第9話
その晩、記憶を失ってから初めて夢を見た。起きてしばらくしても鮮明に思い出せるほどにひどく酷い夢だった。狭くてゴミが散乱しているアパートの一室と思われる場所で、知らない男から暴力の限りを尽くされていた。そして最後には包丁を振り上げて、僕に目掛けて振り下ろしたところで目が覚めた。
起きてすぐは夢のおかげで倦怠感が酷かった。目を閉じ、しかし寝ないで聞こえてくる時計の針の秒数と一緒に時間を数えていた。また少し眠たくなったところで病室の扉が開かれる音がしたので身を起き上がらせた。
カーテンの隙間から顔を覗かせたのは謙二だった。それと後ろにも誰かいるような気配がした。
「おはようございます。あと後ろにいるいる人って誰ですか」
「おはよう。なんだ、もうバレちまったのか。しょうがねえな。ほら、出てこいよ」
そう言うとカーテンを開けて体を退けた。だがそこには誰も居ず、せいぜいあったのは車椅子程度だった。
脳が唐突に起きた不可解な出来事に整理がつかず、数秒間放心状態に陥った。謙二の顔を覗いて見ても彼もどこに行ったと言う様子で周囲を見渡している。
「あの、謙二さん。誰も居ないんですけど...」
「ああ、誰も居ないな。あれ、どこ行ったんだろう?」
やけに白々しく聞こえるのだが、その真意を彼に問うことはなく消えた人物の居場所を考えた。
すると左側のカーテンがわっと宮美が飛び出してきた。ある程度想像はしていたもののやはりいざとなるの驚くもので、威嚇された小動物のように縮こまりヒッと言葉を漏らした。2人とも僕の驚きように高らかに笑った。こうなってくると僕も笑わない訳にも行かず驚かされた側なのに何故か笑った。
「よし、じゃあ今日は昨日の検査の結果を聞くからな。昼からだからまた準備しとけよ」
謙二は未だに綻んだ顔でそう言い残すと2人とも病室から出て行った。僕には分かっていた。2人は無理をして笑っていた。あの笑顔の裏には哀情、憤怒、そして艱苦、いいもしれぬその感情を、あの笑顔は持ち合わせていた。何故だかはわからないが、きっとそうだった。扉が閉まる音と同時に再び静寂の訪れた病室に取り残された僕は、昼ごはんが持って来られるまで何をしていたかはよく覚えていない。恐らく寝ていたか外の景色を見ていたか、そのどちらかだろう。
だがそんなことはどうでもいい。とにかく腹が減っていた。だから昼ごはんが病室に届いた時に他の記憶は感激とともに全て吹き飛んだ。僕の記憶もこんな風に無くなっていたのならこれほど滑稽なことはない。
届いたご飯にありついた。病院のご飯は白米、魚の焼き物、南瓜のおひたし、野菜の漬物と当然のことながら量は異常に少なかった。食べ終わった後に気づいた。僕は背は高いのだが、ひどく貧相な体なのにとんでもないくらい大食らいらしい。
追加でもう少しご飯を出してもらおうかと考えたが、先日あのような騒動を起こしたのにそんな図々しいお願いができるはずがなく、そのまま2人が来るのを待った。
今度は2人とも普通の表れ方をした。安心半面、落胆半面とよく分からなかったがすぐに切り替えた。
謙二は僕を車椅子に乗せるとそのまま僕を連れてエレベーターの方向へと向かった。
「よし、じゃあ最初は整形外科だ。主治医は俺だから安心しろ。取り敢えずレントゲンを撮ってもらったからその結果とこれからのリハビリについてとかを話すからな。まあそれなりの結果が返ってきているから覚悟しておけよ」
整形外科の診療室に向かう最中、つまりエレベーターに乗っている最中、彼は僕の気がエレベーターへと向かわないように止まることなく話し続けた。
診療室に着いて感じとは交代し、宮美が僕の側に立った。しばらくすると謙二が奥から出てきた。そのまま座り心地が良さそうな椅子に座り手を掛けると、普段の姿からは伺えないほどその姿は見事に医師の様になった。
