第8話
話を聞き終わった僕は、その感想を言葉にして表すことができなかった。愉快な話だった。現状況からは比べ物にならないくらい。だから少し嫉妬した。羨ましかった。だからって僻みなんて口にしても虚しくなるから、だからなにも言えなかった。
「へえ、凄いですね」
まるで果汁を絞り出すかのような、搾り尽くした末に出てきた言葉はあまりにも素っ気なく、長い時間話してくれた彼女に対する無礼な対応は、やはり先程の話とは裏腹に僕を嫌悪感に追い込んだ。
しかしそれを察した彼女は慌てて、搾り取った言葉を汲み取った。
「そうでしょ、あの頃の謙二は乾いた砂漠でオアシスを探し求める猛獣そのものだったからね。それにね...」
それからも話は続いた。交際中、結婚後、彼が起こした珍奇な行動の数々、夫婦間のノロケ話など咥内の水分がなくなるのではないのかと思わせるほど彼女は喋り倒した。
昼のサイレンがなる頃にようやく彼女の話は終息の気配をチラつかせていた。この頃には宮美も流石に疲れたらしく切り出した話が終える前に、早々に話を切り上げ一息ついていた。
ここまで長い時間話していると流石に聞いていた自分も疲れるわけで、自分から聞いたのにも関わらず現在に至る十分前には話の半分を聞き流し、適当に相槌を打つという身勝手、失礼極まりない行動をとっていた。
しばらく彼女と僕は窓の外の景色を遠望していた。外はつい先程から雨が降り、窓に滴る水滴と一帯を覆う霧が仕事人が歩いていた風景から一転、幻想的な水の世界へとその姿を変えていた。
幾分かほど見ようと飽きることを知らないその景色は空腹さえ忘れさせ、哀愁とさえ取れるそれは、瞬く間に僕をその世界へと連れ込んだ。それは彼女も同じだったようでボンヤリと外を遠望しているその姿は、彼女の若りし頃と老いた姿、その両方を連想させた。
ふと彼女が時計に視線を移すと短い針は既に1を指していた。つまりここに3時間弱いたことになる。予定を大幅に超過させていたことに気づき焦った様子で僕に喋りかけた。
「もうこんな時間!このあとあなたの検診があることすっかり忘れてたわ。少し待ってて、準備するから」
そう言って猛烈な速さで病室から出て行った。
あまりに突拍子のない出来事に呆気にとられていた僕は、しばらく窓の外から病室の扉へと視線を移していた。
そして数分後、彼女は息を荒くして病室へ戻ってきた。もう少しで50に差し掛かろうとしているのによくそんなに走れるものだと感心が止まない。
そんな事を熟考している僕とは対照的に、彼女は肩を揺らし大きく息を吸い込み吐き出す作業をしていて、未だ視線が定まっていない。
僕は静かに彼女が話せるまで待った。外から聞こえてくる雨の音がやがて昔懐かしいバラードへとその姿を変貌させて、静かにその頭角を現してくる。断続的に演奏されるそれの一部は彼女の吐息と一体化し、外とは別のバラードを想見させ、いつしか合奏へと姿が変わったのにはその場にいた二人でさえ気付くはずもなかった。
彼女は息が落ち着くともう一度深呼吸をした。
「じゃあ、検診行くから。これに乗ってもらえる?」
そう言ってベッドの横から折り畳み式の車椅子を引っ張り出した。それを広げると僕の腕を抱えて車椅子の上へと腰掛けさせた。
この一連の動作だけで彼女はまた息を切らせていた。流石に声をかけなければと思い立ったが、言ったとしても彼女を抑止できないと瞬時に察し、流れに身を任せた。
今回もエレベーターに乗った。そして一つわかったことがある。どうやら僕の体は狭い空間に長時間、または連続して留まっていると前のような謎の症状が起きるようだ。
車椅子に乗せられてきたのは整形外科だった。おそらく体のどこかが骨折か何かしているのだろう。だが今更そんなことで変に動揺はしなかった。きっと体のどこかは重症なのだろうと薄々感づいていたからだ。
整形外科の先生は二十代後半、佐伯夫妻とは打って変わってひどく無愛想だった。ぶっきらぼうに喋り、軽く僕の状態を確認すると早々と診察室から退出させた。
病室から退出し車椅子で押されている最中、宮美が突然謝ってきた。態度が悪くてすまない、もっと指導しておくと。
