第7話

病室に向かう最中、誰一人として口を開く者はいなかった。僕のように物思いに更けているのか、これからどうなるのか、行く末を見つめているのか。或いは僕に呆れ果て悪態をついているのか。真意はわからないが、静かだった。

病室の前まで来ると彼女は眠っている僕のことを思ってか、静かに扉を引いた。謙二は部屋の中に入りベッドの近くに寄ると、ソッと僕を仰向けにして寝かせた。そしてそのまま部屋を後にした。ベッドは石のように硬かった。

僕の、長い長い半日が終わった。

左足を襲う鈍痛で目が覚めた。最悪の目覚めだった。昨日のように歩きたいとは思わない。というより痛みがひどく歩くことができなそうだ。

特にすることもなかったので、側に置かれてあるテレビの電源をつけた。ニュース番組が映し出された。流れていたのは殺人事件。

なんでこうも殺人というものは起きてしまうだろうか。誰かが誰かを恨むことなんてなかったらこんなこと起こらないだろうに。だが人間は生きている以上、その感情を抱いてしまう。仕方がないといえばそれまでだ。

大抵の人が聞き流すであろう、日々のニュースの一部となってしまったそれに妙に関心を寄せていた。まるで自分の身に起こったかのように、それがひどく悲しく、悲痛なものだった。

その後話題は政治、経済へと変わっていった。そのあたりから興味を示さなくなりテレビの電源を消した。

耳を外部へと傾ける。病室の扉の向こう側から聞こえて来る、看護師の人々が忙しなく働いている声、足音。窓の外から聞こえて来るクラクションの音。騒がしいのは嫌いだが、こんなニュースがあろうと、世界がきちんと機能していることに関心を抱く。

しばらく天井を仰いでいると、扉がノックされて中に人が入ってきた。目線を目の前に向けた。最初のように身構えるようなことはしなかった。恐らく入ってきたのは現段階で自分が一番信頼している人物だからだ。その人物がカーテンを開ける。

「よお、おはよう。早起きとは感心感心。俺はこれから寝るけどな」

そう言ってゲラゲラと笑っている。

「ああ、謙二さん。おはようございます」

夜勤明けなのか彼のテンションは異常に高く、寝起きの僕にはついていけなかった。だが元気そうで何よりだ。

「入ってきていきなりで悪いが10時位に宮美が色々聞かせてもらうって言ってたから準備しておけよ。」

じゃあ俺は家に帰って寝させてもらう。にこやかにそう言い残すと早々と、軽快なステップを踏みながら病室を後にした。

全く、朝から陽気なものだ、と少しばかり呆れた。昨日の出来事については触れてこなかった。僕に気を使ってのことだろう。忘れているわけなどない。聞きたいことは山ほどあるだろうに。この短い会話の中だ確かに彼の優しさを感じていた。

部屋の中がまた静寂に包まれ、特にすることもなかったので窓の外を伺う。通りはスーツを着た人々でごった返している。自分があの中に入って行きでもしたら、すぐにその濁流に飲まれひと塊りもないだろう。寒くもないのに身震いする。

しばらく外を眺めていると目の前の風景が次々と変わっていることに気づく。スーツを着た人々からラフな格好をした人々へと、そして浮ついた若者へと姿を変えていくのが目に映る。次々と変わっていく風景に心踊る。

