕えているのです」
「ふぅん。まぁ、あいつは真っ白だったからな。確かに景色とは違って見える」
レリアンはふふふと笑った。
「えぇそうなんですよ。不思議ですよね。さぞ驚かれたでしょう」
悪戯っぽい顔をするレリアン。ジョックスは頷いて答えた。
「あいつは人なのか? 見た目の悪いやつはそれこそ見尽くしてるが、あんな変な見た目のやつは初めて見た」
「人ですよ。それは私が保証します。ルフェール様はその稀な境遇のために少し変わり者ですが、純粋な方です。見た目ほどおかしな人ではないですよ。貴方もすぐに分かると思います」
ジョックスはへぇ、と呟いた。そして何かに気づいたのか、振り向いて扉を押し開けた。
「姫様、呼びましたか?」
隙間にティーナが立っていた。汚れた若草色のドレスから比較的動きやすそうな桃色のドレスに替わっている。髪は湿り気を帯び、頬は上気していた。手には布を持っている。
「えぇ。調度良いお湯だったわよジョックス。貴方も入ってらっしゃい。わたくしが綺麗になっても貴方が綺麗じゃなければまた汚れてしまうわ」
尤もだったが、ティーナを一人残していくわけにはいかない。とはいえ同行させることもできず、ジョックスは言い淀んだ。
「大丈夫よ。危ないと思ったら呼ぶから。さっさと入って来なさい。わたくしを待たせないで」
「……へーい。すぐ出てきますから扉の前を離れないでくださいよ。それからてめぇ。姫様に指一本触れるなよ」
しっかりとレリアンに釘を刺し、ジョックスはティーナと入れ違いで大浴場に入っていった。ティーナは扉が閉まるまでひらひらと手を振り、扉が閉まってしまうと向かいの壁に背中をつけて待つ体勢を作った。レリアンがさりげなく左隣に来る。ティーナが見上げるとレリアンはにこっと笑った。
「お似合いです」
「貴方が選んでくれたの?」
ティーナはドレスを少しつまんで持ち上げた。するとレリアンはえぇ、と言って頷いた。
「ありがとう。素敵なドレスよ。趣味が良いわね」
レリアンが「お気に召したようで何よりです」と答えると、ティーナは「ねぇ」と新しく話を振った。
「髪を拭いてくれない? まだ濡れているのよ」
ティーナが手に持っていた布を手渡す。レリアンは微笑みながら喜んで、と呟いて優しくティーナの髪を拭き始めた。
「中で彼を呼んだんですか? 私には聞こえませんでしたよ」
「呼んだわ。あの子は特別耳が良いのよ。わたくしの声ならすぐに反応してくれるわ」
「それはすごいです。犬笛みたいですね」
「笛の音のように美しい声だと受け取っておくわ」
「ふふ。そうしてください」
会話しながら一房一房丁寧に押さえて水気を取っていくレリアン。慣れた手つきのため、普段から誰かの髪を拭いているのかもしれなかった。
きゅう
「……」
突然高い音が聞こえた。
レリアンはきょとんとした顔をして、お腹を押さえるティーナを覗き込んだ。
「……お腹が空きましたか?」
「当たり前じゃないの! 今日一日何も食べていないのよ! もうぺちゃんこよ!」
照れ隠しにティーナは怒った口調で言い返した。顔も赤い。お腹の音を聞かれるのは乙女としてとても恥ずかしいことだった。
「ぺちゃんこ……ちょっと失礼しますね……」
するとレリアンは何を思ったのか、両手でそっとティーナのお腹と背中を挟んだ。
薄い。レリアンが思っていたよりティーナのお腹は薄かった。
「わ! 本当ですね!」
「そうよ。こんなの初めてよ」
「見事にぺちゃんこ……」
ギィィ
「姫様上がりました……」
随分早くジョックスが出てきた。ティーナとレリアン、そしてジョックスの目が合う。
間。
ジョックスがティーナのお腹に手を添えるレリアンに気づくのに二秒くらい間があった。
「てめぇ!! 指一本触れるなって言っただろうが!」
