トウモロコシ色のヨークシャーテリア
時計は1時を回っている。
サイラスの部屋でスクワット1000回以上に加えエアロバイクで隣の州までエア走破したあと、地下鉄に乗ってトレバーは帰宅した。
静かに錠を回し、藪を伝う夜行性動物の足取りで部屋へ入ってきたトレバーは少し開いたドアからリビングを覗いた。
細く差し込む廊下からの灯りに、背凭れと肘掛を倒してフラットになったソファの上の金髪がつやつやと光る。
そしてこの部屋の元々の主、痩せぎすのそばかす女が「招かれざる客」を抱きしめ、金髪にそばかすだらけの鼻を突っ込んで前後不覚に寝入っている。
女性客に対しどんなに失礼なことかはわかっていたが、彼はリビングへのそのそと入って行きソファの横でしばらく二人の寝顔を見つめていた。
カティは柔和な表情を浮かべている。この表情は14日前まで彼の腕の中にあった。
カティはただのシスターフッドのように言っているが彼は不快でたまらない。それを狭量だと責められてもどうしようもない。
そして自分はクレアにどう接すればいいのか。
カティに言うべきか言わざるべきか。言うにしても何と言えばいいのか。
今の気分を例えるならば、心身が砕けそうなほどに疲れて這いずってやっとたどり着いた温かい寝床に、トウモロコシ色のヨークシャーテリアが糞をしていたような気分、というのが一番近いだろうか。
彼がそっと二人に背を向けたとき、小さな声が上がった。
「………トレバー」
ぎくりと振り向くと、眠ったままクレアが苦しげに眉根を寄せ、寝返りを打った。
肉体的にも精神的にも疲労しているところへそんな寝言を聞き、張り倒されたような衝撃で頭の中がわやくちゃになる。
彼はしおしおとリビングを後にし階上のベッドルームへ行った。
クレアは細目を開けて、トレバーの悄然とした後姿を眺めた後、ふと笑みを浮かべてもう一度寝返りを打ち、カティの腕を自分の身体に巻きつけ、温かい胸に顔を埋めた。
そしてまだ日も昇らぬ冬の朝が来た。
「わたしね、料理も少しはできるの! 明日、朝ご飯はわたしが作るわ! カティはゆっくり寝ててよ」
昨晩そう言ったクレアはすっきりした気分で目を覚ました…はずだった。
夜中、肝っ玉の小さいでかぶつが変質者のように寝顔を見に来たのであほらしい寝言を呟いてみせると逃げて行った。
暗がりの逆光でもよくわかる、胃痛でも起こしたみたいなあの顔は……実際起こしていたのかもしれないが……夜半に目覚めてぼやけた目にもなかなかに愉快だった。
なのに今、クレアの心中の言葉で表現するところの「優しく気高く美しい」カティが隣にいない。先に起きて身支度でもしているのかとも思ったが、部屋中しんと静まり返って物音一つしない。
――まさか……まさか!!
薄明るくなってきた青灰色の空気の中、小さな白い足がスリッパも履かず冷たい階段を音を忍ばせて上がっていく。
ベッドルームのドアノブを華奢な手が握り、じわりじわりと捻った。鍵はかかっていない。
昨晩のトレバーよろしく、クレアは細く開けたドアの隙間からベッドルームを覗き見た。
そこにはダークな髪色の頭が二つ、寄り添っている。クレアの眼が険しくなった。
――バカにして!!!
深夜に帰宅したトレバーはくよくよと思い悩みながらも疲れから熟睡してしまい、あの後トイレに起き出したカティが寝惚けて隣に潜り込んできたのさえ知らない。
しかし大事なものが手元に戻った感覚はあるらしく、例のごとくカティの身体をがっしりと抱き、下半身を摺り寄せて長く重い脚をのせていた。
カティがもぞもぞと動く。それに呼応するように、トレバーの呼吸が一瞬乱れ、ぐいぐいと頬を寄せる。
クレアはベッドに乗り込んで二人を引き剥がしたくなる衝動を何とか押さえ込んだ。
――いいわ、じゃあわたしが不幸のどん底のその下のずんどこに叩き落としてやるわよ!
――見てなさい!
