冠冕を捧ぐ Ⅲ

「そもそも、遺伝病を治療するために薔薇鉄冠を得るのが目的であって、王位継承にはもとから興味がありませんでしたし」

 気まずい沈黙が波紋のように広がるが、迷わず先の言葉を口にする。

「私は学園ガーデニアで何も知らずに暮らしてきたのであって、私が女王になることを歓迎する人がいるとは思えません。私は相応しくない――そうですよね?」

 一息にそう言い終えたところで、サイラスは無言のままだった。

 煩悶するように一度片目を眇めたかと思うと、不意にその場を立つ。

 無遠慮な言動に呆れ果て、場を去るのかと思いきや――大股で歩み寄って、彼はエリファレットの真横に立った。

 椅子に腰かけたまま、エリファレットは体の向きを変えると、逆光のなかにある顔を仰ぎ見た。

「……先ほどの問いですが。私は生きるためにあなたを利用しました。それでもしあなたを傷つけてしまったなら、謝ります。でも……」

「――エグランタインが言っていた」

 彼が口にしたのは意外な人物の名だ。

「俺はお前たちの尊厳を傷つけ続けていたのだと。先代陛下の代替品としての人生を歩ませようとしたと」

 小さく息をき、「悲しみと怒りで目の前が曇り、何も見えなくなっていた」そう懺悔をするように弱弱しく続ける。

「すまなかった」

 力なく肩を落とした男に、拍子抜けする。深く項垂れた彼を前に、エリファレットは慌ててかぶりを振った。

「ええと……私の場合、失敗作呼ばわりされたり、グエナヴィア様の記憶を移植された以外は、大きな弊害は被っていませんので。それに、サイラスさんだって、必死だったんですよね。先代陛下の遺伝病を完治させるために、がむしゃらになって……」

 ――結果として、あやまちを犯してしまった。

 もし何も知らない立場だったら、公然と彼を批判していたかもしれない。しかし不幸にも、エリファレットは〝知って〟いるのだ。

 サイラスがグエナヴィアを救うことに命を賭け、どんな犠牲を払うことも厭わず――その人生を捧げてきたか。

 彼を突き動かすのは純然たる愛だ。それも、身をき尽くすほどの熱量の。

 自分に向けられた感情ではない。蓄積された記憶によって知ることができただけで、本来自分には関係ない感情だ。サイラスは、エリファレットがグエナヴィアの複製クローンであり、同じ顔、同じ声、同じ遺伝病を持っていたからこそ――救うと決めたに過ぎない。

 好都合だった、と言うこともできる。

 しかし、エリファレットはその残酷な現実を前に、抑えようのない痛みに胸をかきむしられた。

「お前がそう言い出すことは予想していた。俺だって本気で――お前を女王にしようとしていたわけではない」

 エリファレットがグエナヴィアと同じ振舞いをすることで、サイラスは喪失の痛みを紛らわすことができた。目を背けることができた。

 生き残るために、互いを利用した。エリファレットは彼の心の傷を、サイラスはエリファレット自身を。利害が一致した末に出来上がった関に過ぎない。多大な愛を受けたグエナヴィアと比較して、本当は誰も自分自身を必要としてはいなかった。

「いくつか困難な問題はあるし、完全な自由を約束できるわけではないが――お前の意思を尊重できるよう、最大限努力する。十七年ぶりに帰ってきた俺の発言力などわずかだが、宮廷も貴重な戦力である先祖がえりを手離したくはない……と思う。ナサニエル側に迎合すれば、解決できることもあるだろう」

「……ありがとうございます」

 言葉少なに、エリファレットは言った。

 迷った末に、両手の拳を硬く握りしめる。そして少女はぎこちなくその場を立った。

「今更こう言うのもおこがましいですが、『ご褒美』をあげます」

  ドレスの裾を持ち上げてテラスの階段を降りる。前庭に立ち、エリファレットは長い髪を揺らしてサイラスを振り返った。


「――わたくしを見つけなさい、サイラス」


 ――これが、最後の『演技』だ。




 アージェンタ城の前庭に設置された薔薇の迷路園は、一度も足を踏み入れたことがなくとも、不思議と迷わず歩くことができた。

 地表を覆う芝生を踏みしめ、薔薇の垣根に囲まれた小径をそそくさと進んでゆく。途中で誰かの視線を感じたが、特に気にせず奥に突き進んだ。

 サイラスには十分後に探しに来いと言い付けてある。グエナヴィアが好んだ迷路園の道を、彼が熟知していないはずがない。捕まることを承知で、エリファレットは目についたオレンジ色の薔薇の木立を前で足を止めた。

 あたり一面、春薔薇の盛りだ。甘い花の香りで肺がいっぱいになる。吹きすさぶ春の風が色とりどりの花びらを舞い上げ、小さな竜巻を作ると、視界を覆った。

 風の音にまぎれ、かすかに地面を踏む音が聞こえた。サイラスが来たと思い、背後を振り返った彼女の視界に映り込んだのは、太陽を反射する金属の光だった。

 凶刃が――瞬く間に自分に迫りくる。

「――――ッ」

 その刃が彼女の腹部を突き上げようという瞬間。

 