「あいた!」
ゴン、とジョックスの拳が一発レリアンの脳天に突き刺さった。レリアンはチカチカする目を何とかしようと瞬きしながら、割れたのではないかと思うほど痛い頭を両手で押さえて悶絶した。
「お気の毒ね」
我関せずという姿勢のティーナ。ジョックスはふん、と鼻息を鳴らしてティーナを背に庇った。
「確かに私が悪いですが、そんなに強く殴らなくても……」
涙目のレリアン。しかしジョックス曰く「手加減した」らしく、ティーナ曰く「ジョックスが本気になったら首が折れていたわよ」だそうで、これくらいで済んで良かったのかもしれない、と思うのであった。
「いてて……えっと、そうだ。お二人お揃いですので、これからルフェール様のところへお連れします。ささやかですがおもてなしも致します。今度はティーナ様にも気に入っていただけると思います」
まだ痛いのか不自然な笑みを浮かべ、頭をさすりながら、レリアンは先導して歩き始めた。ジョックスが手を出して抱えようかというアピールをしたがティーナは断り、二人は並んでレリアンの後ろについて歩いた。
来た道を戻り、円形の広場に出た後、あの狭い通路に踏み入れた。
レリアン、ティーナ、ジョックスの順で一列になって右、左、右、右、左、真っ直ぐ……と昨日と同じように暗い道を進んでいく。決して短い道のりではなかったが、ティーナは歩みが遅くなろうとも最後まで自分で歩いた。
狭い道が終わる。あの小さな庭から岩肌に銀の光が差しているのが見える。外はすっかり夜のようだった。
「まぁ素敵!」
庭に出るとティーナは嬉々とした声で手を合わせた。
月光の下に用意されたテーブルに椅子。ティーセットの乗ったワゴン。そして白い布のかけられたテーブルの上にはたくさんのお菓子が大きなお皿にこれでもかと山盛りにされていた。ケーキにクッキー、パイにチョコレート、スコーンや色とりどりのジャムにクリーム。瑞々しいフルーツだってある。
「貴方が用意したの? ルフェール」
ティーナはレリアンの引いた椅子に座りながら向かいの人物に問いかけた。
白い男、ルフェール。月の光を反射して光っているように見える。
ジョックスはごくりと唾を飲みこんだ。緊張で喉が渇く。橙色の光に照らされた姿よりも、銀色の光に照らされた姿の方が何倍も人間離れして見える。まだ室内にいられた方がましだった。まだ現実味があった。白い髪に白い肌、整った綺麗な容姿は、外では完全に景色から浮いて見える。自然とは逸脱した存在に思えた。
「そう。貴方はお茶がしたいと言ったから用意したよ。お菓子もたくさん。……機嫌はよくなったかい?」
きゅう
「……」
口ではなく、腹が答えた。
「お腹にネズミでも飼っているの?」
「小さいのを飼っているわ!」
ティーナは真っ赤な顔をしてぷんっと頬を膨らませた。
「まだ機嫌が悪いみたいだね」
小首を傾げ、上目遣いで探るように見つめるルフェール。
「今悪くなったわ!」
「どうして?」
「言いたくないわ!」
「まぁまぁティーナ様。お茶でもどうですか? 落ち着きますよ」
困ったように笑ったレリアンが銀のカップに入った紅茶をティーナの前に出した。紅茶からは湯気が立っている。ティーナはじっと紅茶の水面を見つめてからゆっくりした動作でカップを持ち上げ、口をつけた。
「……美味しいわ」
「ありがとうございます」
レリアンは頭を下げた。
「落ち着いた?」
「そうね。忘れてあげるわ」
「そう、良かった」
ルフェールは笑った。
ジョックスが思わず眉を寄せる。ルフェールの顔に笑みが貼りついた、という印象を受けたのだ。
「お茶もお菓子も貴方のためのものだ。好きなように飲んだり食べたりしてくれて構わないよ」
「そうさせてもらうわ」
ティーナは目の前にあったケーキを自分の皿に取り、銀のフォークで半分に切った。