「さあ、まずはこれを見てくれ」
そう言うと机の上に置かれてあったCT画像を僕に手渡した。
「これは左手のレントゲンだ。車はお前から見て左側から当たったから右手より左手の方が損傷がひどい。この部分」
僕が持ってる左手の画像の腕の部分を指差した。
「前腕骨の部分に罅が入っている。ちなみに右手は少しひどい擦りむき傷程度だ。良かったな。本当なら肉が抉れてもおかしくないからな」
罅よりも肉が抉れる方が現実味が出て鳥肌が立つ。謙二は間髪入れずに僕の左手の惨劇を写したCT画像を取り上げると別の画像を手渡した。これは...どこだろう。
「じゃあ次、これは肋骨だな。もともと折れやすい骨なだけに2、3本ポキっていっちゃってるけど、でもまあこれに関してはあまり深刻に思うことはない。もともと折れやすい骨だからな。きちんと処置とリハビリを行えば他の骨より治るのは断然早い」
治るのが早いのは良かったが、骨が折れていると目の前で単刀直入に言われるとやはりショックだ。
謙二はさっきと同じように画像を取り上げると次は2枚まとめて渡してきた。1つはすぐにわかる、股関節だ。問題はもう1つの画像。おそらく足だと思うが、素人で無知な僕でも容易に伺えるほどそれは酷い有様になっていた。これには流石にショックが隠せなかった。
「謙二さん、これは足だと思うんですけど...これは本当に僕の足なんですか」
ああ、と謙二は答える。
「それは紛れも無い、お前の足だ。どうだ、見事な有様だろう。俺もこんなに酷いのは久しぶりに見たよ」
横から写真を覗いた宮美は信じられないといった表情で驚愕した表情を露わにした。
「お前が前に無理したからこんなことになったんだぞ。こっちとしても最善を尽くそうとは思うが、もしかしたら後遺症が残るかもしれない。可能性は低いがな。その辺は覚悟してもらいたい」
「例えばどんな後遺症が起こり得るんですか」
後遺症という言葉にいまいちピンと来ず、詳しく聞いてみる。
「そうだな、例えば関節の可動領域が狭まったり慢性的な痛みが続いたりする。まあこれも最悪の事態に直面した時なんかに起こるときだからな手術がうまくいかなかった時とか、きちんとリハビリをしなかった場合とかな」
最後の言葉の語尾を強くして彼は言った。こちらを下から舐めるようにジロリと見ながら。こういうことに関してはまだ僕には信用がないんだと思い知らされる。至極当然なことだが。
「まあこれに関してもあまり気にすることはない。さっきも言ったが、完全に無いとは言い切れないが可能性は低いからな」
前かがみにしていた背を椅子にもたらさせ一息つく。椅子はギィと高い呻き声を出し、謙二の上半身を支える。
「まあこんなところだな。どうだ、なかなかのものだろう。この怪我だからな。当分の間はリハビリの時以外絶対安静。もし変なことをするようだったら俺も治すのをやめるからな」
そんな形相で脅さなくても、もう絶対に変な真似はしない。うなづくと彼は緊張を解いたような面持ちで僕と宮美を部屋から出した。そして後を追うような形で謙二も付いて来た。宮美は診療に向けての準備がしたいとのことで、彼に僕を預けるとどこかへ行ってしまった。
脳外科の診療室に向かっている最中、話せる状態ではなかった。謙二の顔は赤いマントに魅せられた牛のようにその身を前に屈めさせ、目の前をものすごい形相で睨んでいた。下手に触れたらでもしたら襲われそうだという、無益な心配さえしてしまうほどだった。
緊迫した状況の中、やっと脳外科の診療室まで着いた。依然謙二の顔は変わらないままだが、とにかく診療室に入った。宮美はとっくの前に着いていたようで椅子に座っていた。