相変わらず外の様子を伺っている僕は、背後に近寄る人影に気づかなかった。ポンと肩を叩かれると、その手を振り払うようにして後ろへ振り向いた。

「ごめんね、外を見てたから脅かしてやろうて思って」

その人物を見てまた安心する。宮美だった。

彼女はいたずらっぽい笑顔で笑うと、どう、びっくりした?などと心境を聞いてくる。僕が怒ったようにプイっと顔を背けてもなお、彼女は笑顔で僕を見つめている。

「まあまあそんなに怒らないで。謙二に聞いてなかったの?私が10時にここにくるって」

言われてみればそんなことを言われた気がする。時計を確認すると短い針は9を、長い針は11を指していた。

ああ、と僕がとぼけたように呟くと、彼女はやれやれと少しばかり呆れた表情をしながら僕を横目に見る。

「まあ、いいわよ。じゃあ今から質問していくから。この間のように答えてくれればいいから」

彼女は切り替えるようにして声を張り上げると、側にあった椅子を引っ張り出し、そこに僕を座らせた。

「よし、じゃあ一つ目、後で精密検査とかしてもらうけど昨日の足の調子はどうだったの。実際のところ足は痛かったの、痛くなかったの?」

「右足はそんなに痛くなかったけど、左足は痛かったですよ。すごく」

応答を聞き宮美は不思議に思った。

「痛かったんだ。謙二から聞いた話だと、あなたを昨日見つけた時、多少の違和感はあったものの至って普通に歩いてたって言ってたわ。それはどういうことなの?」

「僕にも原因が何でなのかわからないんですけど、病院から出たあたりからだんだん痛みを感じなくなっていったんですよ。だから歩けました」

そうなんだ、と彼女は言葉では納得していても、内心よく分からないといった様子でいる。

ここで止まっていても仕方がないと、次の質問へ移る。

「2つ目、あなたは自身の事故がどこで起こったのか知ってる?」

はい、と僕は受け答える。確か駅前でしたよね、と。

「それはどうやって知ったの」

そうですね、と僕は目を閉じ、考え込む。いつだったか。謙二がそう教えてくれたのだ。確かあの時に言ってたはずだと思い出す。

「確か僕が事故が起こって目を覚ました時に聞いたんですよ。『何でこんなに怪我しているんだ』って。そしたら謙二さんはこう答えました。『お前は駅前でトラックにひかれた』って。その時にわかったと思います」

そうなんだ、と彼女は言う。と言うことは、と呟く。

「駅までの道のりもわかっていたわけだ」

僕は首を横に降る。

「いや、駅までの道のりは知りませんでした。ただ信じられないかもしれませんが足が勝手に動いたんです。まるで僕を駅まで導くかのように」

彼女は不可解に思った。そんな非科学的なことが起こってもいいのかと。だが信じざるを得ない。実際僕は駅に向かって歩いていたのだから。

「そんなこと信じられないけど...、信じるしかないようね。わかった、信じるわ。ただここで一つ疑問を聞いていいかしら」

そのための時間じゃないですか、と指摘すると、彼女は確かにね、と笑ってみせた。

「じゃあ質問3つ目。初めてきた街で駅がどこかもわからないのに、足が勝手に動いてそこまで行こうとするのは私たちからして見ると、とてもじゃないけど考えられないの。過去のことを抉り出すようで申し訳ないんだけど、貴方は過去にこの街に来たことがあるの?」

「それも病院から出た時に感じました。目の前の風景が懐かしい感じがしたんです。特に病院の目の前の風景、そこが一番懐かしく思えたんです。つまり...」

「過去にこの街に来たことがあるってことね。そしてこの病院にも来ている可能性があると言うこと」

彼女は僕の言葉を借りて後に続いた。

「そう言うことだと思います」

しめたっ、と初めて過去へとつながる大きなヒントを得た彼女は嬉しそうにする。

「4つ目、これは私が個人的に一番気になることなんだけどあなたは謙二の車、エレベーターに乗って異常行動をしたでしょ。あの様子を見てると単に乗り物酔いでもないみたいだし。あの時の症状とか聞かせてくれないかな」

僕は記憶を車に乗ったあたりまで巻き戻した。

「そうですね、吐き気と頭痛がひどかったです。あと目眩もしました。明らかに乗り物酔いでないことは確かだと思います」

「何でそんなことになったのか、心当たりはあるの」

僕は首を横に振る。彼女は困ったような、何か考え込むような顔をして相変わらずこちらを見ている。

「宮美さんと謙二さんはどこで出会ったんですか」

訪れた沈黙に耐えられなく、僕が彼女に質問を始める。

「えっ、えっとね私達はね...」


彼女がまだ黒田宮美だった時の話だ。

2人の馴れ初めは病院だった。謙二がまだ青い医師であった頃、彼女が大学の実習生として病院に訪れたのが始まりだったらしい。当初病院の案内をする予定だった先輩が急用で休んでしまったので彼が代わりに案内した。

当時の謙二はその容姿から数々の女性から好意を持たれていた。しかし彼は恋愛そのものに飽きたのか興味がなかったのか、その好意の全てを無視していた。そんな時に現れたのが宮美だった。謙二は彼女を見るや否や一目惚れ、猛アタックして来たらしい。しかし猛アタックされていた当の本人は、鈍感過ぎて彼の好意に全く気づくことなく、無情にも時間が過ぎていった。

