第13話

事故から1ヶ月と少し経ったくらいだろうか。僕は普通の病室でいつものように朝食をとっていた。相変わらず量が少なく、四六時中腹を空かしているのだが、今でも贅沢は言えない。食べられるだけ感謝だ。

今日もリハビリをしなければならない。主に歩くことの練習だ。痛みは伴うが、我慢しなければいつまで経っても治るものも治らない。謙二が懸念していた怪我からの後遺症も殆ど姿を現さなくなり、実に良い兆候だ、と謙二がいつだか言っていた。

病室はもしもの時にすぐ対応できるよう、複数人で使う病室に預けられた。因みに、僕のいる場所は入り口から見て一番奥の右側。当初は1人だったものの、数週間後には薄化粧の若い女性が僕の隣の病室へと入っていった。

その女性とは病室は隣なのに言葉を交わしたこともなく、面識さえなかった。隣の人が女性だとわかったのも、謙二に聞いたからだ。面識がないのも、女性も僕も元々リハビリや用事がある以外に決して部屋から出ないからだ。

カーテン一枚に仕切られた病室の中は比較的軽便で、点滴の他に、机、その上にテレビ、棚がある。緊急治療室に比べても、その利便性は一目瞭然だ。

後々謙二に聞いた話だが、緊急治療室にあれほど長く居ることは普通ないらしい。だが当時の僕は情緒が不安定で、いきなり部屋を変えるのも如何なものかと思い、移動するのを遅くしたらしい。

朝食を摂り終え、いつものリハビリの時間になった。

起き上がると、ベッドの側に掛けておいた松葉杖を使って歩き出した。

当初はずっとベッドに寝ていたおかげで、腕の筋力が落ち容易に松葉杖を使うことができなかった。だがある程度動けるようになって、腕の筋力も元に戻り今では人並みに使えるようになった。

幸いにも右足の怪我は2週間ほどで大方完治した。今では右足は完全に地に足つけれられるようになった。だから車椅子から松葉杖へと転向した。

隣の様子をふと伺う。人の気配は感じられるが物音が全くしない。普通は聞こえるはずの息遣いさえ聞こえないから気味が悪い。

病室を出てエレベーターの前まで来た。下を指しているスイッチを押して迎えがくるのを待つ。いつも使っているのに、これを使う時間だけは一向に慣れない。体が慣れてはいけないと暗示されているのだろうか。その可能性すら疑ってしまう。

迎えがくると扉はゆっくりと開いた。

中の構造はいたってシンプルで、不満な点など何1つ見当たらないのに妙に心拍数が上がる。

中に入ると1と記されたスイッチを押して、扉が閉まるスイッチを連打した。扉は望み通り颯爽と閉まると、下に向かってその身を降ろした。

右足の貧乏ゆすりで気を紛らわしながら1階に到着するのを待つ。心拍数はゆっくりと早くなっていき、到着する頃には自分にまで心音が聞こえて来ていた。

扉が開くと飛び出るようにして外へ出た。受付嬢が身を案じ、飛び出そうとしたのを右手を上げて静止させた。彼女は動きを止めるとこちらを見てにこやかに笑った。僕は一礼すると、ここから正面右側を入ったところにあるリハビリテーション室に移動した。

病院の関係者の半数以上が僕の状態を把握しているらしい。謙二が言っていた。そのおかげで助けが必要な時などに助けてもらった。その好意に甘えてはいけないのだが、怪我を早く治すために背に腹は変えられなかった。

陽が当たらないため薄暗く、じめじめしている、何かが出そうな廊下を抜けリハビリテーション室に着くと、既に僕の担当の作業療法士は、部屋の中にある椅子に座って僕が来るのを待っていた。

遅れたことを詫びると、彼はいつものことだと快諾した。

いつものようにリハビリが始まった。足を曲げたりすることから始まり、最後はつっかえを使って歩行練習をした。リハビリ中は常に多少の痛みを伴うが、そんなことに根を上げているようではリハビリなんてできない。顔をしかめながらも痛みに耐え、3時間に及ぶそれは終わった。

担当者に礼を言うと、また来た道へと帰路についた。

相変わらず薄暗い廊下を歩いていると、前方に人影が映った。多少ビクつきながらも目を凝らすと、白衣を着ている何者かがこちらへ向かって歩いて来ている。

その人物の顔を伺うと同時にこちらへ向かって走って来た。僕は驚きのあまり一歩も動けず、その場に腰を抜かした。分かっているはずなのに。僕にそんなことをしてくるような人物はこの世にたった1人、謙二なはずなのに。

彼はこちらに走って来て、腰を抜かしている僕の目の前にしゃがむと高らかに笑った。

「広、お前本当に面白いな。やっぱりお前は脅かしがいがある」

「いいから...、早く起こしてください」

はいはい、と先ほどの笑いの余韻が残ったような声で返事をすると、僕の腕を掴んで軽々と起き上がらせた。

まったく、怪我人を驚かして腰を抜かさせた挙句、謝りもしないなんてこの男は本当に医師なのか?非常識な一般人としか思えない。それにしても...

「謙二さん、目良いんですね。あんなに遠くから見えるなんて」

「あ?俺別に目が良いわけじゃないぞ。ただコンタクト付けてるだけだ。まあお前みたいに、背が高いがガリガリの奴が松葉杖を使ってたら特徴的すぎてすぐ分かるさ」

彼は褒められた方がよほど嬉しかったのか、饒舌に、そして得意げに語った。

すると僕はあることを思い出した。そういえばこの間、足の状態の途中経過を見るために、レントゲンを撮る予定だったのだ。だが僕の大寝坊で謙二に大きな迷惑をかけてしまったのだ。これはこの間の出来事を払拭するチャンス。謙二をもっと褒めてやろう。そしてその出来事諸々記憶から消えてもらう。

「それでもすごいですよ。こんなに薄暗いのにわかるなんて」

「そんなに薄暗いか?もしかしたら俺、夜目が効くのかもな。お前がどんなに悪事を働こうとも俺の夜目が見逃さないからな」

また笑った。

どうやら上手くいったようだ。機嫌が良くなった。この間の出来事も忘れたことだろう。

「じゃあ俺も仕事に戻るから。お前も気をつけて帰れよ」

はい、と返事をすると、彼は踵を返して歩き出した。僕も帰ろうかとエレベーターの方向に歩き出した時、ああそれと、と彼は再度振り返って言った。

「この前の事、まだ忘れていないからな」

バレていたか。

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