第14話

病室へ帰って女性の病室を一瞥する。彼女の気配はなく、病室は静まり返っていた。彼女の自室のカーテンを開けそうになった欲に塗れた手を呪ながら、自分の部屋のベッドに寝転んだ。

目の部分に腕を置くと、煌煌としていた風景は薄墨色となり、次第に涅色と原型を見せないようになった。

目が覚めた頃には、外は月光が外を照らし始めていた。寝た時間が時間なだけになかなか寝付くことができず、起き上がったまま外の風景を眺めた。

テレビを見てもいいのだが、カーテン1枚に遮られた頼りない壁だ。他の同居者に迷惑をかけたくないという意味でテレビは極力見ないようにしていた。

なので僕の行動はいつもボーッとカーテンか天井を見るか、外の景色を見るかの3択に限られていた。

階層が下がったのもあり、広くを眺めることはできなくなったが、地上に近づいたことで人々の生活をより身近に感じるようになった。

相変わらずの帰宅ラッシュで街は混雑しているが、窓の内から見ている僕には滑稽に思えて仕方なかった。

頑張っているな、とよく頑張れるな、という、言葉のイントネーション1つで意味が大きく変わってしまうような言葉しか出てこない。

僕だったらあの混雑から抜け出せるのだろうか。もしかしたら家に帰るのを諦めて駅前で野宿するかもしれない。

悠々と外を眺めていると病室の扉が開く。相変わらず温かみのない足音をさせ、自分がいる部屋の方へと歩いてくる。

彼がこの部屋に来るのはいつぶりだろう。足音が2つするってことは彼女も来ているってことだろうか。

カーテンが掴まれ、思い切り良く開かれる。

「おっす。いやー、この部屋に来るのもいつぶりだ。お?相変わらず具合の悪そうな顔しやがって。って、そういえばさっき会ったんだっけか?」

一瞬でその場をまくし立て、高らかに笑っている。

「ちょっと、謙二さん!ここ病室ですよ!声量をもうちょっと下げてください。他の同居者に迷惑かかります」

「そう言ってるお前だって声でけえじゃねえか」

注意しても反省するようなそぶりを見せず、笑いながら反論してくる。

「いいからあんたは少し黙りなさい。全く、あんた医者でしょ。そんなことくらいきちんと出来ないでどうするの」

宮美が持っていた診察書のファイルで謙二の頭を叩いた。

彼は途端にしょげたような表情になる。これが俗に言う、かかあ天下というものだろうか。少々違うような気もするが。

「で、あなたはどうなの?怪我の調子は?」

名前を与えられたから今まで、たったの一度も「広」と呼んでくれない。一体何故呼んでくれないのか、その心理はわからないが、無理して強要させようと思わない。

「大分良くなりました。リハビリも前に比べて苦じゃなくなったし。個人的にはもうそろそろ退院してもいいんじゃないかな、とか思ってます」

半分冗談で言ったつもりだった。虚勢を張ってみたつもりだった。

確かにリハビリは苦じゃなくなった。だが退院したらしたでどうなるんだ?行くあてもないし、金銭面的にも不安が募る。言ってみれば僕の未来はお先真っ暗なのだ。

「怪我が良くなったんなら何よりだ。これはお前に言い忘れていたことだが、一応お前が退院したら俺たちとは別の人が、住む場所を確保しているからそこに住めばいい。生活費なんかも国から補助金が与えられるだろうしな」

それを聞いて安心した。退院するのに自分が危惧していたことが解消されるのだから。ほっと胸のうちを撫で下ろす。

「だがそれはあくまで身内が迎えに来なかったり、身元引き受け人が居ない場合なんかに適応される。身内がいるんなら殆ど適応されないだろうな。補助金くらいは出るだろうが。だから、広」

謙二がニヤリと笑う。僅かコンマ数秒の間に様々な思惑が、まるで走馬灯のように頭を過る。

「俺たちの家に住まないか?」

一瞬では理解し得ない爆弾発言がまたも飛び出した。今度こそは宮美の蹴りが謙二に放たれる。宮美のいる方向に視線を移し、制止させようとした。

だが彼女は多少不満そうな顔をしながらも、腕を組んで黙って謙二を見ていた。

短いようで長い沈黙が病室の一室で留まり続けて居た。三方それぞれに、それぞれの思惑があることだろう。

2人がどう思っているかはわからないが、僕の思考は一瞬停止していた。再び稼働し始めた脳には、膨大な量の情報が流れ込んで来た。

宮美が何も言わない。というならば、謙二は既に彼女から了承を得ているということだろうか。

「ち、ちょっと待ってください。考えさせてもらっても構いませんか?」

依然思考し続ける脳を無理矢理制止させるように言葉を絞り出した。

彼はさも当然かのように首を縦に振った。

「まあ当然だろうな。一応、物件を探す人には一旦探すのをやめるように言っておくから焦らず、じっくりと考えてくれ。今後の人生に関わってくることだからな。俺たちにかかる迷惑なんか気にしないでくれよ」

僕が首を縦に振ると、謙二は穏やかにほくそ笑んだ。宮美の顔は依然険しいままだが。

「まあそういうことだから。今日は日も傾いちまったし、ゆっくりしな。返事はまた病院で出会った時でいいから」

そう言い残すと満足そうにして、病室から出て行った。

病室の扉が閉まる音と同時に、張り詰めていた緊張の糸が切れるようにして大きく溜息を吐いた。いつのまにか額には汗がジワリと浮かび上がっていた。

窓を開け汗を拭うと、仰向けでベッドに俯いた。

窓から入ってくる冷ややかな風が首筋を優しく撫でる。明るく照らされた月光の一部が自分の上体を照らす。まるで悲劇のヒロインにでもなったかのような光景だった。

うつ伏せにしてたのを体を丸くさせ、顔を蹲らせる。今日起きた出来事が全て夢だったら良かったと思う。

彼らの家に住みたくないわけではない。ましてや物件を探してもらいたくないわけでもない。ただ思い違いをしていた。ずっと病院にいて、重要なポジションに付かずプレッシャーのなかった1ヶ月半。その間に僕の精神は腐ってしまったのだ。

このまま何も起こらず死にたかった。

言葉にできず、口にも出せないが、正直なところ、それが本音のように思う。謙二の問いも恐らくそれが答えだろう。一種の現実逃避だと思う。改めて、腐ったのだ。身も心も。

変化を求めないというのも1つの意見かもしれない。だが現段階で変化を求めなければ先に進めないのだ。

幾重にも連なる分岐路から幾度となく選択し続けなければならない。それは人間が生きていく中で、利己的でありながら、確かに必然的な事なのだ。逆にそれがなければ人間は人間ではではなくなり、所詮よく似せた銅像に過ぎないのだ。

立ち止まっていたらダメだ。臆病な自分は、ダメだ。

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