第10話

多分彼らが来る。何度も同じようなことを繰り返されていると、何となく察しがついて来るわけで、入り口の扉を凝視していると、やはり彼らはやって来た。

「おうおう、来るのを知ったような顔しやがって。この野郎め」

口調は悪いが大丈夫。口元は微笑んでいた。僕の頭を攪拌してきたが。遅れて宮美がやって来ると、いつもの光景に戻っていた。2人とも、先ほどの事がなかったかのように明るくて、逆に自分がおかしいと錯覚してしまうほどだった。よくも毎日、この病室まで来て話をしてくれるな、と感心してしまうのだが、別にこれを嫌と思っているわけでなく、むしろ嬉しいくらいだった。

「まあな。今日はお前の体や脳の事をいろいろ話したわけだが...あまり気にするな!、と言いたいところなんだが、なかなかそんな事ができるほど、お前は強くないことぐらいわかってる。最近悪いことばかり起こっているからな」

悪い事。忌まわしい記憶がまた吹き返してくるのを無理やりかき消した。もうこの作業も、一種の現実逃避みたいなものだ。本当はきちんと向き合わなければならないだろうが、謙二も言った通り、僕はそんな事ができるほど強くない。結局、現状は変わらないままなのだ。

「だが、そんなお前にも嬉しいニュースを持って来てやった」

先ほどの回想が嘘のように、僕はその言葉の先を待ち望んだ。

「さあ、なんだと思う?」

わからない、と首を振った。正直言うと、この会話の中に疑問詞の文は存在しなくていいと思う。ただ、そのニュースとやらを早く言って欲しかった。

僕があまりにも早く首を振ったせいで、彼は少々落胆しながらも口を開いた。今度は茶化すような雰囲気ではなかったし、ましてや冗談を言うような雰囲気でもなかった。

「なんと、お前の名前が決定した」

そう言って謙二は1人で手を叩いた。あまりに衝撃だったため放心状態に侵された後、どうすれば良いか分からず、宮美に目線で助けを求めた。だが、彼女も初めて聞いたのだろうか。目を丸々とさせ、口をパクパクさせていた。まるで今、その事実を知ったかのように。

「ちょっと!私そんな事聞いてないんだけど!」

やはりそうだったのか。全く、謙二という男。何をしでかすか分かったものじゃない。ましてや自分の妻に、そんな重要なことを言わないとは。この男の頭の中を一度見てみたいものだ。

「まああくまで確認だが、お前は名前をつけて欲しいか?それも俺なんかに」

本人は自分を卑下したつもりだろうが、その目は自信がうち溢れ、承諾以外の返事は受け付けない、真っ直ぐな目をしていた。

名前をつけてあげよう、と言われている当の本人は満更でもない気持ちだった。元々名前なんて必要ないと思っていたが、いざ付けてあげようと言われると、付けてもらいたいと思った。そしてこの単純さにも、そろそろ諦めがついて来た。

「はい、どうせなら付けて欲しいです。それに名前が無いと色々と不便だし」

「それもそうだな。じゃあ発表するぞ。お前の名前は...」

生唾を飲み込む。

「『広』だ」

広...。広か。

「謙二!」

宮美が、彼女の口からは聞いたことがないくらい大きな声で彼の名を呼んだ。その目は鋭く、刺す様にして彼を睨みつけていた。

なぜ彼女がそんなに怒っているのか、僕には分からなかったが、謙二はそれを悟っていたかの様に、彼は口調を優しくして、次の言葉を用意していた。

「まあまあ、そんなに怒るな。それに、もう何年も経っているじゃないか」

「いいえ、私は認めないわ。謙二、あなたまさか忘れたなんて言うんじゃないでしょうね」

「忘れるわけないじゃないか。忘れたことなんて経ったの一回もない。だがそろそろけじめをつけるべきじゃないかと言っているんだ」

忘れる?けじめ?待ってくれ。この2人は何のことを言っているんだ?それに何年もって...。一体2人の身に何があったんだ。とにかく、容易く名前をつけてもらえない状況なのは確かだ。

