胃が痛いんだ
「あいつ帰らせて!お願いだから!!」
クレアがボスと外出している日を見計らって昼食時間に待ち合わせ、久しぶりに二人だけで入った狭いダイナー。
小さな椅子に大きな身体を乗っけて、トレバーは泣かんばかりに肩を震わせている。
「僕、胃が痛くて食欲もないし……寝つきも悪くなってさ」
健啖家の彼にしては大変珍しいことに、死体の肌色をしたバナナブルーベリースムージーだけが彼の前にあった。
確かにここ数日、夫の顔色が悪いようにはカティも思っていた。
「あんたほんとに神経細いなぁ」
そう言うカティの前にあるのもクレジットカードほどの大きさのホットビスケット一つとミントティだけだった。
お互い、じっと相手の顔を見つめあった。目元も頬も、張りを失ってやつれている。その瞳の中に、疲れた顔をした自分が見つめ返してくる。
トレバーは何だかすっかり悲しくなってしまった。
それもこれもクレアのせいで、彼女を招き入れ可愛がっているカティのせいでもある。
「あの部屋は君だけじゃなくて僕の部屋でもあるんだからね! もうあいつ嫌だ!」
「まあ落ち着け」
異様なほどのカティの落ち着きように反比例して彼は不安になっていく。
「クレアのせいで僕の体調はボロボロだよ! 君だってなんか変だよ物置なんかで寝ちゃって!」
「……」
「僕と一緒に寝てよ! カティがいないと怖い夢見ちゃうよ!」
言ったあとで、数日前に自分の身に持ち上がったことというか持ち上がらなくなってしまったことというか、それをカティにいつかは告げなければならない恐怖に改めて背筋が凍った。
もうどうしていいのかわからない。
彼は卓上の紙ナプキンを何枚も使って洟をかんだ。
「じゃああんた、クレアと一緒に寝たらどうだ。夢見だってきっといいぞ」
奇妙な冷静さでカティが言った。
「はぁぁ?」
「クレアにはいろいろ聞いた……」
トレバーの手がぐっと力がこもり、爪が白くなった。
「あのアマが何て?!」
カティは答えをはぐらかすように、柔らかいビスケットを指先で割り、身を乗り出してきたトレバーの口元に蜂蜜が滴るそれを、ほれ、と持っていった。食欲はなかったが、彼はぱくんと口に入れ二、三回噛んで飲み込んだ。
「……なぁ、トレバー、クレアっていい娘だと思うだろ?」
「全っ然思わない」
「こないだ中華食いに行ったとき、テーブルの下で手ぇ繋いでたじゃねえか」
血色が悪かったトレバーは更に青ざめ、浅黒い頬が鉛色になる。
「あっあれは……クレアが強引に! すぐ振り払ったよ」
「いいんだぜ別に。クレアを嫌うふりとかしなくたって」
「は?! クレアとは何でもないって! わかってるだろ?! 僕はあいつが大嫌いで」
「クレアにはトレバーのいいところを毎日ずっと教えてやった。きっとうまくいくぞあんたら。もうちょっと押してみろ。押すっつっても私にやったようなのはだめだぞ。もっと紳士的にな」
「ちょっと! 僕の話ちゃんと聞いてる?!」
「これでも私は退きどきは弁えてるつもりだ」
「話を聞け!!!!」
眼鏡の奥で、目の縁に盛り上がるほどに涙を溜めてトレバーは喚いた。もう食事どころではない愁嘆場だ。
カウンターの客が二、三人、聞き耳を立てている様子でちらちらとこちらを見ている。
「トレバーと暮らすの結構楽しかった。だいぶダメなやつだったけど、あんた可愛げあったし。だけどなんか違うっていうか」
「そういうこと言わないで! 僕ら結婚してまだ一か月じゃないか!」
カティはぞっとするほど優しい目をしていた。
骨ばった手が伸びてきて、ぎゅっと握りしめている大きな手に置かれた。
カティの手は心臓に響くほどに冷たかった。
「気の迷いで結婚はしたがな、ずっと何か間違ってるって気がしてた。あんたが可愛かったり、面白かったり、優しかったりすると怖かった」
「言ってる意味がわからないよ! 僕がもっともっとひねくれて、意地悪かったらよかったってこと?!」
わからねえだろうな、と彼女は思った。
他者と共にあること、そこに慣れ、素の心を曝すことの恐ろしさ。
一緒にいる時間が長く、穏やかであればあるほど、壊れたときの惨めさが増幅されていくのを感じる。
壊れる予兆があれば、ぐずぐずと泥沼に踏み込まず自分の手で壊したい。
傷付く自分などいない。いつだって、笑っていられる自分でいたい。
