第15話
答えは決めた。手を、強く握りしめた。
先日の、月光に照らされた悲劇のヒロインなんて嘘みたいだ。今度は太陽に照らされた聖者のようだ。なんて恥ずかしいことを思っていたのだ、と今更ながらに思う。
どうやら人間の心境の変化は激しいらしい。もし僕が人間としての道を踏み外していなければ。
問いへの返事したさで病室を飛び出してきたのはいいものの、1つ、肝心なことを忘れていた。
僕は謙二の勤務時間も、いつもいる場所も知らない。
為す術もあてもなく、病院内を彷徨った。
1ヶ月半も同じ場所で過ごしているのに、未だに目新しいものがあちこちで発見される。改めて感じてしまう。いや、感じさせられる。僕はただ見なかったのではない、何1つとして見ようとしなかったのだ。少なくとも見たような気になっていただけだと。
昼を知らせるサイレンが街全体に鳴り響く頃、ついに彼を見つけることは出来なかった。
なんて無駄な時間を過ごしていたのだろうと徒労に暮れ、諦めて病室に戻ろうとしたその時、後ろの医務室の扉が開いた。絶念した瞳で後ろを振り向いて、その光景を凝視した。
宮美が居た。彼女は僕に気づくそぶりを見せず、資料を懐に携えてこちらに歩いてくる。暫くそのままの状態を保っていると彼女も僕がいると気がついたのか、一瞬こちらを見たが、すぐに視線を元に戻し、淡々と歩を進めた。ついにすれ違う。思惑が頭を駆け巡る。
「あの...」
意識よりも先に言葉が出た。
「け、謙二さんはどこに居ますか?」
数々の思惑から絞り出した一言でなく、突発的に出た、躊躇した一言だった。
「え、あ、ああ。彼なら今日は休みだから家にいるわ」
予期せぬ質問に動揺をあらわにしながらも、彼女は質問に答えた。
「そうですか、ありがとうございます」
礼を言うと、もと帰る道へ引き返した。
なんであんなこと言ったんだろう、と頭を抱えながらその場から退こうとした。
すると、後ろから声が聞こえた。何事かと振り向こうと思ったが、僕に声をかけるのは宮美くらいなものだし、第一彼女が僕に話しかける理由が見当たらない。空耳かと思い、気に留めず歩き出そうとした。
そして聞こえた2度目の空耳。今度は言葉に抑揚が付いていた。やけに現実味のある空耳と思いながらも再び歩き出す。
すると次は肩を鷲掴みされ無理矢理後ろは振り向かされた。
「ちょっと待ってって言ってるでしょ!」
廊下に声が響き渡るくらい甲高く大きな声で彼女は叫んだ。
いきなりの怒声に少々体をビクつかせ、驚いた表情で後ろを振り向くと、僕の反応を見た彼女も驚いたのか、自分と同じような表情をさせ僕を見ていた。外から見てこれほど異様な光景はないだろう。
依然瞬きを続けている僕を見て、彼女は申し訳なさそうな顔になりながらこちらを伺っていた。
「どうしたんですか」
僕は一声かけた。彼女が申し訳なく思っているにもかかわらず、僕の心の中は何故か高揚していた。まるでその時を待っているかのように。
「いや、大したことじゃないのよ」
彼女は下手にはぐらかしてその場を立ち去ろうとした。僕は衝動的に彼女の腕を掴むと、こちらに引き戻した。
「わかった。わかったから腕から手を離してくれない?」
焦るように自分の手を背中の後ろに追いやると、彼女は観念したように顔をしかめ、口をゆっくり開けた。
「あなた、うちに住んでいいわよ」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。近い過去にも味わった感覚。やっと情報が頭の中にインプットされると、次に言葉にするのに時間がかかった。口の中は既に、乾パンを食べたように乾燥している。
わずか3、4秒。その間に僕の脳は信じられないほど活用されたと思う。
「本当にいいんですか」
喉の奥に残っていた唾液の残りカスで口を潤わせると、やっと言葉にすることができた。
「ええ、いいわよ」
正直なところ宮美の反応が一番心配だったのだ。彼女に聞こえないように小さく、しかし極端なほどに安堵の吐息を漏らした。彼女にそれが聞こえたのかは分からない。ただ妙に眉に皺をつけているのが、彼女の顔に不釣り合いなだけだった。
「だけどね」
一言で現実に引き戻された。
「私たちの家に来たらそれなりに知ってもらうことがあるかもしれない。それでもいいの?」
拍子抜けした。もっと危ない話題かと思っていたが、そうではないらしい。たったそれだけのこと、既に覚悟をしている。
「全然、大丈夫ですよ!居候させてもらうなら、それくらい、当然ですからね」
力強く胸を張った。彼女は心配そうな顔をしたまま踵を返すと、僕の先へ歩いて行った。
結局その後何の進展もないまま、淡々と時間が過ぎて遂に1日が終わってしまった。
一体覚悟とは何だったのか、拍子抜けしたような、がっかりしたのか安心したのか、よく分からない感情だった。
その後無事謙二に会うことができ、一通り事情を説明したあと、居候させてもらえるようお願いすると快諾してくれた。
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