第3話 暗闇の中の声

「あの声だけの男は何だったんでしょうねぇ」


「さぁ。聞いたことのない声だったわ」


 あれから牢に戻された二人は約束通り怪我の手当てをされ、その後、放置された。仕方なくジョックスはティーナを抱えたまま壁に寄りかかって胡坐をかき、近くに人の気配を感じなくなってから話し始めたのだった。


「あいつらのボスっぽい感じでしたが、いまいちよく分かんなかったっすね。姫様としたあの会話で何か分かったんですか?」


「それなりに」


「へぇすげぇ。さすが姫様ですね」


 これは何の含みもないただの称賛である。


「どうなんですか? 俺たち、こっから出られるんですかね?」


 ティーナは膝を抱えた。もちろん、尻の下にはジョックスを敷いている。


「それはどうか分からないけれど、じきに何をさせられるのかは分かると思うわ」


 ジョックスはふぅんと興味があるのかないのか分からない返事をした。


 ティーナの言葉はよく分からないことが多い。言っていることがジョックスには難しいということもあれば、比喩が独特で理解できないときもあり、理屈が分からないことも頻繁にあった。こういうとき、ジョックスはなんとなく時の流れに身を任せるのであった。そうすると不思議といつも状況が好転するのだ。ごくまれにさらに酷いことになることもあるが、その時はジョックスだけが貧乏くじを引く。


「そういやぁ姫様。ローレンス様に手紙の返事書きましたか?」


「まだよ。舞踏会が終わったら書こうと思っていたの」


「あー……そうか。こりゃまた大げさに心配しそうですねぇ……」


「お兄様がわたくしのことを大好きなのは当たり前だけれど、心配性なのは困ったものね」


 他愛のない話を始めて何十分、もしくは数時間経った頃。


「……誰か来るみたいですよ」


 ジョックスはそれまで話していた内容を打ち切り、牢の外を睨んだ。


 遠くからコツコツと岩肌を叩く足音が聞こえる。最初はジョックスにしか聞こえなかったが、次第にティーナにも聞こえるようになり、遂に足音は鉄格子の向こうに立った。


「お二人とも今晩は。私はレリアンと申します。何も言わず、私について来てくれないでしょうか」


 左手にランプを持ち、困ったように笑うのは、首の後ろで長い金髪を結び、右目に薄い紫のモノクルをかけた男だった。金と銀の間の髪色の男をベルと呼んだ男であることをティーナは覚えていた。


「悪いようにはしない……と思います」


 はっきりしない物言いにジョックスは口を開きかけたが、ティーナの指が唇を押さえたので口を閉じた。代わりにゆっくりと立ち上がり、金髪の男の前に立った。


 男は柔和に笑い、手に持っていた鍵で牢を開けた。


「こちらです」


 レリアンは先導して歩いていく。ジョックスはティーナを抱え直し、コツコツと音を立てて歩いていく男の影を追った。


 鳶色の髪の男よりも無防備に思える。よく知らない人物を背後に置くなど、ジョックスには出来ない。


 鉄格子の扉をくぐった。円形の開いた場所に出たはずだが、暗くて見えない。ところどころ蝋燭の火がついていたのが消えていた。ジョックスの目であってもほとんど何も見えない真っ暗闇だ。レリアンの灯す小さなランプの光だけが頼りだった。


 レリアンは丸い壁沿いに作られた階段を登っていった。ジョックスも階段に足をつけて、気づく。ここまで来る時に降りた階段だ。確信を持って言える。もしかしたらこのまま階段を登っていけば逃げられるかもしれない。ジョックスはティーナに目を合わせた。ティーナはジョックスを見たが、ふるふると首を振り、レリアンの背に向き直った。ジョックスは肩を落とし、大人しくついていくことにした。