あっという間に実習最終日。実習がこの上なくうまくいっていた宮美は上機嫌、一向に振り向いてくれない彼女に、謙二は地の底に落とされたような表情をしていた。だがこの時謙二は一つ小さな野望を抱えていたらしい。それは彼女から連絡先を聞くと言うものだった。朝聞くのも如何なものかと考えたので帰り間際に聞くことにした。

実習を聞く彼女、昼食をとる彼女、とにかく彼女を見張っていた。だが彼女の周りを彷徨く取り巻きはなかなか彼女から離れようとしない。普通に彼女を貸してくれと言えばいい。だが良く言えばピュア、悪く言えば臆病であった謙二は思いはあってもそれを行動に移すことができなかった。

その後も機を伺っていたものの、彼女と2人っきりになる機会は一向に訪れなくそのまま実習は終わった。

謙二は実習が終わってからの1週間、仕事を始めて、初めて休みを取った。狙った獲物は逃さない。それが謙二だった。そんな歴戦の猛者でも彼女を自分の懐に入れることができなかったのだ。いつも自炊をしていたが、その日ばかりはそれをする気が起きずコンビニに夕飯を買いに行った。

俺には一生彼女はできないんだ。

コンビニに向かう最中そんなことを思っていた。連絡先が聴けなかっただけなのに自責の念は彼を蝕んで行き、遂には自殺さえ考えさせた。

そんな彼を不憫に思ったのか、恋愛の神は彼に微笑んだ。彼が向かった先、コンビニに彼女がいたのだ。彼は思わず膝から崩れ落ちた。目の前に広がっている光景が、かつてないほど彼を高揚させた。颯爽と店を出ていく彼女を追いかけ話しかけた。

「黒田さん?黒田さんですよね」

彼女な怪しいようなものを見る目で、話しかけて来た男の顔を確認する。

「僕です。佐伯です。この間の実習で案内をした...。覚えていませんよね...。すみません」

彼の顔を見て少し考えるような仕草をした直後、彼女は顔を明るくして前を向き直す。

「ああ、あの時の...その節はお世話になりました。とても勉強になりました」

無邪気に微笑む彼女を見て少し頬が緩む。神様は彼を見放してなどいなかった。現に今謙二と彼女は同じ場所にいて揃って話しているのだから。見えない神様に勇気をもらった謙二はここしかないと話を切り出した。

「あの、良かったら連絡先交換しませんか」

宮美が何でだというような表情をしてこちらを伺っているのを見て慌てて弁解する。

「変な意味じゃなくて。その...ここで会ったのも何かの縁だと思うし」

そういうことか、と納得した彼女は快く携帯を差し出した。彼女の携帯は若者の間で流行っていたゲーム機能まで付属されているガラパゴスケータイだった。

「いやー、驚きましたよ。いきなり連絡先交換しようって言って来られるから。てっきり何か下心があるんじゃないかって思いました」

まさにその通りですよ、と心の中で指摘をする。

「そんなわけないじゃないですか」

言葉というのは怖いものだ。心ではそう思っていなくても表面ではなんとでも言えるのだから。もしかしたら自分が普段している会話の中にもそんなことがあるかもしれない。だがそんなことを考え始めると、会話の全てを信じられなくなるので考えそのものを頭から追いやった。

メールアドレスを交換してそれぞれの連絡先を手に入れると、彼女は急ぎの用事があったようで早々とその場を後にした。

一方念願の連絡先を手に入れた謙二は放心状態に陥っていた。今目の前で起こったことが現実か妄想か、その判断すらつかない虚ろな目をして、夕飯を買うという本来の目的を忘れて家路へと向かう。

家に帰っている間のことは頭のコンセントが抜け落ちたように覚えていなかったらしい。

落ち着きのない様子で家の中に入ると早々に畳に座り、携帯を開き連絡先を確認する画面へと移動する。

そこには他の連絡先と何ら変わらない字体で書かれている「宮美」という新しい二文字が刻まれていた。

彼は拳を天井高くへと突き上げた。どんな言葉を使っても言い表せない高揚感に心が満たされ、己がやってのけたことに驚くほど感服していた。

その後、彼は宮美を週末ごとに食事に誘うなど猛アタックして、交際、結婚まで果たしたという。

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