藁の羊

「ねぇサイラス、ひどいと思わない?」

 自分に会いたかったというクレアの台詞だけを端折って、トレバーは友人に不満と不安をぶちまけ、同意を求めた。

「タクシー降りたら、社屋までお姫様抱っこ要求したんだよ! 厚かましいにもほどがあるよあいつ!」

「俺にはご褒美にしか思えんがなぁ」

「僕は新婚さんなの!! カティ以外の女は汚らわしいの! ああもうあんなの抱っこしたなんて不潔不潔ううう!!!」

「お前って本当にわからん」

 生暖かいカップをトレバーに渡して、サイラスが合成材フローリングの床にどかりと座った。カップの中にはタンパク質が変性しないギリギリの温度、風呂水程度に温めた濃いプロテインドリンクがたぷたぷと入っている。

「今日は冷えるからな。温めてやったぞ」

 温めたせいでくせのある臭いが香料の匂いを押しのけ、湯気と共に立ち昇る。

「なんで温めるのさ! 臭くて飲めないよ!」

「そうか。じゃあ冷めてから飲め」

 サイラスは迷彩タンクトップにトレーニングパンツという出で立ちで鉄アレイを軽々と弄んでいる。チャレンジしてみれば鉄アレイでジャグリングくらいできそうだ。

「だけど彼女頑張り屋だな。今日、びっこ引きながら普通に踵の高い靴で歩いてた」

 クレアは甘ったるいデザインのプラットフォームシューズをロッカーに何足か置いていて、とっかえひっかえ履いているのだが、足を痛めていれば到底履けない代物だったし、それ以前に痛くてロングブーツなど脱げないだろう。

「はあ?!単なる馬鹿だろ?!そんなの芝居だよ」

 タオルで汗を拭きながら、サイラスが言う。

「芝居でも何でも、今日はお前とクレアの話題でうちのフロアは葬式状態だったんだぞこの色男が」

「僕自身が葬式状態だよ!」

「そのうち何人か、カティにご注進に行ってたようだったが」

「そいつらマジで死ねばいいのに」

 サイラスは死魚の目つきのトレバーにぬるくてまずいプロテインを再度勧めた。

「それ飲むと、身も心もすっきりするぞ。俺はいつも悩み事があるとそいつをジョッキで一気に……」

 サイラスは味覚音痴だというのは確かだった。

「僕、このバニラのどろどろ無理」

「チョコもバナナもストロベリーも切らしてるんだ。贅沢言うな」

「でも無理。臭いよ」

「じゃあ俺が飲もう」

 一気に飲み干すサイラスの唇の端から一条、どろどろした白いプロテインドリンクがこぼれ、それを手の甲でダイナミックに拭う。

 トレバーはゲテモノを見る目つきでそれを見た。

 サイラスは法悦に至るには足りなかったらしく部屋の片隅へと近寄った。

「サイラス、僕おうちに帰りたいよ~」

 サイラスはルームランナーの設定を弄っている。ここは、これを置くために一階の賃貸物件を探しまくって見つけた部屋なのだ。確かに二階以上の部屋でこれを使用すると階下の住人は心穏やかに生活できないだろう。

「帰ればいいだろ」

 筋肉崇拝主義の金髪マッチョはどかどかと走り出した。

「でも帰るのが怖いんだよ~」

「じゃあ、文句ばっかり言ってないで、トレーニングで恐怖を乗り越えろ!」

「え~?」


 夕食を済ませてのんびりとリビングでくつろぎながら、クレアが言った。

「トレバー、今日は遅いのね」

「ああ、出張でルーチンワークが溜まってただろうしな」

 カティはクリスマスツリーにぶら下がった素朴な麦藁細工の小さな動物やファーザークリスマスに触れた。

 カティとトレバーが二人で、近所の公園のクリスマスマーケットに行って買ったという素朴で……というには少し拙ないオーナメントだ。

 カティはクレアに見えない枝の陰で藁の馬2頭を交尾のかたちに組み合わせて遊び始めた。


 トレバーが出張に行く二日前、彼らは仕事帰りにクリスマスマーケットをぶらついていた。二十年前にドイツ系コミュニティが始めたちっぽけなマーケットもアットホームな雰囲気はそのままにほんの少し大きくなり、この地域の冬の風物詩になっている。