「ほらジョックス。お腹が空いているでしょう? お食べなさい」
その半分を右隣に立っていたジョックスの口に運んでやる。身を屈めて大きなケーキを口に含んだジョックスはもぐもぐと口を動かして飲み込んだ。
「美味しい?」
「甘いっすね」
「本当、貴方ってだいたいの味しか分からないわね」
ティーナは呆れたように言って自分用に小さく切ったケーキを口にした。途端、ティーナの顔がぱっと輝いた。
「美味しい! とっても口当たりがよくてほどよく甘いわ」
うっとりした顔で二口目を食べるティーナ。
「幸せだわ」
頬に手を当て、満足そうな顔をする。
それからティーナは机の上に乗っているお菓子をひとしきり食べていった。とろとろのリンゴ煮の包まれたパイ、ジャムとクリームをたっぷり乗せたスコーン、サクサクのクッキー、とろけるチョコレート。手にするたび半分以上をジョックスに分けているとはいえ、一度に食べる量を越えているように見えた。
「ネズミじゃなくてオオカミがお腹の中にいるのかもしれない」
ルフェールは興味深そうにティーナを見ながら呟いた。
「それで、貴方の考えはまとまったの? ルフェール」
机の上のお菓子が半分くらいになったところでようやく満足したのか、ティーナはゆっくり紅茶を飲みながら問いかけた。それまでじっとティーナの食べる姿を観察していたルフェールが視線をレリアンに動かした。
「二人で話がしたい。外してくれるかい?」
「かしこまりました」
レリアンは頭を下げ、踵を返す。
「ジョックス、貴方も」
ティーナに言われ、ジョックスは眉を寄せたが大人しく従って二人そろって狭い道を引き返していった。足音が遠くなっていく。
完全に足音が聞こえなくなったところでルフェールが口を開いた。
「貴方に言われて考えてみたよ。私が生き残るために、貴方に何をしてもらうか」
ティーナはカップを置いた。
「私は命を狙われている。会場で私に似た人物が殺されたところを見ただろう。彼は特別に用意した私の影武者だった。私があの舞踏会に参加するという噂を流し、実際にこの城から姿を消して本当に舞踏会に参加するような芝居を打ってみたら彼が殺されたんだ」
物騒な世の中だよね、とルフェールは漏らす。
「私はこの岩の城から出たことがなく、私を知る者は少ない。私を認識しているのはレリアンとキッド、ウィン、ベルだけだ。私を殺そうとしている人物はその中にいるようだ」
ルフェールはどこか他人事のように、淡々と説明する。身近な者に命を狙われているというのに、動揺もなにもしていないようだった。
「まだ今は誰が私の命を狙っているのか分からない。だからその人物を炙り出す策を考えたよ。貴方にはその策に協力してもらう」
赤い瞳がティーナを見る。するとティーナはお茶を一口飲んでから言った。
「ルフェールがわたくしのお願いを聞いてくれるのなら良いわよ」
「お願い?」
「そう。ルフェールだけわたくしにお願いして、わたくしには何の得もないなんてやる気が起きないわ」
「貴方はこの状況で私に願いを叶えさせるつもりなのかい?」
ルフェールは驚いていた。
ここはルフェールの城だ。周りを岩で囲み、人を制限し、光が届かなければ情報も漏れない外から隔離された城である。人が消えても誰にも分からない。そしてその決定権はこの城の王であるルフェールにある。ティーナ、それからジョックスの命はルフェールにかかっている。彼の要求を断れるはずがない。万一ティーナが断ったとしてもルフェールは何も困らない。またティーナのような存在を見つければ良いだけの話だ。そのため交渉はほとんど無意味だった。
圧倒的にルフェールが優勢で何の交渉権もないというのに、ティーナは己の要求を通そうとする。