「あんたさあ、私しかやれる相手がいねえから結婚しただけで、好きだっつったのも自分でそう思いこもうと努力してただけだろ? 今やっと自分で本当はどんな女が好きなのかわかったってとこなんじゃねえのか? クレアは可愛いし気立てもいいしな。やれるってだけが取り柄のブスとは大違いだ」
やれるという取り柄も消失してしまっていることも知らず説くカティにトレバーは気絶しそうな気分になった。
「そういう話はやめて!」
気絶したい。そうすればきっと目が覚めたらきっと隣にはカティがいて「あん……トレバー朝っぱらからもう……」的状況になっているはずだ、という白昼夢すら脳内にフラッシュする。
しかし物理的ダメージも持病もない中気絶するのは至難の業だ。
とりあえず現実を直視すべく、彼はカティを詰った。
「何勝手にものわかりのいい自分に酔ってんの?!! カティの馬鹿!!」
いつも冷静で他人を見下すような態度のくせに、裸踊りをしたり突然独り芝居が始まったりしてカタルシスしている妻は、トレバーが何度おかしいと指摘し矯正しようとしても周囲の人間が幸せになるためには自分は幸せでいてはいけないという思い込みが捨てきれない。
「馬鹿はトレバーだろ」
「君がねぇ!! あのクソビッチを家に入れなきゃ僕らこんなことにはならなかったんだよ!!」
「クレアはビッチじゃねえ!!」
もう自分でもわけがわからなくなっている彼は、言えばクレアを可愛がっているカティに誤解されさらに軽蔑されるのではないかとくよくよ悩んでいたことをつい叫んでしまった。
「十分ビッチだよこの上なくビッチだよあんな悪質ビッチ見たことないよ! 気持ち悪いんだよ君にいい顔しながら僕にも色目使って!!!!!」
ランチを摂っていたビジネスマンたちが一斉にトレバーとカティを見た。
トレバーの言葉に、カティが怪訝そうに呟いた。
「クレアからはトレバーがアプローチかけてるように聞いてるんだけどな???」
「はあああああああああ?!嘘だろおおぉぉあのクソアマあああぁぁ!!!」
「クソアマ言うな。クレア、トレバーに見つめられてるとか手を握られたどうしようとか言ってたぞ?」
「僕よりあのアホロートル信じるっての?! いい加減目を覚ませこのブッチ」
「ブッチじゃねえって」
「あいつは僕らを嵌めに来たんだよ絶対!! 僕はこんなに清らかなのに!」
客の誰かが「……きよらか」と呟くのが聞こえた。
カティが声の聞こえた方へ「殺すぞ」と言わんばかりのガンを飛ばす。
こっちを見ていた客は一斉に自分の前の皿に向き直った。
「じゃあ何で今まで黙ってたんだトレバー。あわよくばって思ってたってのもあるんだろ?」
「ずっとずっと聞いてほしかったよ! でも君いつもいつもクレアといるし……言うのが怖かったし……」
「怖い?」
「君、僕がクレアについてなんか言うとめちゃくちゃ怒るし、言うと絶対変な風に誤解するだろ?! だからクレアには穏便に出ていってほしかったんだよ!! 大体あわよくばなんて思ってたらクレアに帰れとか言わないよ!」
「本妻のところに愛人が来たら普通の男は泡食って帰らせようとするもんだろ?」
「変なドラマの見すぎ!!」
「……」
目を赤くして身体を壊すまで耐えた気弱な男の顔をカティはじっと見つめた。
「……ちょっと最初から話を聞かせろ」
トレバーの手首のカフスを捲りそこにある腕時計の文字盤を見て、彼女は言った。
「ただし、3分で」
その日、クレアはいつものようにカティの腕に手を絡め、白い息を吐きながら「家路」を辿った。
カティがトレバーを避けるようになったのをクレアは喜んでいた。もちろんおくびにも出さず、自分のせいだと心を痛めるふりをしながら。
そうしてうまい具合に壊れ始めている様子に、独りウェディングドレス姿の自分なぞ思い浮かべてみたりしている。
「ねえ、今度ドレスをお店にオーダーしたいの。つき合ってくれない?」
「ああ、いいぞ」
「カティのも一緒に作ろうよ」
あどけなくクレアが言い、とんとんとリボン飾りのついたブーツを鳴らして雪を落とす。
足の方はすっかり治ってしまっているらしい。
「何で?」
カティもコートをばさばさと払っている。
二人はぴったり寄り添って温まっている部屋へ入った。
「ただいまトレバー」
「おかえりカティ」
キッチンでは先に帰宅していたトレバーがエプロン姿で火の通りを見ようとじゃが芋を突っついていたが、カティを見ると抱きついて少し屈み、軽くキスをした。
――あれ?
