紫の桜と桃色のスミレ

秋田健次郎

紫の桜と桃色のスミレ

 河川敷にあるボロボロのベンチに腰を掛ける。

 目の前にある川はどぶのような色をしており、美しさとは程遠い。

 別段何をする訳でもなくただ川を眺めていた。若いころに思い描いていた老後の姿とはまるで違う、退屈で毎日を消化しているだけのような日々。

 清々しいほどに快晴であった10月のある日、私はいつものようにそこに座っていた。そして、私の背後で甲高いブレーキ音とともに自転車が止まった。


「やっと見つけた。」


 私の隣に突然座ってきた少年は”カタリ”と名乗った。


「僕は小説を人に届ける仕事をしているんだ。これ、読んでみてよ。」


 少年が私に手渡してきたその小説は”紫の桜”というタイトルだった。


「読み終わるまで待ってるよ。感想も聞きたいしね。」


 少年はそう言うと鞄から漫画を取り出し読み始めた。少年から渡された小説は見たところ一般的な文庫本に比べるとかなり薄く1時間ほどで読み切れてしまいそうなほどであった。


 私が黙々と小説を読んでいる間、少年もまた漫画を黙々と読んでいた。電車が鉄橋を渡る音が遠くから聞こえてきて、静かな河川敷に響き渡る。久しぶりの読書に目が少し疲れてしまい、川の方を見てみるとそこには普段は何もない水面に黒っぽい色をした水鳥がいた。あの水鳥もこの少年も一体どこから来たのだろうか。そんなことを思いつつ、再び手元へと視線を移す。


「お、読み終わったかい?どうだった?」


 少年は目を輝かせながら、屈託のない笑顔で言った。

 ”紫の桜”は女子高校生の話であった。幼馴染の青年との何気ない会話が中心の物語で幸せそうな様子が文字を通して浮かんでくるようだった。しかし、この物語はこのような形で締めくくられていた。


 ”彼の両親の仕事の都合で転校が決まった。

 それからはあっという間だった。

 それまでずっと一緒にいたのに突然離れ離れになるという現実を受け入れられなかった。

 最後の挨拶の時もなんだか照れくさくて、どこか冷たい態度を取ってしまった。

「どうせそのうち会えるでしょ。」

 私はかっこつけてそんなことを言った。

 それから彼に会うことは無かった。

 どうしてあいつのためにこんなに後悔しなきゃいけないだと思った。

 でも、今になって私は彼のことが多分好きだったんだということに気が付いた。

 今更、何を思っても彼には会えない。”


「なんだか切ない話だね。じゃあ、おじいちゃんの好きな場面教えてよ。」


 少年は純粋無垢な笑顔で言った。

私は


 ”彼は


「好きな花ってある?」


 と聞いてきた。だから私は


「桜かな。」


 と答えた。すると彼は


「もし、桜が紫色だとして、それでも好き?」


 と言った。私はまたいつもの屁理屈かと呆れた顔をしながら


「紫の桜はちょっといやだなあ。」


 と答えた。


「それは桜が好きなんじゃなくて、桃色が好きなんだよ。」


「だったらあんたは桃色のスミレ、綺麗だと思うの?」


 普段、屁理屈返しをされることのない彼は少し驚いた後なぜか照れくさそうな顔で


「そりゃ、綺麗さ。」


 と言った。”


という場面を挙げた。


「なるほど、確かに良いね。」


 少年はどこか納得した様子だった。


「それでさ、最後にお願いなんだけどあなたの小説を作ってもいいかな?」


 彼のその質問に私は快諾すると少年の左目が薄緑色に発光し始めた。

 そして、間もなく鞄の中から一冊の小説を取り出した。


「これがあなたの物語。これをまた必要な人へと届けるんだ。」


 目の前で摩訶不思議な現象が起きたにもかかわらず私は驚かなかった。

 むしろ、どこか安心した。


「じゃあね。お元気で。桜太郎さん。」


 その時、たしかに少年は私の名前を呼んだ。それで私は確信した。


「その物語を届ける相手は生きているのか?」


 意を決してそう尋ねた。


「そりゃあ、生きてる人の物語しか僕は用意できないよ。」


「そうか……」


「それじゃあ。」


 彼は柔らかい笑顔でそう言うと自転車にまたがってあっという間に姿を消した。


 私の物語のタイトルは”桃色のスミレ”だった。私も彼女もあの日の何気ない会話を何十年も心にとどめ続けた。それで得たものはあの頃の気持ちを確かめ合ったのみだった。私は大きな虚無感に襲われた。この月日は後悔するにはあまりに膨大すぎたからだ。

 私の物語を手に取る彼女の姿を思い浮かべながら桜もスミレも咲いていない河川敷で濁った川を眺める。そこに水鳥の姿はなく、ただ重い静寂が横たわっていた。


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紫の桜と桃色のスミレ 秋田健次郎 @akitakenzirou

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