「そうよ。わたくしがルフェールのお願いを断れないのは百も承知よ。けれど、わたくしだって聞いてもらいたいことが十や二十はあるのよ」
「多くないかい?」
「女の子はワガママな方がかわいいでしょう?」
落ち着いた態度でカップに口をつけてお茶を飲み下すティーナ。
「決めてちょうだい。わたくしのお願いを聞くの? 聞かないの? どっちなの?」
「……また一日待ってくれはしないだろうか」
「もう待たないわ。これくらい即決なさい」
ルフェールは右手を顎に持ってきて目を伏せた。ティーナはカップを置き、じっと見つめて待っていたが、ルフェールが一向に動かないのでクッキーを手に取って食べた。サクサクという音に反応した赤い瞳が上がる。
「よく食べるね」
「美味しいものはたくさん食べられるの」
今度はチョコレートを口に入れたティーナに、ルフェールはふっと微笑んだ。柔らかい笑みだった。
「良いよ。貴方のお願いを聞こう」
ティーナはにっこりと笑って手を合わせた。
「そうこなくっちゃ! それじゃぁ言うわね。一つ目」
人差し指が立つ。
「毎日アフタヌーンティーを用意してちょうだい。温かいお茶が飲みたいの」
「分かった」
中指が立つ。
「二つ目。一日の最後、夕食が終わったら必ずお風呂に入らせて。不潔な人は嫌いでしょう?」
「そうだね。良いよ」
薬指が立つ。
「三つ目。ドレスは毎朝替えたいわ。身体が綺麗になってもドレスが汚れていたら意味がないもの」
「用意させるよ」
小指が立つ。
「四つ目。牢の中にベッドを入れてちょうだい。このままじゃ眠れないわ」
「入れさせよう」
親指が立つ。
「五つ目。わたくしの従者は自由に牢の外を歩かせて。わたくしが牢の中にいれば逃げることはないわ。それにあの方たちを監視させることも出来るし、ルフェールの護衛をさせることも出来る。悪くないでしょう?」
少し間が空いた。
「……私以外の人間が必ず二人以上いる時間帯だけ許しても良いよ。それ以外の時間は貴方とは違う牢の中に入れる。それで良いのなら、貴方のお願いを叶えよう」
「いいわ」
「ではそうしよう。……お願いは五つ?」
首を傾けて上目遣いで聞く。
「まだまだたくさんあるけれど、とりあえずそれだけで良いわ」
顎を上げて返す。
ルフェールは頷いた。
「そう。それでは私のお願いを話そう。貴方にはレリアンとキッド、ウィン、ベルと仲良くなって彼らから一定の信用を得てほしい。貴方が彼らの信用を得られたと判断したら、次のお願いをするよ。私のお願いはその二つだけだ」
ティーナは考える素振りを見せずに頷いた。
「分かったわ。それじゃぁまた二つ目のお願いの時に、わたくしもルフェールに新しいお願いをするわ」
「どんなお願いをされるのか楽しみだな」
ルフェールの顔ににっこりとした笑みが貼りついた。ティーナは目を細め、楽しみにしていてちょうだいと返した。
「お話はそれだけね。わたくしは戻るわ」
これで話は終わりだと判断したティーナは席を立って踵を返した。ルフェールは座ったままティーナを見送るだけで何も言おうとしないので実際そうなのだろう。
「ねぇルフェール」
ティーナが通路の入り口で立ち止まって振り返った。ルフェールは何だい、と問いかける。
「わたくしこの迷路がどうなっているのか分からないの。このままじゃ戻れないわ。牢まで案内してくれない?」
首を傾げて可愛らしくお願いするティーナ。
ルフェールは動かずティーナを見つめていた。まるでよくできた彫刻のようだった。
数秒後、ルフェールは至極ゆっくりとした動作で立ち上がってティーナの傍まで来た。線は細いがティーナより頭二つ分くらい大きい。
「レリアンがいるところまで案内しよう」
「そうして。前を歩いてちょうだい。わたくしは後をついて行くから」