 元々、カティもトレバーもクリスマスツリーをはじめその手の飾りを一切持っていなかった。そんなものを買う金があれば、カティは障がいを背負った弟に送金していたし、トレバーも機能不全な家庭で育ち、クリスマスツリーを見ると何か強迫観念じみたものを覚えていた。

 なのに恐るべし新婚パワー。

 彼らは気の迷いそのままに、クリスマス飾り一式を買いにのこのことやってきたのだ。

 グリューワインをいくつかの店舗で飲み比べ、ピカンナッツのケーキやオーナメント用ステンドグラスクッキー、クリスマス仕様のものすごい緑と赤のキャンディケインを手当たり次第に買うトレバーをカティは制止しようとしてやめた。


――すっげえ楽しそうだな、こいつ。


 クリスマスマーケットの目玉は当然クリスマス飾りだ。

 手が込んだミラー細工やエナメル手描きのボール。

 金色の小さな松ぼっくりを抱えた小さな手縫いのクマや万聖節の聖人。

 白い本物の羽毛を背負った天使の人形。


 きらびやかに賑わっている露店から離れたところに人がほとんど立ち止まらない店があった。

 位置決めの籤運が悪かったとしか言いようのない、客の動線上から外れた位置に小ぢんまりと、東洋系の老人が口下手に藁細工の少し歪んだ動物を売っている。

 いくつかは売れたようだが、とにかく地味で他の露店のように飛ぶように売れているわけではなかった。

 ぶらぶらと歩いて二人はその露店に立ち止まった。カティが藁の羊を手に取る。その角、その体格は人に飼われふわふわと優しい羊ではなく、山岳に住み戦う野性の羊のものだ。

 二人はじっと藁細工を眺め、売り手の老人を見た。表面が割れてぽろぽろと剥げている合皮の手袋をつけ、右手を左手で擦っている。古いウールのコートの破れ目には丁寧な針目でつぎが当たっていた。

