第4話

「うん、落ち着いたわね。ほら、ちゃんと上を向く。大丈夫。私たちはどうって事ないから」

そう言って、僕の顔を掴み、彼女の顔へと近づける。

ショートヘアーに、鼻は小さく、目はパッチリしている。多少のシワはあるものの、若い頃はかなりの美人であった事が容易に想像できる顔立ちをしていた。ただ一つ、体のあちこちに引っ掻き傷さえなければ。

「ありがとうございます。あの...あなたは?」

「私は佐伯宮美。脳外科をやってる」

「あれ?佐伯ってもしかして...」

「そう、この男の妻よ。なんでこんな男を選んでしまったか」

照れくさそうに後頭部を掻く謙二を宮美が蹴り上げた。

まるで喜劇のようなやりとりに、先ほどの出来事に多少の心残りはあるものの思わず笑みがこぼれた。

すると宮美が真剣な表情になる。 白衣のポケットの中から紙とペンを取り出した。

「さあ、唐突で悪いけど今からいくつか質問をするから答えていってくれない?」

僕が頷くと質問を始めた。

「あなたの名前は?」

やはり思い出せない。わかりません、と答えた。

謙二はやはりそうかと、宮美は驚きを隠せない様子だった。

彼女はわかった、と言うと紙にメモをした。

「じゃあ次、あなたはどこの出身?」

「わかりません。ただ都会ではなかったような気がします。騒がしいのは嫌いなので」

彼女はメモを続ける。

その後もいくつか質問をされた。だが質問のほとんどが覚えていないか、あやふやな回答だった。そしてあっという間に最後の質問になった。

「じゃあ最後に...、あなたがトラックに轢かれた場所は駅周辺だった。あなたは財布もなにも持たずに、走っていたらしい。轢いた運転手がこう証言している。あなたが急に道路に飛び出してきた。その時の表情はどこか焦っているように見えた、と。何か心当たりがない?」

その時何かピンときた。確か、正確ではないしそれが本当なのかどうかも分からないが、ただ一つ確信できる事があった。

「はい、誰かから逃げていた様な記憶があります。これだけははっきりと覚えています。」

メモに目を写していた宮美と壁にすがっていた謙二の視線が一気に自分に注がれるのを感じる。

「それは本当なの?間違いないのね?」

「ええ、ただ逃げていた相手が誰かまでは...」

なおも宮美から熱い視線を向けられる。

「わかった。じゃあその相手がどんな人だったのか教えてもらえる?確かこんな感じだった、みたいなことでもいいから」

そうですね、と僕は頭を抱える。だかいくら時間をかけて根気強く考えても思い出せない。わかりません、と答えようとした瞬間、頭の中に電流のような感覚が走った。頭の中から過去の記憶と思わしき記憶が噴き出した。

「あっ、でも逃げていた相手は怖い人ではなかったような気がします。むしろその逆。僕にとって彼女は狂いそうなほどに愛おしい人だったと思います」

宮美は希望を抱いていた表情から一転、疑問詞が頭の中を埋め尽くす様な表情になる。

「ちょっと待って。彼女って?あなたは女性から逃げていたの?なんで愛していたのに逃げていたの?あなたと彼女の間に何があったの?」

宮美が鬼気迫る表情で問いかけてくる。遠目に見ていた謙二が見かねて止めに入る。

「まあ落ち着け、今そんなに質問してもこいつを混乱させるだけだろ」

そう言うと彼は宮美のメモ用紙を取り上げ、さあ、じゃあまた質問していくぞ、と言った。僕がうなづくと質問を始めた。

「さっきお前は『彼女』と口走った。その彼女というのをもっと詳しく教えてもらえないか」

「ああ、僕もよく分からないんです。そんな気がするってだけで、顔とかはほとんど覚えていません。ただ勘違いしてもらいたくないことは彼女は何もしていません。その逆。僕が何かをしたような気がします」

謙二の頭の中も疑問詞が出てくる。

「お前が何かを?とても何かをしたようには見えないが」

「ええ、だから僕もよく分からないんです。心当たりなんかないし。何で投げるまでの行動に至ったのか。そこまでは思いだせません。

「そうか、まあ無理もない。お前が彼女というキーワードを出してくれただけでも大きな進歩だ」

ええ、と僕が言うと沈黙が訪れる。二人ともいきなりこんな話をされて頭がついていかないのだろう。実際自分も付いて行ってない。自分が喋っているのにもかかわらずだ。

すると宮美が口を開いた。

「まとめさせてもらうとあなたは前に何かをして、それがきっかけでその彼女と別れることになったわけだ」

はい、と僕はうなづいた。

「わかった。今日はここらで終わりましょう。また後日改めて質問することがあるかもしれないから、その時はよろしくね」

僕がうなづくと二人は病室から出て行った。険しい顔をして。

緊張から解かれた僕はそっとベッドに横たえた。

今日質問されたことをまとめてみた。名前は不詳、性別は男、齢は恐らく15、6歳、出身地は不詳で自分がどこへ向かっていたのかさえわからなかった。かろうじて分かる情報も齢のみ。それでさえまともに使える情報ではなかった。

この時僕は悟った。自分は戸籍上存在しているが存在し得ない存在。誰も僕の正体がわからず自分でさえよくわかっていない存在。つまり僕はひどく厄介な透明人間のような存在であると言うことに。

今を見つめても仕方がないと思い、過去の自分について少し考える。僕は誰なのか。どこから来たのか。誰から逃げていたのか。しかしそれは全て無駄のように思えた。考えれば考えるほど過去の自分が現在の自分とかけ離れていくように感じるのだ。

それがひどく徒労に思えて仕方がなかった。

僕だって当然、できることなら過去の自分に戻りたい。だが記憶の壁とも言うべき何かが、断固として記憶を呼び覚ますのを拒否している感覚を覚える。

今日はもうどれだけ考えようとも答えは導けない。そう思って静かに瞳を閉じた。

数時間にも及ぶ質問攻め、そして過去の自分を現在の自分に重ね合わせるのに相当疲弊していたのだろうか。数分後には、目の前は暗闇の世界へと変わり果てていた。

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