グッド・バイ・サッド・ストーリー
@sakuranohana
第1話 グッドバイ・サッド・ストーリー
「うーん、朝の光を浴びると気持ちいいなぁ」
カタリィ・ノヴェルは、ベッドの上で伸びをした。
皆は彼を「ノベル」という愛称で呼んでいる。
ノベルはベッドから飛び降りると、顔を洗い、食パンをトースターへ放り込んだ。
その後、フライパンでハムエッグをこしらえ、手短に朝食を済ませた。
真っ白なシャツに蝶ネクタイを結び、勢い良く外へ飛び出した。
「さて!今日はどんな物語に出逢えるかな?」
ノベルは、キラキラとした青い瞳を青空に向け、眩しそうな表情を浮かべた。
沢山の人が行き交う、スクランブル交差点。
これから出勤する人が多いのだろう、スーツ姿の人が多い。
赤い蝶ネクタイのノベルは、黒い群衆の中で一際目立つ。
そのせいで、行き交う人々が、チラチラとノベルに視線を送る。
「あちゃー。何だか仕事がやりづらいな…」
ノベルは、ばつが悪そうに人混みを避け、路地裏へと急ぎ入った。
すると、路地裏に座り込んでいた、一人の男性とぶつかってしまった。
「痛!」
男性が呻き声をあげた。
男性は、汚れの目立つ、ヨレヨレのスウェット姿だ。
「ご、ごめんなさい…」
ノベルは、慌てて頭を下げた。
男性とノベルの目が合った。
男性の目には、悲しみと憂いが浮かんでいる。
次の瞬間。
ノベルの体は、途端にピンと背筋が伸びた。
刹那にノベルの中に、どんよりとした暗い気持ちが広がってゆく。
男性の物語が、ノベルの頭の中で再生され始めた。
ノベルの目の前に、整髪料をたっぷりと撫で付けた、中年の男性が憤怒の表情で仁王立ちしている。
「お前が、会計の数字をいじってくれなきゃ、うちの部署が潰されちまうんだよ!」
中年男性は、そう言って目の前の机を叩いた。
「でも、それは法律違反です…。バレたら、私も逮捕されるし、会社だって刑罰を科されます」
脳内で、別の誰かの消え入りそうな声での反論が聞こえた。
これは、スウェット姿の男性の声だろう。
「綺麗事ばかり言うな!
ちょっと数字を誤魔化す位、他の会社だって、当たり前にやってるに決まってるだろ!お上にバレる訳無いだろ」
再度目の前の中年男性がバンと机を叩いた。
「…」
「お前が数字を変えるまで、家に帰らせないからな」
凄む中年男性はそう凄んだ。
そこで、突然場面が切り替わった。
マンションの一室のようだ。
窓から臨む、遥か下には傘をさした人々が歩いている。
「もう私達、別れましょう」
男性の目の前にいる女性が、緑色の紙を差し出しながら、静かに言った。
年は三十代か。
女性の隣には、幼児が二人座っている。
「もう、マスコミに四六時中監視される生活に耐えられないの。
あなたの起こした不祥事のせいで、私達の生活は滅茶苦茶よ!
満足に外出も出来ないし、子供達だって、幼稚園で、お友達から心無い言葉をかけられているのよ」
女性は、目に涙を溜めながら、声を震わせた。
「迷惑をかけて申し訳ないと思っている。
でも、仕方なかったんだ。
俺だって本当はやりたくなかったんだ。
離婚だけは勘弁してくれないか」
男の震えた声がノベルの脳内で再生されている。
「でも、もう無理なの!」
女性が悲鳴のような声をあげて泣き出した。
そこで、また場面が切り替わる。
眼下に広がる漆黒の海。
足がすくむ程の高さだ。
突如、海と空との上下が何度も入れ替わる。
次の瞬間、眼前に海が迫っていた。
「わああ!」
ノベルは思わず叫び声をあげた。
――今のは、目の前にいる男の人のストーリーなのか?