そうしよう、と頷いて先を歩き始める。ティーナは三歩の距離を開けて後ろをついていった。
ルフェールは床を滑るように歩いた。体幹が良いのか身体も揺れないので、幽霊が歩いているようだった。不思議なことに足音も鳴らない。コツコツと響くのはティーナの足音だけのように思えた。
来た時のように右に左に何度か曲がって進んでいく。動きがゆっくりだからか、行きは疲れを感じたティーナだったが、帰りは感じなかった。体力のないティーナを気遣ってのことではなく、もともと動きが遅いのだろう。
「姫様!」
前方で足音を聞きつけたジョックスが右からひょこりと顔を出した。左側からはレリアンが顔を出している。
「ルフェール様もいらっしゃったんですか?」
二人の立っていた狭い道の終わり、円形の広場にルフェールとティーナが出てくるとレリアンは驚いた声で言った。
「戻れないと言うから案内しただけだよ」
ルフェールはちらとティーナを振り返る。ティーナはジョックスに安否を確認する声をかけられ、大丈夫だと笑って返していた。
「呼んでくだされば良かったのに……」
「彼女を一人にできないだろう。それにレリアンがここにいたのなら、私が声を張り上げても届かなかったよ」
「申し訳ありません。お声の届くところにいるべきでした」
「いや、聞こえないところにいて欲しかったから謝る必要はない」
「ということは話した内容は教えてくださらないんですね」
レリアンはしゅんとした顔をした。
「一部は話すよ。そうしないといけない理由があるからね」
「そうよ。ルフェールだけが知っていても仕方ないことがあるの」
少し離れたところでティーナが口を挟む。ジョックスはティーナを見て眉を寄せ、レリアンはルフェールを見て首を傾げた。
「五つのお願いを聞くことにした」「五つのお願いをしたのよ」
二人は同時にそれぞれの従者に説明した。一つ目のお願いから五つ目のお願いまで。そして五つ目のお願いを叶えるにあたってルフェールが出した条件も。
「姫様そんなこと言ったんですか?」
ティーナの五つのお願いを聞き終えたジョックスはほとんど呆れた声で眉を寄せ、
「はぁ。さすがティーナ様ですね」
レリアンは気の抜けた返事をした。ルフェールはそう、と頷いて続けた。
「早速ベッドを牢の中へ入れてあげて。上の部屋にある物を持っていけば良いよ」
「えっ上の、ですか? ベッドを持って階段を下まで降りるんですか!?」
「うん」
ビックリした声を出すレリアンに対し、ルフェールは落ち着いた声だった。
「今すぐじゃないといけないんですか!? もう少し人手のある時では……」
「だめよ。今すぐ運んでちょうだい。そうしないとわたくしが眠れないわ」
ティーナがすぐに否定した。ルフェールは「だって」とだけ付け加える。まるで他人事である。
「そもそもどのベッドも大きいから入るかどうかも分からないんですが」
「入れるのよ」
「入れるそうだよ」
「無茶言いますね!」
レリアンはうー、と唸ったが結局折れた。
「わ、分かりました。何とかします……」
断ることは出来ない。ルフェールの辞書にもティーナの辞書にも不可能という文字はないらしい。自ずと使用人の立場にあるレリアンにも不可能という文字はなくなる。二人の願いを聞くしかない。
レリアンは肩を落とし、とぼとぼと階段に向かっていった。可哀想な後姿だった。
「ジョックス手伝ってあげなさい。貴方がいれば運んでくることくらいは出来るでしょう?」
「出来ますが、姫様はその間どうするんです? あの白いやつと二人きりになるんだったら拒否しますよ」
ジョックスはあからさまな態度でルフェールを睨んだ。それにルフェールがにこりと笑みを貼りつけて返すものだから、さらにジョックスの表情は険しくなった。
