冠冕を捧ぐ Ⅱ


 ◇ ◇ ◇


 薔薇鉄冠の儀より一週間後。首都・アージェンタ城内。

 ふわりと鼻腔をくすぐる、甘い薔薇の香り。

 風になびく紗幕カーテンの隙間から射す光が、室内を移ろい、寝台に横たわる少女の目元に触れる。その熱を感じた瞬間、ぴくりと瞼が動き、生え揃った睫毛の下からすみれ色の瞳が覗いた。

 枕元に置かれた、一輪の白薔薇がその目に映る。

 視線を移動すると、寝台を覆う豪奢な天蓋が見えた。

「…………ここは……?」

 ぽつりと呟く。すると天蓋から垂れ落ちる絹の布をよりわけ、ひとりの男が顔をした。

 その肩で、翼を持った金色の球体がぴょんと跳ねる。

 「やっと目を覚ましたか」と溜息まじりに言い放ったサイラスを前に、エリファレットは自分の長い旅路を思った。


 ◇ ◇ ◇


「ええと――つまり、私が次の継承者になった、ということですか?」

 一週間昏睡状態だったエリファレットが目を覚ましたという報せは、またたく間に城内を駆け巡った。大人数の侍女が彼女の前に現れたかと思うと、まず連れて行かれたのは浴場。二時間かけて丹念に湯浴みをさせられ、全身に香油を擦り込まれた挙句、髪を結われ、今まで身につけたことのないような絹の下着、コルセットにラベンダー色のドレス、華奢な靴――等々の身支度が始まった。

 『状況説明』と称して、ようやく解放されたのがつい十分ほど前の話。

 今は割り当てられた部屋のテラスで軽食をまみながら、サイラスの話を聞かされているところだった。

「厳密に言うと、薔薇鉄冠にお前の生体情報が刻まれたので、その権利を有したという段階だな。意思確認の儀式を経て、正式に認められる」

「……なるほど」

 〝ほぼ〟継承者である、ということらしい。

「エグランタインはお前の再生能力を知らなかったから、殺したほうが早いと判断した。それが裏目に出た結果だな」

「でも……バーンハード聖下は、儀式の中止を宣告されていたんですよね?」

「そうだ。それについては現在も審議が交わされている。場合によっては薔薇鉄冠の生体情報を消去した上で、やり直しになる可能性もあるな」

 手前の皿にある葡萄に手を伸ばそうとすると、控えていた侍従がそれを取り上げ、丁寧に皮の処理をしてくれた。

(……前に滞在したときはもっとぞんざいな扱いだった気がする)

 『継承者』になるとこれほど違うものか、とエリファレットは頭の片隅で思い、視線を葡萄から正面の男に映す。

 するとサイラスと目が合った。エリファレットは顔を俯け、きれいに剥かれた葡萄を口のなかに放り込む。

「陛下……先代陛下の真似は、もうやめたのか」

 甘酸っぱい実を奥歯で潰す。すこし迷った末に、エリファレットは慎重に言葉を選びながら、口を開いた。

「……真似だと分かっていたんですか?」

「グエナヴィア様の魂は天に帰還され、もはや戻ってはこない。複製クローンの体に、文字転写物質コンパイルを移植して記憶を入れたところで、それは本人ではない。お前はただ――周囲の期待に応えて、あるいは必要に駆られて――そう振舞っただけだろう」

 「お前が別人なのは、開発者の俺が一番わかっている」と続け、サイラスは苦虫を噛み潰したような表情かおをする。

 エリファレットは不自然に顔を強張らせ、俯いた。彼の言葉は的を得ていたが、だからこそ奇妙な気分になった。

「――お前の遺伝病は完治した」

 黙りこくったエリファレットを前に、サイラスが告げる。その肩の上で、あの球体が飛び跳ねる。自由奔放に暴れまわる球体を掴み、「こいつのお蔭だ」と続けた。

「名前はクリスパー。古代種が用いた生体情報ゲノム編集ツールで、俺が門の島から持ち帰ったものだ。薔薇鉄冠から始祖女王の魔術配列を複製コピーし、こいつに食わせた。その後クリスパーはお前の体内に侵入し、お前の魔術配列を食い尽くすと、始祖女王と同一の配列を再構築した」

 門の島は、種ごとに画一的な生体情報を保存する場所だ。人間で喩えるならば、特定のサンプルがそこに保存されているだけで、実際にエリファレットやサイラスが持つ生体情報とまったく同じものではない。その差異が種のなかでの多様性を産み、生物としての存続に一役を買っている。

 一方で、薔薇鉄冠に保存されている生体情報は、それぞれの女王固有のものだ。ゆえにサイラスは始祖女王の魔術配列を入手するために、薔薇鉄冠を得る必要があったのだ、と説明された。

「遺伝病の正体って、結局、何だったんですか?」

「魔術だ。古代種が用いた、遺伝魔術と呼ばれる――魔術配列そのものに組み込まれ、発現すればその生体の体質や性質にかならず影響を及ぼすもの。古代種が人間と交配したことで、遺伝魔術が組み込まれた魔術配列に予期せぬ変容が起きた。その結果、祝福は呪いに転じたというわけだ。エグランタインは、その遺伝魔術を排除することで生まれた子だった。遺伝魔術は受精卵の段階では発現せず、幼少期の怪我などをキーに発動することが多い。一度発動したら、排除することは不可能だった」

 『遺伝子の時限爆弾』のようなものだ、と以前サイラスは言った。

 その時限爆弾が動きはじめてしまったグエナヴィアは、エグランタインと同じ手法で助けることができなかった。

「……私の呪いは、祝福に戻った?」

「そういうことだ。《修復》の魔術――致命傷を負っても、かならず完治する、とびきりの祝福だ。何度でも死んで生き返ることができるが、その分寿命に影響をきたす。細胞が分裂の限界を迎えたら、それで終わりだ」

 エリファレットはうなずいた。治癒することはできるが、その分寿命が縮んでゆくということだろう。

 『先祖がえり』を起こそうとしたエリファレットの胚は、途中でそれが失敗し、いわば呪いと祝福が混在した状態だった。クリスパーを用いて魔術配列を置換することで、遺伝魔術も正常な形に戻ったということである。

 首から下げた香水瓶ヴィネグレットの鎖を握りしめ、エリファレットは不思議な感慨を味わった。十六年間自分を苦しめていたものが、こうも呆気なく消えてしまうものか、と。

 宿願は果たされた。

 では――これから、自分はどうなるのだろう?

「あの――」

 意を決して顔を上げたところで、飛び跳ねまわるクリスパーが紅茶のカップに落ちた。クリスパーはサイラスの怒声も意に介さずふわふわと宙に再浮上する。

 それを掴み、容器ケースに押し込んだところで、「何だ?」とようやく物言いたげな視線に気付いたサイラスがエリファレットを向く。

「お伝えしたいことが」

「勿体ぶらずに言え。どこか痛いのか?」

「……いえ。そういうわけではなく。私……」

 唾を飲む。継承権を返還したいのですが、とエリファレットは慎重に続けた。

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