「あの、もしあれだったら別に名前をつけてもらわなくてもいいですよ。それにほら、別の名前にするって手もあるし」

「そうよ。わざわざその名前にする必要なんてないわ」

それが今できる最善の手だと思う。少なくとも悪いことは言っていないはずだ。現に宮美も賛成している。しかし、彼はそれに断固として首を振った。

「いや、この名前じゃないとだめだ。いい機会じゃないか。忘れろなんて言っていない。ただ、けじめをつけないかと言っているんだ。そんなんだと、いつまで経っても今のままだぞ」

変わらず謙二の声色は、不気味なほど穏やかだった。今の状況に全く動揺していないし、むしろ楽しんでいるのかとさえ感じてしまう程だ。

「とにかく、私は認めないから。みんながいいって言っても、私は反対だから」

彼女はそう言い残すと、荒々しく扉を閉めて出て行った。

先程の喧噪から一転、静まり返った病室に取り残された謙二に掛ける言葉が見つからず、狼狽している僕とは違い、謙二は尚も平静を保ったままだった。

彼は一息、吐息を漏らすと、苦笑して扉から僕の方へと視線を向けた。何度も言う様だが、彼は至って落ち着いていた。焦っている僕がおかしいかの様に。その目は猛反対されたにも関わらずその輝きを失わず、むしろこれからに希望を抱いている少年の様に、一層輝いて見えた。

「あーあ、出て行ってしまったな。まあまた別の機会に説得してみるよ。ところで『広』。お前はこれでいいか?」

「これでいいって言うのは?」

「見た通り宮美はこの名前をつけるのに反対している。それでもお前はその名前をつけてほしいか」

考えてみると、やはり悩む。当然名前はつけてもらいたい。それはただ便利なだけではない。気づいたのだ。ただ名前を呼んでもらえるだけで、存在意義があると言われている様な、幸福を感じてしまったのだ。2人に了承を得てから名前を受け取るべきだと思う。だが、僕はこの絶対的且つ必然的な、三大欲求とも引けを取らないこの欲求に逆らえなかった。

「僕は名前をつけてほしいです。あなたがつけてくれた、この世でたった1つのその名を僕にください」

覚悟を決めた。それほど名前をもらうという行為は僕にとって重要なことだった。

「まあ、そんなに固くならない。そうは言っても、これは仮の名前なんだ。もしお前が全てを思い出したら、きっと記憶を失っていた期間に起こったことと同じ、忌々しい記憶になって、お前の中に留まり続けるだろう。お前はそれでもいいのか?もしかしたら一生お前を苦しめる、一つの原因になり得る可能性があるんだぞ」

だが僕の覚悟はいつのまにか、彼の言葉に惑わされないほど強固なものへと変わっていた。

「それでも構いません。たとえ忌々しい思い出になろうと、僕は絶対に後悔しません。だからどうか...」

この判断が吉と出るか、凶と出るか、それは今は分からない。だが宮美も言っていた「記憶の呼び醒まし」、その可能性を1パーセントでも増やすためには、小さいことでも少しずつ実践することが、一番の近道ではないかと思う。少なくとも、今はそれで十分だ。

「わかった。じゃあお前は今日から広だ。改めてよろしくな、広」

「よろしくお願いします」

「だからそんなに固くならない。じゃあ宮美にも伝えとくから。あいつが賛成するかどうか分からないけど」

僕は首を縦に振った。彼は病室を出る間際、今思い出したかのように言い残した。

「そういえば、明日から病室が変わるからな。今救急治療室に居るわけだが、明日から普通の病室に代わってもらう。いつまでもここに居るってわけにもいかないからな。

いきなり環境が変わって大変だと思うが頑張ってくれ」

僕の返事を聞かずに、彼は病室を後にした。

なんとなく移動しないといけないとは察していたが、意外と早いものだった。今の環境から一変するとなると、当然不安も募るが、なんとかなると軽い気持ちで割り切った。

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