 階段の途中には扉のない出入り口がいくつかあった。レリアンが三階分ほど階段を登ったところで扉のない出入り口の奥へ進んでいったので、ジョックスもそうした。


 鉄格子の壁の奥にはもう一枚、岩の壁があった。レリアンは薄暗い岩の壁に沿って進んでいき、四つ目の扉の前で止まった。


「ティーナ様。貴方に会いたいという方が、こちらにいらっしゃいます」


 レリアンが扉を叩くと中から鍵の開く音がした。


 少し時間をおいてからレリアンは扉を押した。ティーナはジョックスの腕の中から床に降り、部屋の前に立った。


 室内は真っ暗だった。月明かりのような、薄い銀の光がかろうじて家具の輪郭を映している。


 誰が何処にいるのかまるで分からない。音もないのだ。何かがいる気配がまるでない。部屋は闇を閉じ込め、しん、と静まり返っている。


 恐怖さえ感じる、音のない暗闇。


 しかしティーナは臆することなく足を踏み出した。


 暗い。真っ暗だ。何も見えない。闇に塗り潰されたような感覚がした。


「ティーナ? 貴方がティーナ・メレズディ?」


 男の声だ。茶会の席で後ろから聞こえてきた声が暗闇の中から呼びかけた。


「えぇそうよ。貴方は鳳声の方ね」


「鳳声か。貴方は何をどこまで知っているのだろう」


 レリアンとジョックスが静かに部屋に入る。するとレリアンの持っていたランプが部屋を灯し、暗闇の中から足が生えて見えた。


「二人で話がしたい。外してくれるかな」


「かしこまりました」


 レリアンは頭を下げて部屋を出たが、ジョックスは眉間にしわを寄せた。


「そんなの聞けるわけがねぇ。てめぇの姿も見せねぇやつが何をするかも分かんねぇのに、大切な主を置いていけるわけがねぇだろ!」


 ジョックスは一歩を踏み出そうとした。しかし、背に気配を感じて振り返ると、そこには腰の剣に手を添えたレリアンがいた。


「すみません」


 そう、申し訳なさそうな顔をしてレリアンはゆっくりと剣を抜く。ジョックスは身構えようとした。


「彼を止めてくれるかな? このままだと貴方か彼が死ぬことになる」


「分かったわ」


 闇の中から聞こえてくる声に、ティーナは考える間もなく答えた。


「姫様!」


「大丈夫よ。外で待っていなさい」


 かろうじて廊下の橙色の光が照らし出すティーナの首元に、闇の中から生えた剣の切っ先が突きつけられている。ジョックスはやはりティーナを一人にすることはできないと思ったが、ここで引き下がらなければティーナを助けられないことが分かった。ジョックスが少しでも動いたら、剣はティーナの細い首を貫く。


「不審な音が聞こえたら問答無用で飛び込んでくるからな」


 仕方なく、ジョックスは部屋を出た。


「それでは、ごゆるりと」


ギィ バタン


 扉が閉まり、うっすら入っていた橙色の光が消えた。あの小さなランプの光でさえ、ずいぶんと明るかったのだと気づかされる。


 ほとんど、真っ暗闇。なけなしの月光が何かの影を照らしているように見えた。


「怪我はない?」


 暗闇が問いかける。


「えぇ。手首が痛いくらいよ」


「距離を誤らなくて良かった。貴方の目の前にソファがある。座ってくれるかい?」


 ティーナは手を前に出して慎重に歩を進めた。指先が何かに当たる。男の言うことを信じれば、ソファなのだろう。手探りで形を確認しながらソファらしきものを回り込み、ゆっくりと腰を下ろす。