謙二は僕を車椅子から椅子へと移動させると話す準備が整った。正直に言って僕はこの場から今すぐにでも消えて居なくなりたい。整形外科に行った時とは全く違う緊張、緊迫、それに伴う2人の切迫感が、部屋の雰囲気を明らかに変えていた。だがいつかは聞かなければならないことだ。そう割り切って、僕も2人のいる空間へと踏み込んだ。
「じゃあこれから今のあなたの状態を話していくね」
彼女の声の調子は明らかに違う嫌忌の意を纏って、2人のいる空間に土足で踏み込もうとしている僕を容赦無く排除しようとする。
「話すことは大きく2つ。まず1つ目、これはもうあなたも薄々気づいていると思うけど、あなたは記憶障害を抱えている」
まあ、それは分かっていた。今更驚くようなことではない。ある程度覚悟していたから。でも記憶が思い出せないっていうのはやはり何か欠けているような、感じたことのないもどかしいような、新しい心理的な痛みだった。宮美は説明を続ける。
「それも高次脳記憶障害の記憶障害をね。これは起こった出来事を覚えておく力に大きな影響を与えるの。今あなたは昔起こった出来事を思い出せないでしょ?つまりそういうことなの」
彼女の声の調子は変わらず嫌忌を纏っていた。僕はそれを全て無視して彼女に質問する。
「その記憶障害っていうのはどんな状態なんですか。つまりえーっと...この記憶障害は一生治らないんですか」
「絶対に治らないとは言い切れないわ。何か大きな出来事がキッカケで記憶を取り戻したっていう例もたくさんあるし。だけど記憶を取り戻すほどのキッカケって早々起こるものじゃないからね。可能性がある程度に考えておいて」
可能性がある。その言葉だけでも胸の荷になっていたものが随分壊れたように感じた。
「そうですか。そう言ってもらえるだけでも助かります」
彼女はうなづくと間髪入れず次の話題に移る。
「これに関して伝えたいことはこれくらいかな。じゃあ2つ目。あなた、エレベーターに乗ったり車に乗ったりしたら異常行動を起こしたわよね。それに関してのことよ」
それだ。僕が特に気になっていたことは。僕の座っている椅子に寄りかかっていた謙二は、眉を微かに動かし体を椅子から遠ざけた。場の空気が一層張り詰める。誰かが生唾を飲み込んだ。
「確認なんだけどあなたは車椅子に乗っている時はなんともないんだよね」
はい、と返答すると彼女はやはりそうかというように首を小刻みに振った。
「そういうことならいいわ。説明するけど車、エレベーター、この2つに動く以外で共通して当てはまることってなんだと思う?」
「そうですね、どっちも狭いってことですか?」
「そう、あなたが異常行動を起こした2つに共通していえることって狭いということなのよ。そこで考えたの。もしかしたらあなたは閉所恐怖症かもしれない。それも生半可なものじゃない。まるで過去に植え付けられた強烈なトラウマのような、簡単には壊さない鎖みたいなもの」
確かに狭いのは苦手だと思う。だがそんなにも重病なのか。閉所ってことは狭いところがダメなのか。トラウマになるほどのことなんてされた覚えがないんだが。だが現にこんな症状になっているのだから認めざるおえない。そんなトラウマになるようなこと、過去にされたっていうのか。
「それは僕が過去に虐めを受けていたってことですか」
僕の中では虐めくらいしか頭が追いつかなかった。
「その可能性もあるわ。他にも虐待を受けていたとか監禁されていたとか、肉体的だけじゃなくて精神的なことでも閉所恐怖症になる可能性は十分あり得る」
「監禁...虐待...」
僕は過去になにをされていたんだ?
「こんなこと言うべきじゃないかもしれないけど、あなたのあの症状からはそれほどのレベルのことが原因である可能性が高い。監禁、虐待、そのくらいのことがあったんじゃないかと私は懸念しているわ」
そもそもなんでこんな状況に陥ったんだ?
「これに関しては薬もなにもないから時間をかけて慣らしていくしかないわね」
僕は誰なんだ?一体何者なんだ?