 売り物を並べている折り畳みテーブルの端から、ぴょこんと小さな男の子が顔を出した。

「メリークリスマス!」

「メリークリスマス、ジェントルマン」

 恭しく言ったトレバーに彼は頬を上気させた。ジェントルマンと呼ばれたことがうれしかったらしい。早速売込みが始まる。

「あのねこれおじいちゃんが作ったんだよ」

「へえ、上手だねえ」

「病気になる前はもっとうまかったんだって」

「リハビリで作ったものでして……昔はもっとうまく作れたもんですよ」

 ちらりと目を上げて、力なく老人が呟いた。やっと二人は、この老人に少々言語障害があるらしいことに気づいた。

 そして、昔の指の動きを思いながら懸命に藁を編む彼の姿を想像する。

「おじいちゃんのわらの動物は、セカイイチなんだよ! 買ってソンはないよ!」

 老人の孫はくりくりした目で洟をすすり、子どもらしい毛糸のミトンを着けた手でテーブルを指し示す。彼は優秀なセールスマンだった。

 全くサイズが合っていない彼のジャケットの袖が汚らしく黒ずみ、どこもかしこも擦り切れて糸が垂れ下がっているのをカティは注視し、一瞬少女のような目でトレバーを見た。

 カティはこの手のシチュエーションに全く弱い。

 彼は彼で、そこにいる連中みんなに「これ僕の嫁!優しくてマジ聖女!」と見せびらかして回りたい欲求にとらわれる。

 無邪気なセールスマンの勝ちだった。二人とも実にちょろい。

「これ、全部ください」

 老人は呆れ顔になった。

「他の店のはあんなに綺麗なのに、うちのをそんなにたくさん買うなんて」

 彼は行き交う人々がこの動物たちを買う目的をよく知っていた。欲しくて買うのではなく、施しのつもりなのだ。ひょっとすると、買った後すぐにゴミ箱行きなのかもしれない。

「僕らはこれが欲しいんです。うちのツリーにぴったりだよねえカティ」

 カティが軽く口を引き結んで頷く。照れているときの表情だ。

 彼がカティの前で駄々っ子と化すように、最近カティも少しずつ与えてもらえなかった温かみに手を伸ばし、汲んでもらえなかった思いをおずおずと態度に表す。その瞬間、彼女は内面の葛藤が伺える実に複雑な、そばかすだらけの頬にキスしたくなるような顔をする。自分がどんな表情をしているか、カティ自身も知らないのだろう。

「ありがとうございます」

「ありがとうかっこいいお兄さん!!」

「君の動物たちが買えてうれしいよ」

 トレバーが藁細工を受け取っている間にカティは屈み、小声の早口でちびっ子セールスマンに尋ねた。

「おいちび、アレルギーとかあるか?チョコとか卵とか、バターとか食えるか?」

「うん、大好きだよ!」

 トレバーの様子を伺いながら、買い込んだ菓子の中から大きなチョコの塊がごろごろ入ったクッキーを素早く抜き出して、ちびっ子セールスマンのポケットにそそくさと捻じ込む。

 しかし小さなポケットにはうまく収まらずはみ出してしまう。

 トレバーに見えないように自分の身体の陰に幼い販売員を隠し、カティはまた早口で言った。

「これな、爺さんと一緒に食え」

「ありがとう美人のお姉さん!メリークリスマス!!」

「声がでかい!」

 カティは唇に指を当てて黙るよう合図しながら一瞬破顔し、すぐにまた口の端を引き結ぶ。藁の匂いのする紙包みを手に、それをトレバーは面白そうに眺めていた。

 そういうO.ヘンリー的な経緯でこの部屋にやってきた藁の動物で、小さなモミの木は飾られていた。


 今の状態が不自然に思えてならない。

 一人でない自分。

 誰かを支えにしようとする自分。

 それを何となく、認めたくない。

 一体何で結婚なんかしちまってるんだろう。

 今の暮らしは悪くない。

 でも今までそうだったように、そう遠くないうちに壊れるときがくる。

 だから、今の自分も、この暮らしもにせものだと思っとくくらいでちょうどいい。


――そう。

――にせもの…だよなぁ…


 藁の編み目を撫でているカティに、クレアはそっとしなだれかかった。

「ねえカティ」

「ん?」

「トレバーって、もてるんですってね?」

「ああ、そうだってな」

 カティはクレアの頭にそっと顎をのせた。

「もし、トレバーが浮気とかしたらどうする」

「あいつは多分浮気なんかしねえよ」

「真面目に考えて。本当に浮気したら?」

「ん~~~~」

 少し考えてカティは言った。

「あいつが本当に浮気できたら、それは浮気じゃなくて本気だ」

「…………」

「そしたら私は身を引くしかねえな。私とあいつが結婚したのはあいつに選択の余地がなかっただけだし」

「……どういうこと?」

 カティは笑って首を振り答えなかったが、自分に話しかけるように言った。

「だけど、次にあいつが誰かに惚れたら、私は喜んでやるべきなんだと思う」

 それこそが当初彼女の思い描いたトレバーへの「責任の取り方」だった。

 クレアはカティの顎の下、目を細めた。

 満足した猫のような表情とは裏腹な沈んだ悲しげな声で彼女は小さく話しかけた。

「……わたしカティを傷つけたくなくて黙ってたんだけど」

「?」

「トレバーが何だか、わたしを……」

「トレバーがどうした?」

「ううん、なんでもないわ。多分気のせいよ」

「変なやつだな。気のせいでもいいから言ってみろよ」

「ほんとに何でもないわ!忘れて?ね?」


 クレアは、不安さを一抹匂わせた、不自然に明るく吹っ切った声で打ち消す。

 この芝居がかった言い回しに、却って何か引っかかるものをカティは感じた。

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