「そう、いいね」


 声は満足そうに言った。声の人物にはティーナのことが見えているのかもしれなかった。


「私は向かいに座るよ」


 衣擦れの音がして、何かがティーナの目の前に座った気配がした。


「改めて自己紹介でもしようかな。私はルフェール。それ以上は言えないと言えば、貴方は分かるだろう」


「さぁどうかしら。わたくしはティーナ・レイラ・メレズディ。貴方、わたくしのことをどれだけ知っているの?」


「教えられただけ。ラルク・ヨハン・メレズディ男爵の孫で、栗色の髪と薄い茶色の目をした小柄な女性。供に黒髪の大きな男を連れている。それだけ」


「あら、意外と少ないのね」


「そうなんだよ。御陰で流石に私もどうするべきか迷っている」


 ふぅ、と息を吐く音が聞こえた。暗闇で目が見えないため別の神経が敏感になっているのか、それだけでも大きな音に聞こえる。


 最初に比べれば目も慣れてきたが、光が乏しすぎてぼんやりとした輪郭しか分からない。目の前に誰かが座っている。ただ、それだけしか分からなかった。


「ルフェールが決めてくれないとわたくしもどうしようもないわ」


「そうだよね。どうしようかな。貴方が自由に決めて良いと言ったら、貴方はどうする?」


 ティーナはため息を吐いた。


「本当にまどろっこしいわね。それとも優柔不断の方がいいかしら? ルフェール、自分で考えて決めたことって何一つとしてないの?」


「どうだろう。私には全て与えてくれる人がいるからね。知識、金、物、人、地位や名誉に、この世の全て。私が望んでも望まなくても与えてくれるから、考えたことなんてほとんどないかもしれない」


「受け身なのね。自分から欲しいと思ったことはないの?」


「ないだろうね」


「呆れた」


 再びため息を吐いた。


「ルフェール、貴方、与えられるだけではだめよ。自らも積極的に動いていかないとつまらない人生になってしまうわ。こうなってしまったのも自分から何かをしようとしないからよ。情報が少ないなら自分で調べなさい。自ら考えて行動しなさい。頼るだけでは、時の流れに身を任せるだけでは、一人になった時に何も出来なくてつまらないわよ」


 すぐに返ってきていた返事が滞った。ティーナの目の前に佇んでいるであろう人物は沈黙している。衣擦れの音も呼吸音もしない。ただ、人のような輪郭が目の前にある。


「……そうか、私は今、つまらないのか」


 ぼそり、と声が落ちた。


「貴方は楽しい?」


「今は楽しくないわ」


 ティーナはつん、と言い返した。


「真っ暗で何も見えないなんて嫌よ。それにお茶の一杯も出ないなんて! わたくしは温かいお茶とたくさんのお菓子のあるお茶会でお話するのが好きなのよ」


「そう」


 たった一言。それだけ。肯定でもなく否定でもなく、ただ受け入れた、それだけの返事だった。


 ティーナは肩を落としてソファに背を預けた。


 ルフェールは黙ってしまった。聞きたいことは山ほどあるが、質問ばかりしても仕方がない。目の前の人物が何かを決めるまで、ティーナは何も出来ない。


 と、衣擦れの音がしてぼんやり浮かんでいた人影が揺らいだ。人影は机の上に置いてあった何かを手に取ったように見えた。


シュッ ボッ


「!」


 何かをする音がしたかと思うと、橙色の小さな灯りが点った。突然のことに驚いたティーナが目を瞬かせる。目の前の人物はティーナが目を慣らしている間にマッチの火を机の上に置いてあったランプの中に入れた。