「約束したばかりだから当分は大丈夫よ。行ってちょうだい。わたくし眠いのよ。レリアンを手伝って、早くわたくしを休ませてちょうだい」
確かに。
慣れない生活で消耗したティーナを早く休ませてあげたいとジョックスは思った。路上育ちのジョックスにはまだ序の口でも、温室育ちのティーナはとうに限界がきているはずだった。
ジョックスはティーナとルフェールを交互に見てからため息を吐いた。
「分かりました。早く済ませます」
それだけ言って走ってレリアンを追った。ジョックスの大きな影はあっという間に階段を登っていたレリアンに追いつき、肩を叩く姿が橙色の光に照らされた。
「……」
「……」
残された二人は二メートルくらいの距離を開け、無言で立っていた。ティーナはじっと見つめているルフェールの視線に気づきながらも口を開けず、また、目も向けなかった。
「……」
ルフェールの影が揺れ、ティーナに近づいた。するとティーナはルフェールが距離を詰めたぶん離れた。
「……」
もう一度ルフェールが一歩を踏み出すと、再びティーナは横にずれた。
「……私が嫌い?」
ルフェールが首を傾げる。白い長髪がさらりと揺れて肩から落ちた。
「嫌いじゃないわ。近づきたくないだけよ」
「それは嫌いということではないのかい?」
「違うわ」
「ではなぜ逃げるのかな?」
「逃げてないわ」
ルフェールはティーナの方へ歩いた。するとティーナは横に身体をスライドさせる。もう一歩踏み出してみる。やはりティーナは一歩離れ、一定の距離を保とうとする。
じりじりとルフェールはティーナに近づく。しかしティーナはそれを避ける。それを数歩繰り返したところでついにルフェールは本格的にティーナを追いかけ始めた。ゆっくりだが足が長いので油断すると距離を詰められる。ティーナは対抗して本格的に逃げ始めた。こちらはリーチが短いので小走りである。
「どうして追いかけてくるのよ!」
軽快な音を立てて逃げるティーナ。
「貴方が逃げるから……」
優雅な足取りで追いかけるルフェール。
「わたくしはルフェールが追いかけてくるから走っているのよ! 止まったら止まるわ!」
「止まっても逃げる」
「逃げてないわ! 距離を取っているだけよ!」
二人は円形の広場をぐるぐる回る。追いかけるルフェールは捕まえようとしておらず、逃げるティーナは距離を取ろうとしているだけなので終わりが見えない。
「どうして距離を取るのかな?」
「ルフェールが距離を取るからよ!」
「私が?」
「そうよ!」
「私は貴方に近づこうとしたのに」
ルフェールのぼそりと落とした声を聞いたティーナは走る速さを緩めた。するとそれと同じようにルフェールも歩く速さを緩めた。
ティーナが止まるとルフェールも止まった。二人は広場の真ん中で向かい合って立った。一メートルくらいの距離が開いている。
「……物理的な距離じゃないわ。これは心の距離よ」
ティーナは言った。
「わたくしとルフェールの心には距離があるわ。本当はもっと離れているでしょうけれど。貴方、わたくしのことを少しも信用していないから」
しばらく沈黙してからルフェールは口を開いた。
「……私は何もしない。私はされる側だ。けれど、貴方は何もしない。何もしてくれない。貴方が私を信じないのなら、私は貴方を信じない」
赤い瞳が呟いた言葉は闇の中を漂う。
ティーナは目を細めた。
「……いいわ。それならわたくしからルフェールに近づいてあげる」
ティーナが一歩、二歩と距離を詰める。ぶつかりそうなほど近くで、ティーナはほぼ真上に顔を向けた。ルフェールは真下に顔を向ける。白く長い髪がカーテンを作り、ティーナの肩にかかった。
「後悔してもしらないわよ」
宣戦布告だった。
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