急によりを戻したように彼らがキスをしたのを見てクレアは思わず不機嫌な表情を浮かべた。傷から膿が滲みだしているのを目の前に突き付けられるような生理的嫌悪感を覚えている。
冗談めかしてカティが言った。
「今日は寒いな。今日はトレバーんとこで寝よう」
「……ほんと?」
「あんたはあったけえからなぁ」
トレバーが照れたように笑い、もう一度カティにキスをした。
小さな声で彼が「楽しみだよ」と言うのを聞き、クレアはキッチンボードの上のナイフをちらっと見て歯を食いしばった。
青い双眸の視線の行方を二人は見ていた。
……ほら、始めるぞ
……うん
ふと、トレバーがつまらないことを言い出す。
「あ、カティ……マシュマロがないんだけど」
「またマヨネーズで和えんのか」
「うん」
カティは演技抜きで渋い顔をした。
トレバーはマシュマロとフルーツをマヨネーズとホイップクリームで和えたものが好きで度々作るのだが、彼女は前から気持ち悪く思っている。
「そこの右の抽斗にねえか?」
「なかったよ。買いに行こうと思ったけど今手が離せないんだ。頼んでいい?」
「じゃあちょっと買ってくるわ。いろんな色の入ったやつだろ」
「いや今日はストロベリージャムが入ったやつがいい」
「おえっ」
そう言いながらもコートを着ながら出て行こうとするカティに、クレアが追い縋り小さく言った。
「わたしも行く」
「寒いからあったかくして待ってろ。30分くらいで戻る」
「いや……トレバーと二人にしないで」
不安そうにクレアが言う。
その切なげな、幼さの残る顔をカティはじっと見つめた。
この表情。
これにかまけて、自分は他のことが見えなくなりかけていたのだ。
しかしまだ「信じたい」という気持ちもある。
カティは黙ってクレアの頭を撫でてにっと笑って見せ、出て行った。
可憐にわななきながらカティを見送り終わった途端、クレアの可愛らしい作りの顔から表情が一切消える。
もちろんクレアにはカティと一緒に買い物に行く気などない。
彼女は、カティにはトレバーから好意を寄せられて迷惑していることを匂わせておき、トレバーにはその気にさせるようやんわりと、ときには露骨にアピールして「とあるシチュエーション」へ持ち込もうと躍起だった。
トレバーと二人になる不安は訴えておいた。カティに罪悪感を持たせるには絶好のチャンスだ、とクレアは踏んだ。
その頃、トレバーはキッチンで、カティが朝レモンとハーブに漬けておいた鱈をオーブンに突っ込んでミトンを外しながら一息ついていた。
本当はマシュマロなんかどうでもよかった。
カティを女性として知ってから、多分彼は幸せだった。
だが、試練というべきなのか何なのか、今まで味わったことのない死にたくなるような思いをさせられてきたことも確かだ。
彼は複雑な気分で犬のように小さく鼻を鳴らした。
そのとき。
「ねえトレバー」
背後からの声に、彼は振り向きしゃちこばって答えた。
「何?」
「今朝ソファにファンデーションの染みをつけちゃったの。さっきまで忘れてて」
「だから?」
声が硬い。警戒心に満ち溢れているトレバーと対照的にクレアはあでやかな微笑を浮かべている。
「申し訳ないんだけど、シーツを交換してもらえないかしら」
トレバーは唇をへの字に結んだあと、言った。
「じゃあシーツ剥がしといて。すぐ持ってくるから」
「ありがとう」
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