 聞き慣れた声が耳朶を打つ。自分に覆いかぶさる寸前だった男の両肩を、泥で構築された巨大な腕が掴み、引き剥がす。

「サイラス!」

 地面に拘束された男の前に、サイラスが立つ。

 すると、短剣を逆手に持ちかえた男は、一度、その強い炎に燻された瞳でエリファレットをねめつけると――迷うことなく、その先端で自分の喉を切り裂く。

「グエナヴィア様…………!」

 自害する寸前、男がはっきりと口にしたのは、ここにいるはずのない女の名前。

 喉から空気の漏れる異音が響き、血が噴出する。エリファレットは瞠目したまま、顔を背けることも忘れ、その光景に見入った。

 それを呆然とした顔で見下ろし――

「…………女王グエナヴィア崇拝者だ」

 サイラスはぽつりと呟いた。


 ◇ ◇ ◇


 エリファレットを殺害しようとしたのは、現役の宮廷魔術師だった。

 二十年以上宮廷に仕える男で、グエナヴィアに対する忠誠篤く、献身的に働く男だったという。彼女の死にはひどく落ち込んだようだったが、それでも出仕は一日たりとも休まず、ここ最近も見かけ上大きな変化はなく見えた――というのは、事件の数分後に駆け付けた衛兵に聞かされた話だ。

 その事実を前に、エリファレットは愕然とした。

 ――悪夢は終わっていなかったのだ。


「ん……っ、……っ」

 柔らかい寝台に押し倒されたエリファレットは、サイラスに唇をむさぼられていた。血に濡れたドレスを脱ぐことも許されず、男の体はけるような擦過熱をもたらし、頭の上でひとまとめにして両手首を拘束する腕力からは逃れられない。

「―――っ……」

 酸素を求めて唇を開けば、熱い舌が口内に侵入し、容赦なく蹂躙しようとする。――その行為が、気の遠くなるほど長い時間続いた。

 そしてふとサイラスの動きが止まったことに気付き、恐る恐る視線を向けると、あの恍惚とした――いつか見せられた――柘榴石の瞳が見えた。

「……だめだ」

 そして、力なく、掠れた声で、サイラスは囁いた。

「行ってはだめだ、エリファレット……」

 その瞳から、透明な滴がこぼれ落ち、少女の胸もとに落ちる。吸い寄せられるようにそこに頭を預け、サイラスはすすり泣く。

「どんな困難からも……死の淵からも救ってみせる……だから……だから俺を見捨てないでくれ……ひとりにしないでくれ……!」

 両肩を震わせる男を呆然と見下ろし。エリファレットは解放されてなお痛む手を伸ばすと、ぎこちなく彼の頭を抱いた。

 まだ――グエナヴィア様の代わりにするつもりなのか?

 思い浮かんだ考えは、エリファレットの頭を真っ白にする。先程の事件をきっかけに、彼が安定を欠いたのは明白だ。グエナヴィアを失う恐怖がリフレインしたのだ。

「わたしは……グエナヴィア様では……」

「そんなことはわかっている!」

 サイラスは絶叫し、エリファレットではなく、その真横にある敷布シーツを殴った。

「わかってはいるが……エリファレットを前にすると……俺の心はかき乱されてしまう………。切り離そうとするのに……切り離せない……」

「…………そうですか」

「俺をそのかいなで抱いてくれ、エリファレット……。俺を安心させてくれ……。俺はちゃんと、お前を死の淵から救えたか?」

 迷った末に、小さく首肯した。

 男の頭を左胸に押し当てると、心臓の音を聞かせてやる。すると子どものように耳をすり寄せ、サイラスは目を瞑った。

「俺を愛してくれ、エリファレット……。グエナヴィア様のようでなくてもいい……俺を愛してくれるなら、俺はいくらでも強くなれる。どんな無理難題にだって応えられる……だから……」

(ああ……)

 眩暈がする、とエリファレットは思った。

 最初にあやまちを犯したのは、誰だったのか。

 彼に生きる意味を植え付けたグエナヴィアか?

 エリファレット失敗作を産み出してしまったサイラスか?

 彼の心の傷に触れた、自分だったのか?

 遺伝病を克服するため、薔薇鉄冠が必要だった。それだけのはずだった。

 しかし結果として、失ったものは想像より多かった。残酷な真実を前に、癒えがたい心の傷さえも負った。

「……わかりました」

 逡巡した末に、エリファレットは深呼吸をし、一度だけうなずいた。

(今の状況を……すこしだけ、嬉しいと思う自分がいる)

 すべてを捨てて学園に帰ったところで、自分を必要としてくれる人がいない現実は変わらない。しかし目の前の男は、グエナヴィアでなくともいいから、生きるためにエリファレットが必要だという。

 これは、エリファレットがグエナヴィアの影に打ち勝つチャンスかもしれないのだ。

 それに、完全に女王位と縁を切ることが難しいことは、先程の事件からも想像に難くない。件の宮廷魔術師のような女王グエナヴィア崇拝者――あるいは王位継承権を持つ自分をつけ狙う輩が現れる可能性を鑑みれば、早いうちに手を打って悪いことはない。

 グエナヴィアのように多くの愛を集めるほどでなくとも、自分の身を守る存在が必要だ。

「あなたをひとりにはしません、サイラス。……私はグエナヴィアではないから、改めてあなたにお願いします」

 サイラスの頬を両手で包むと、エリファレットは彼の目元を覗き込んだ。

 柘榴石ガーネットの虹彩は澄み渡り、そのものが宝石のように輝く。深い赤色に染まった美しい瞳に自分の顔だけを映すことを、グエナヴィアは望んだのだろう。


 そしてまた、エリファレットも。


「――私を救って、サイラス」

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