海へ〈白鯨〉

 鯨は寒風吹きすさぶ港湾に螺子ネジ留めされていた。

 四方を囲む土瀝青アスファルトの壁は、その身体が丁度収まるほどの空間しか有しておらず、鯨に僅かな身動きを許すだけだ。赤錆に覆われた鉄の柱が腹の下部から伸び、その先はあおく煙る海底へ溶けている。鯨は時折、頭頂部の鼻腔から霧を噴いた。その生臭い香りに、ああ、此奴こいつはまだ生きているのだと思いながら、私は鯨の様子を仔細に眺めた。

 頭から尾鰭まで、私の足にして二十三歩。この種にしては然程さほど大きくは無いだろう。薄い護謨ゴムのように、のっぺりとしたはだの下には、青みがかった血管が透けて見える。その更に下には、極地を生き抜くために獲得した脂と血がみっちりと詰まっているのだろう。鯨という生き物は時に、我々の及ばぬ深海にまで潜り餌を獲ると聞く。そこは人間など瞬きする間も無く潰される高圧の世界なのだそうだ。彼らは生きんとせんが為に死地に赴く、過酷な冒険者なのだ。ずんぐりとした眼は水の中から此方こちらに向けられているが、私を見ているようではない。黒目が膿んだように濁っている。それは死者の目だった。霧が私の身体を抜けて行った。定期的に呼吸をする生物としての本能と、全てから逃避した知性の光とがその中に混在していた。私は今更ながら、この巨大な獣が哀れに思われ、繋留けいりゅうに腰を掛けて彼を眺めていた。

 雪が強まってきた。雪は音を吸い尽くし、海に溶けていく。その白は鯨の膚とは異質な色だ。生き物の色に完全な白は無い。泥の茶色や草の緑、そして血の赤の混じった肉感的な色合いしか存在しない。

 懐から酒瓶を取り出し、一口飲む。

 この哀れな生き物は、此処に螺子留めされたまま一生を終えるのだろうか。生き物としての役目を果たせぬまま命を使い切るという事を考えてみて、私は何も結論が出せぬまま再び酒を呷った。生き物でありながら生き物であることを捨てた人間には、本能に従った一生を思い描く事など無理な話だった。

 そろそろ暖炉が恋しくなってきた。

 立ち上がり踵を返そうとした私はふと、防波堤の隅に大きな車輪が設えてあるのを目に留めた。車輪からは梃子レバーが飛び出している。赤錆に覆われたそれは螺子と同じ色をしていて、私はこれこそが鯨を囚わしめている仕掛けなのだと悟った。

 私は車輪に駆け寄ると、梃子レバーを掴み動かしてみた。ごりごりという重い音がした。そのまま梃子レバーを回し続ける。車輪が周回を重ねていくにつれて、私は嘗て無い興奮に胸躍らせていた。鯨は自由になるのだろうか。仮にそうなったとしても、まだ土瀝青アスファルトの壁が立ちはだかっている。この忌まわしき螺子よりを解き放たれる事が、彼にとって吉と出るか凶と出るか――。

 梃子レバーが動かなくなると、私は急いで湾の中を覗き込んだ。螺子は湾の底に姿を消していた。鯨は我が身の状態を確かめるように頭部を左右に揺らし、小波さざなみを立てた。

 私は叫んだ。巨獣よ、お前はくびきより解き放たれた。何処へでも行くがいい。だが、その前にもう一つの試練が待ち構えている。越えて見せよ。揉掻もがけ。足掻あがけ。血にまみれ吼えろ。その壁を崩し、大海へと躍り出るのだ――。


 鯨はその巨体をずるりと壁の上に持ち上げると、胸鰭むなびれで器用にふちを掴んで重心を移動させ、難儀すること無く反対側へと抜けた。そして二三度、戯れのように潮を噴くと、溶けるように海の中へと消えた。


 その光景を理解するのに、どれだけの時間を要したのだろう。我に返ると、目の前にあるのは寂れた港湾と、壁の向こうで嘲りに荒れる海だけだった。頬を打つ雪片が茫洋とした意識を刺激し、次いで起こったのは羞恥と憤怒のい交ぜになった血の滾りだった。私は酒瓶を足元に叩きつけると、足早に港湾を去った。

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