第3話
「なんだ、俺は言ったんだからあんたも言えよ」
謙二が不満そうにぼやく。
冷汗がじわりと滲み出る。体がサーっと冷ややかになり、少しずつ呼吸が荒くなっていく。それはさらに加速していき、やがて過呼吸にさえなりそうになる。
名前、言わないと。でもなんだったっけ。忘れた。いや忘れたんじゃない。決まった場所にないってことはつまり...思い出せないんだ。忘れたなんかの比じゃないくらい甚大な状況に僕は立たされている。
僕の様子を見ていた謙二は何かに勘付いたようだった。
「まさか...ちょっと待ってろ。脳外科の先生呼んでくる」
そう言うと焦った様子で病室から出て行った。
ベッドの上に取り残された僕の頭の中は動揺と混乱が激しく暴れていた。それはどんな激しい運動をした後とも引けを取らないくらい、僕を一瞬で疲労へと追い込み、そして僕の体中を次々と蝕んでいく。
勘違いしてもらいたくないのは、僕は怖くも苦しくもなかった。溢れ出た感情は一つたった一つ、不安というごくありふれたものだった。たったそれだけが僕の心を激しく揺さぶり、押しつぶそうとしているのか、急に涙が溢れ出しそれを止められなくなった。
震え荒くなる吐息、定まらぬ視線、止まることを知らない涙。どうしようもなく大きくなっていくこの不安をどうにかしないと自分自身がおかしくなりそうだった。
僕の視線が捉えた最初の獲物、それは布団だった。自然と手が伸びそれを包み込んでいたシーツを破いていく。初めは一枚だったのがまるでクスリを打ったかのようにだんだんとその量は増えていく。上の棚に取り残されているシーツに手を伸ばした。破いている時の爽快感ともいうべき何かが、壊れていく僕の心を必死に繋ぎ止めている。
だが次第にシーツは原型を留めなくなり最後には破る部分さえなくなっていた。そしてまた不安に駆られる。せっかく繋ぎ止めていたのにまた壊れていく。
阻止しなくては。ここで壊すわけにはいかない。本能がそう語りかける。次に花瓶に手を伸ばす。床に落としてそれを割るとその破片を拾い上げ、再度床に叩きつける。それが壊れる音が僕の心をまた繫ぎ止める。
そんな事をしているうちに謙二が脳外科の先生を連れて戻った時には、病室は酷い有様になっていた。その惨劇を見た二人はひどく驚いていたがすぐに行動を切り替えた。
既に平常心など保てるわけがなかった。
2人が戻ってきてもなお暴れる僕を2人掛かりで拘束した。
「落ち着け。動揺するのも分かる。混乱するのも分かる。だが一旦落ち着け。今暴れたってどうしようもない」
その言葉を聞き我に帰った。徐々に平常心を取り戻していく。
ある程度落ち着いたところで、拘束を解かれると女の声が聞こえた。2人からどう思われているかという不安と申し訳なさから顔を上げる事ができなかった。
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