 辺りがぽっと明るくなる。ティーナは目を細めた。


 細い指がランプを二人の間に引き寄せる。


「……」


 ティーナは目の前に座っている人物を凝視した。


 灯りが橙色でも分かる。目の前の人物は、白い。


 服が白ければ肌も白い。そして肌が白ければ髪も白い。ほとんど真白で、色があるのは目の赤くらいだった。


 白く長いまつげが影を落としている。じっと橙色の炎を見つめていた瞳が、まつげ越しにティーナに向けられる。


「……お砂糖みたいね」


「舐めてみる?」


「いやよ不味そう」


 ティーナは渋い顔をした。


「貴方なら、私の姿を見ても驚かないと思ったよ。予想はついていたのだろう?」


「まぁそうね」


 ゆっくりと瞬きするティーナ。


 白い男ルフェールは前かがみになっていた身体を元に戻した。


「あの人が貴方を推薦した理由が分かったよ。貴方は賢く、それでいて度胸がある。私の容姿を怖れない、貴方のような人は珍しい。キッド以来かな」


 ルフェールは形の良い唇を曲げて笑った。綺麗な笑みだった。


「誰に聞いたのかは聞かないけれど、その方もルフェールもわたくしのことをそれだけ買ってくれるのは嬉しいわ。これでようやく、ちゃんとしたお話ができるのかしら?」


 小首を傾げるティーナ。ルフェールはそうだね、と頷いた。


「ティーナ・メレズディ」


 ゆっくりティーナの名を呼び、ルフェールは続けた。


「貴方に私を守ってもらいたい」


 数拍。


「……」


 ティーナは続きの言葉を待ったけれど、ルフェールが言おうとしないのでしびれを切らした。


「何から守るの? 詳しく教えてくれないと何も出来ないわ」


 ルフェールは口を開いた。


「私の命を狙う、人物から」


 ぽつ、ぽつ、と言葉が落ち、再び沈黙。


「……」


 いつまで経っても話がまるで進まない。


「もー!」


 ついにティーナは頬を膨らませて怒った。


「それだけじゃ分からないでしょう!? もっと話してくれないと、どうしようもないじゃないの!」


「それだけ言えば貴方なら分かると思って」


「ある程度は分かるわよ! よく知っている方ではなく、全く面識の無いわたくしに頼むくらいだから、ルフェールの命を狙っている方は身近にいるんでしょう!? それくらいは分かるわよ! けれどね、貴方の望みが分からないの! 貴方がこれからどうしたいかが分からないのよ! 守ってもらいたいと貴方は言ったけれど、守るにもいろいろあるのよ!? 一生守り続けるの? それとも犯人が捕まるまで? 待っているだけでいいの? こちらから何かしなくても良いの? 貴方はどこまで考えて、わたくしに守ってもらいたいと言ったのよ!?」


 ティーナが怒涛の勢いで申し立てると、ルフェールは右手を顎の下に持っていった。


「そうだね……。考えていなかった。ただ、ラルクの孫に守ってもらえと言われたからそうしただけで……」


「何よ! 貴方の意思じゃないのね!? だから会話に実りがないのね!?」


バンッ


 ティーナは立ち上がって机を叩いた。


「もう少し考えなさい! これは貴方のことなのよルフェール! 貴方が死ぬか生きるかの話なんでしょう!? それなのに当の本人がどうでも良いと言わんばかりの態度なんてありえないわ! いや! わたくし、貴方みたいな無気力な人、嫌い! 嫌いよ!」


 眉を吊り上げて怒るティーナ。ルフェールはぱちくりと目を瞬かせた。


「明日まで待ってあげるわ! 明日また同じ時間に会いましょう。それまでにしっかり考えておくのね!」


 強く言い放ち、くるりと方向転換してランプの光を頼りに扉まで歩く。そしてティーナはどんどんと乱暴に扉を叩いた。


「開けてちょうだい! 帰るわ!」


 扉を叩き続けていると、控えめに扉が開いた。扉の隙間から目を大きくして驚いているレリアンと、その上から眉を寄せているジョックスが覗いた。


「あの牢へ帰るわよジョックス!」


「はぁ……なんでそんなに怒ってんですか姫様?」


 怒号を響かせるティーナにジョックスは首をひねる。


「あの方が怒らせたからよ!」


 振り返ったティーナの視線を追い、真っ暗な部屋の中に一つだけ灯ったランプの橙色の光に照らし出されている人物を見て息を飲んだ。


 白い男だった。橙色の光でも分かる。その空間を、世界を漂白したかのように白い、この世のものとは思えない容姿の男。あの、舞踏会の会場で出会った男と瓜二つだった。


「いい!? 明日までよ! しっかり考えるのよ!」


 ティーナはそんなこの世のものではないような男に、子どもに言うような態度で念を押した。白い男、ルフェールは目を大きくしてじっとティーナを見たまま何も答えない。


「行くわよジョックス!」


 ティーナが両手を上げる。ジョックスは何もかも訳が分からなかったが、とりあえず主の要求に答え、ティーナを腕に抱えた。ティーナはジョックスの腕の中でぷんぷん怒った顔をしている。


 ジョックスが視線を動かすと、同じように不思議そうな顔をしたレリアンと目が合った。


「えっと……とりあえず、牢に戻ります?」


「……そうしてくれ」

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