フィクション、ノンフィクションのどちらなのだろう…。
是非ともフィクションで合ってほしいと願うノベル。
突然ノベルに目の前で大声を出され、驚いた、スウェット姿の男性は、後ろにひっくり返っていた。
そして、
「ビックリするじゃないですか、もう」
と、不満をノベルに述べた。
ノベルは、スウェット姿の男に対して、早口で捲し立てた。
「海への飛び込み自殺なんて、絶対ダメです!
あなたは悪くない!
悪いのは、貴方に不正を命じた中年男性だ」
「え…突然何を…」
男は動揺しているようだった。
「とにかくです。貴方にはまだ未来がある。それを潰すようなことをしては断じてならない」
ノベルはきっぱりと言い切った。
男は絶句した。
暫く沈黙が続いた後、男が重い口を開いた。
「…どうして…あなたは俺のことを知っているんですか?」
「え…」
「俺は、先月海に飛び込みました。
でも、奇跡的に通り掛かった船に助けられて。
でも…助けられたところで、これからどう生きていったら良いのか分からなくて」
男はそう言って俯いた。
「そうだったんですね。辛い思いをされましたね」
ノベルは男の肩に手を置いた。
男がハッとしたように、顔をあげた。
男の目には涙が浮かんでいた。
「辛い体験をした貴方だからこそ、出来ることがあると思うんです。
今日の午後3時に、丸の上駅三番出口に、来てくれませんか。
スーツを着用の上でね」
「え…?」
男は、戸惑いの表情を浮かべた。
「大丈夫。私は貴方の手助けをしたいだけです。心配しないで」
そう言うと、ノベルは笑顔を浮かべ、元来た道へと踵を返した。
男は、ただ、呆然と立ち尽くしていた。
――――
「良かった、来てくれたんですね。スーツ姿も似合いますね」
ノベルが男を見て、ニッコリと微笑んだ。
約束の午後3時。
ノベル男は連れ立って、ドンドン前へと進んでゆく。
やがて、高層ビルの中の会議室の前へとたどり着いた。
「やぁ、ノベルさん。
お久しぶりです。突然連絡をくれて、驚きましたよ」
会議室の中から、親しみやすい笑顔を浮かべながら、男が現れた。
彼は「高井田」と名乗った。
スーツには弁護士バッジが光っている。
「もしよければ、あなたの経験を皆の前で語ってくれませんか」
高井田は、男に対して言った。
「え…」
男は面食らった。
「この会議室に集まっているのは、パワハラやセクハラの他、会社から理不尽な要求をされた人々です。
彼らは、自分の置かれた境遇に悩んでいるのものの、その境遇から抜け出して良いのかすら迷っている。
このままでは、第二の貴方になりかねない。
そこで、貴方に、ご自身の経験を話して頂き、彼らの背中を後押しするお手伝いをして欲しいのです」
男は、考えこんだ。
暫く沈黙が続いた後、男はこう返した。
「…俺で良ければ」
男は、皆の前で、中井と名乗った上で、自分の経験を語った。
そして最後に、「皆さんには、俺のように、家族や、生きる希望者を失ってほしくない。その前に、やるべきことがないか、一緒に考えてみませんか」
会議室の聴衆からは、すすり泣く声が聞こえた。
中井の目にも涙が浮かんでいる。
中井の締めくくりの言葉を受け、会議室は盛大な拍手に包まれた。
「中井さん、素晴らしかったよ」
高井田が中井に拍手と賛辞を送った。
「唐突ですが、中井さん。
私の法律事務所の経理として働きませんか」
高井田の言葉に、中井がハッして顔をあげた。
「貴方は最後まで、会計の数字を不正に変更することに抵抗した。
貴方は、本当は立派な信念をお持ちの方だ。
私は、弁護士だから、不正なんて決して指示しない。
そんなことをしたら、自分の弁護士資格がなくなっちゃうからね」
そう言って、高井田は中井に微笑んだ。
中井は嗚咽にむせびながら、
「…ありがとうございます…」
と言った。
ノベルは二人を見上げながら、ニコニコと微笑んだ。
――良かった。
僕は、サッド・ストーリーを見つけたら、そのままで終わらせたくないんだ――
ノベルは、そう心の中で呟くと、安堵のため息を漏らした。
グッド・バイ・サッド・ストーリー @sakuranohana
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