「おい、聞いているか」
不意に後ろから声がして振替えようとすると、謙二の顔は既に僕の顔の横にいて、僕の顔を覗き込んでいる。
「唐突にこんな話をされてショックなのもわかるが、だからって聞かないと何にもなんないぞ」
すみません、と僕が謝ると次に宮美の方を向いた。
「それと宮美、お前はもうちょっと話すスピードを落とせ。こいつが話について行けてないだろ」
僕が慌てて弁明する。
「いや、でも宮美さんはなにも悪くないです。僕が話について行けてないだけですから」
「いや、お前は悪くない。お前は聞く側、宮美は話す側、
お前はきちんと症状について話を聞いて、宮美は患者がわかるように話すべきだ」
患者、病人。そうか僕は病人だった。今だにその実感が湧かない。また話している内容と違うことを考えている。つくづく自分はどうしようもないやつだと思う。
彼女は素直にうなづいて僕に対して謝った。まるで初めて謝られたような、変な気持ちな僕を差し置いてまた話が進もうとしているので、取り残されまいと自分の考えを止めた。
「さっき話したことを要約させてもらうと虐待、監禁そのくらいのレベルのことが、過去にあなたの身に起こった可能性がある、その症状は時間をかけて治していかないといけない。これがさっき私が言ったこと。ここまでで何か質問とかある?」
「あの、治るまでどのくらい時間がかかるとか分かりませんか」
「正確にはわからないけどカウンセリングが必要となると相当時間がかかるわ。それにあなたは記憶を失ったという大きなハンデがある。カウンセリング受けてもらうなら多少記憶を喚び醒まさないといけないこともあるかもしれない、となると記憶の喚び醒ましと並行していかないといけなくなる。そうなると一生治らない可能性もあるわ」
ここでも自分の行く末を記憶の壁が遮る。無性に腹が立って仕方がないのだが、その怒りの矛先は無論自分しかいないのだから虚しくて仕方がない。とにかく何にしても記憶を取り戻すのが先決みたいだ。
「わかりました。少しでも思い出せるように努力してみます」
「ええ、じゃあ取り敢えず当分の間足を使うのはダメだから階段じゃなくてエレベーターを利用して。ここで注意してもらいたいのが2つあるわ。1つは誰か付き添いを連れて乗って。もしものことがあった時、あなた1人じゃ対応しきれないことがあると思うから」
僕はこくりとうなづいた。確かに、異常行動は自分一人では対応しきれない部分は多々あると思う。それは発症した自分が一番よくわかっていた。
「2つ目は連続して乗らないこと。それとできるだけ長時間滞在しないこと。これは特に守ってほしいわ。何故かはもう分かっているでしょ」
僕が病院から脱走した後、謙二に連れて帰らされたのを思い出す。あの時は本当に死ぬのではないかと心配されたほどだった。原因は自分自身にあるのだが。恐らく幾ら閉所恐怖症が重症だとしても、ある程度の時間の猶予は与えられるようだ。
「わかりました。その2つを守ればいいんですよね」
彼女は黙ってうなづくと、やっと今日の全てが終わった。そう思っていた。思っていたのだ。病室に戻るまでは。幸いエレベーターに乗っても何も起こらなかった。上々だった。多少のアクシデントはあったものの、事はこの上なくうまく進んでいると思った。これ以上の幸福を僕は望まない。望んではいけない気がした。それが何故かはわからないが。
とにかく、僕はベットに伏した。相変わらずそれは石を布で包んだような不恰好なものだった。時計を見ても既に夕暮れから夜へと向かっていた。
ベッドに寝てみても何か落ち着かないのは初めての出来事だと思う。一体僕は過去に何があったっていうんだ。思い返してみるが思い出せないことに、苛立ちともどかしさを感じて、どうしようもなく自分に対して険悪になってしまう。
寝ようとしてもなかなか寝付けず、窓の外を見る。何日も同じようなことを繰り返しているのに、よくもまあ飽きずに同じ風景を見ていられる自分を、ある意味で尊敬してしまう。
夕刻の空は遠い昔のように、遥か遠くへと消えて行っている。入れ替わるようにして、空は寂しげな暗闇へと姿を変えている。なんで夜が来るのだろうと思うのだが、結局それにさえも何か意味があるのだろう。僕達子供には到底理解できず、大人に都合のいい堕落のような理由が。
そういえば宮美が言っていた、「記憶の呼び醒まし」。これに関してはどうするべきか。結局宮美が言いたかったのは、記憶を呼び醒ましたとして、カウンセリングを受けるか否か、それに尽きるだろう。だが、まず記憶を呼び醒ます事は出来るのだろうか。そんな観点から話していたらきりがないが、原点回帰となるとやはりその問題は大きい。
これからの僕の一生をかけて、大博打ともいえるその「可能性」にかけてみる価値は十分にあるのではないか。そう思うのだが、何となく他人事に思えて、自分の事だと分かっていても、思い出すのが遠い未来に思えて、深く考えることが出来なかった。とにかく、今はこの馴染みのない環境に順応していく。そう決めた。
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