「いやいや、そんなことないですよ。僕は診てもらうだけでも充分ですから。それにしても今どこに向かっているんですか?」
「レントゲン室よ」
レントゲンって...骨に異常でもあるのだろうか。でないとレントゲン室なんて行かないし。思わず表情が歪んでしまう。
「レントゲンって...やっぱり骨に何か異常があるんですか?」
「ええ、そうね。あんなに無理してたらやっぱり骨まで支障が出るのは当たり前じゃない?私の専門じゃないからまだわからないわ」
彼女は声を強めて皮肉っぽく言い放った。その顔には薄っすらと憤怒の表情を浮かんでいる。僕の無神経な質問に腹を立てたのは明らかだった。だがここでまた謝罪でもしたらそういう事ではないと言い返されるのは分かりきっていたので、敢えて何も言わずに車椅子と共に場の状況を流した。
レントゲン室に着いてしばらくすると中から田中と書かれたネームプレートを胸元まで吊るした白髪の老人が出てきた。宮美は彼に会釈すると僕を彼の元へ引き渡した。
田中は車椅子を押してレントゲン室に入ると、検査をする台の上に僕を寝かせた。そして彼が部屋を出て数十秒後、電子音が部屋に鳴り響き、何事もなかったかのように部屋に戻ってきた。その後も同じ作業を数回、体の各箇所を隅々まで調べられた。体と一緒に自分の心まで見透かされてる気がしたが、そんなはずがないと否定する作業自体がばからしく思えた。
十分そこらで検査が終わりレントゲン室から出てくると、宮美は部屋の入り口に設置してある長椅子に腰掛け気持ちよさそうに眠っていた。
やれやれと起こしてあげようとしている田中を引き留めた。今は寝させてあげたかった。
「診察の結果を後日整形外科の先生から伝えてもらうので、また彼女から詳しい日時を聞いてください」
田中はそう言い残すと部屋の中へ戻って行った。
寝ている彼女を起こすのも何か悪い気がしたのでとりあえず僕も長椅子に腰掛けた。病院のどこか寂しげな静寂が僕に取り憑いて離さず、その静寂に誘い込まれるかのように僕もいつしか眠りに就いていた。
体を揺さぶられ起こされた僕は少々気分が悪かった。彼女は車椅子に手を掛け、何も言わず僕を先導している。僕は苛立ちを態度に表すことなく僕は起き上がりそのまま車椅子に座った。
エレベーターの搭乗口まで来た。彼女は臆することなくエレベーターに乗った。多少寝たおかげで症状は起こらず何事もなく9階までついた。
病室に入り僕を寝かすと彼女はそのまま出て行った。先程寝てしまったせいでなかなか寝ることができず天井を仰いでいたが、それでも暇で仕方がなかったので窓の外に目を移した。街が所々昼から夜へとその環境に適応するために姿を変えているのが手に取るかのようにわかる。
街の中心部は街灯が、路地裏はネオンライトが道行く人の足元を煌々と照らしている。仕事終わりのサラリーマンが駅から吐き出されるかのようにして姿を現しているのを見ていると命の躍動に似たようなものが行動として体現されていると感じてしまう。実際にそうではあるのだが、やはりあの光景には何か感じてしまうものがある。
そういえばここ最近食事をほとんどしていない。流石に腹が減るが食欲が無いため食べたいとも思わない。
自分の体を触るとわかるのだが、肉の感触がせず直接骨を触っているかのように体が痩せ細っている。まるで皮を被っているだけの骸骨のようだった。それがひどく滑稽に、貧弱に思えて情けなくなってくる。
こういう回想をしているとやけに時間が経つのが早く感じる。部屋についてから今までで既に2時間は経過していた。どこかの誰かさんが言った相対性理論とかいうよく分からないものが存在するのだが僕の今の状態はそれに当てはまっているのか。言葉だけを知っている僕にはいくら考えようと答えは浮かんでこなかった。
僕も人間なので流石に眠たくなるわけで布団の中に潜り込んだ。起きては寝るの繰り返している今の自分には怠惰という言葉がぴったり合致している。
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