携帯のアラーム機能が作動し不快な音を立てている。
トレバーが目も開けずにアラーム音を停止させるべく手を動かすと、何か温かいものに触った。
鳶色の髪とそばかすが点々としたうなじが目に入る。
…やっぱり、なんだかんだ言っても僕の奥さんなんだよねぇ。
寝不足にも拘らずトレバーは非常に甘ったるい気分になる。
生理期間とは眠いものらしく、カティはいつもより若干寝汚い。微かに 血の匂いの混じるキルトの中の温かい空気をトレバーは何度も嗅いでは「僕はエッチな人間です」と言わんばかりのうっとりした表情を浮かべ、彼女に腰を擦りつけた。もっとも性欲旺盛な10代をすっ飛ばして今の今になって性生活を楽しんでいるのだから無理もない、と言えばそうかもしれない。
昨晩生理初日だったということは、手を触れずとも湿潤であるということは一度強引に経験済みだ。
ちらりと様子を伺う。カティは起きる様子がない。
そっとカティの下着ごとパジャマのズボンを下ろそうとしたとき。
「そろそろ起きて! 朝ごはんできてるよ~!」
階下から鈴を振るような細く澄んだ声がした。
カティはぼんやりと目を開ける。その前には彼女の夫がいる。
「……おう……トレバー、おはよう」
「うん」
「昨日は遅かったな……お疲れさん」
もごもごと呟き、また長い睫毛に縁取られた瞼が閉じかける。
階下からの声は続く。
「クランペット焼いたの! 食べてみて!」
彼には敵襲を知らせる金管楽器の音色に聞こえた。
部屋でくつろいでいるときはもちろん、買い物に行っても、食事に出かけても、今までの彼の位置にはクレアが居座り、得意そうなカティがクレアの美貌を二度見する男どもを睥睨している。その後ろを、荷物を持たされ自分の存在意義を問いながらのっそりトレバーはついていく。
そんな中でも一番嫌なのはカティの目を盗んで、クレアが意味ありげに見つめてきたり寄り添って来たりすることだ。
彼をちらちらと見つめながらアイスクリームやバナナを奇妙な舌づかいで食べて見せたときやテーブルの下で手を握ってきたときには汗が顎から滴り落ち、カティに発熱を疑われた。
一事が万事この調子だ。実際この生活が続けば長生きはできない気がしている。
彼は幾度となく、クレアを家に帰すようカティに泣きつき、クレアにも帰るよう懇願したのだが効果はない。
「わたしここにいたいの。一瞬でも長く、好きな人と一緒にいたいと思うのって当然でしょう?」
そう言いながら彼の手を取り、そっと白い頬に押し当てられたとき彼は総毛立った。
カティはカティでトレバーに触れられるのを一切避けるようになった。気付けば少し離れたところで腕組みをし、奇妙な目つきでトレバーを凝視している。
そして、夜、トレバーが引きとめ自分と一緒に寝るよう頼み込んだにも関わらずカティは「この狭さ最高」などとわけのわからないことを言ってストレージにキルトやクッションを持ち込み鍵をかけて寝るようになった。
今もカティはクレアのちびっこい尻をヒットアンドアウェイで触り、クレアがきゃんきゃん吠えるのを楽しんでいる。
「やっぱ野郎のケツより女子のケツはやわっこくていいなぁ!」
「やだ! トレバーが見てるでしょ?!」
彼は黙って、洗って乾かした靴下を組にしながら、床にひっくりかえって泣いて駄々をこねる子供の気分を味わい尽くしていた。
ささやかな腹いせに、アドヴェントカレンダーのチョコレートを彼は全部開けて食べてしまったがカティは気付きすらしない。
10日目になっても帰る様子のないクレアに、トレバーは胃痛を起こした。
それだけではない。
ストレージで寝ようとするカティを捕まえ、強引にベッドルームに連れて行ったときに恐ろしいことが発覚した。
……とうとうカティにも勃たなくなってしまった。
やっと叶った動物的本能の充足が、数か月で終息してしまったことになる。
突然の恐怖に竦み上がり思考停止した彼の下からカティはあっさり抜け出してストレージへ行ってしまったのでおそらく気付かれてはいない。
トレバーはその夜、カティの寝ていた辺りに顔を埋め、目から「赤い玉」が出るほど泣いた。
彼は誰にも、もちろんカティにもそのことを言わなかった。あれほどはしゃいで、大騒ぎしておいて言えるわけがなかった。
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